02 魔法使いを名乗る少女
「辛いときは泣いてもいいよ。でもね、美味しいものを食べて、温かいお風呂に入って、お布団でゆっくりと眠ることは忘れないでね」
幼いとき、僕が学校から泣いて帰ると、母はそう言って頭をなでてくれた。その夜の夕飯は決まって大きなオムレツを作って一緒に食べた。オムレツは僕の大好物だった。
母は僕と違い感情を表すのが得意だった。小学校の卒業式でこらえきれず泣いていたし、僕が中学の制服に腕を通したときは、弾けるような笑顔を僕に向けた。
その母はもういない。病にかかり、血を吐きながら死んだ。僕を無条件で愛してくれる人は一人もいなくなってしまった。
……蝉の鳴き声が聞こえる。なにかやわからいものが頬に触れている。優しく、撫でられている……。
母さん……?
ゆっくりとまぶたを開けると、僕を覗き込む大きな瞳と目があった。
「あ、よかった! 目が覚めたんですね。急に気を失うからびっくりしましたよー、気分はどうですか?」
少女だった。眉を寄せ、目元を潤ませながら、僕のほっぺたに手を当てている。
「……僕は、大丈夫、です。あなたは……?」
「私は元気ですよ!」
「いや、そういう意味ではなくって……」
床に手をついて上半身を起こす。僕は書斎の床に寝転がっていたようだ。
少女は行儀よく正座して輝く目を僕に向けていた。僕は少女の格好に目を奪われた。つばの長い三角帽子。ゆったりとしたローブ。裾からわずかに覗く足はとんがった靴を履いている。
そして全てが黒かった。光の反射がまったくないその黒は、彼女の薄雪のような肌と、桜色の唇、そして煌めきを宿した黒い瞳と相まって、妙な不安を掻き立てた。
この姿はまるで……。
僕は目を強くつむって頭を振った。状況にまるで追いついていない。僕は確か黒い本を手にとって……気を失った? この少女はなんだ?
目を開けると変わらず少女はそこにいる。
「ふふ、混乱しているようですね。無理もありません」
先程の心配した表情から打って変わって、得意そうに彼女は口を開いた。
「私は魔法使い。あなたと契約して、世界を救うためにやってきました」
そう言って彼女は僕を指差した。
家にいながら帰りたいと思ったのは、生まれてはじめてだった。