体の声は届かない
「うわぁ・・・、また乗ってるで」
「乗ってる? あー体重計?」
「そうそう。そーっと乗って、ドキドキしとる。そーっと乗っても重さは変わらんのに」
「減るかもしれへんで?」
「減らんわ」
「いや、万が一ってことが」
「ないわ」
「そうか。ま、乙女心やんか。わかったってよ」
「乙女って・・・この人、もう三十路ですけど?」
「お肌ぴちぴちの三十路女子やんか」
「え、でも、膝とか肘、ガッサガサやで」
「それは、言うたらあかん」
この会話をしている私たちは、人ではありません。人の一部分、部位。私たちは、とある女性の目と耳。私が耳で、ダイエットをバカにしていたのが目です。
びっくりせんといてください。私たち部位は、話せるんです。人間が感知できないレベルで、会話しています。会話といっても、無駄話をして暇をつぶしているわけではありません。ま、さっきみたいなあほみたいな会話もたまにはありますが・・・。部位の主である人間の健康を維持するために、情報交換しているんです。すごいでしょ? だから、もし、あなたが足の痛みに悩んでいるなら、足に話しかけてみてください。
「ここが痛いね。痛いよね。ごめんね。今まで無理強いさせて。いつも本当にありがとう」
はい。これでOK。痛みが消えてなくなる・・・・・・わけではありません。そんな簡単ではない。ですが、話しかけることはとても大切です。言葉で感謝を伝えてくれると、部位は喜びます。嬉しくなって、気持ちが前向きになり、痛みが改善することもある。これは本当。
だけど、素直な部位ばかりじゃない。たった一回の『ありがとう』で治ることもあれば、感謝をし続けても改善しないこともある。ま、部位の性格は持ち主に似るので、痛みが取れないからって、怒るのはお門違いです。
話が横道にそれてしまいました。
要するに、最初に登場した会話は、耳である私と、目が、持ち主の健康状態を心配して交わしたものだった。なのに、なんであんなあほみたいな会話になってしまうのか? いつも不思議に思う。目がまた、話し始めた・・・。
「あのなぁ、三十路っていう大台に乗ってしまったら、“ぴちぴち”の称号は過去の遺産になるねん。それは覚悟してもらわな」
「日本女性の平均寿命知ってる?」
「知らん。急になんやねん」
「87.32歳」
「よう知ってるなぁ」
「ラジオで言ってた」
「87才まで生きる女の、30才がぴちぴちじゃなかったら、後の57年間どうしたらいいの? なんの称号くれんの?」
「せやなぁ・・・カサカサとか、よれよれとか?」
「自分、ほんまネガティブやな」
「目の方が衰え早いから、先々のことが心配やねん。耳遠くなるのはまだまだ先やけえど、老眼は早かったら10年後やで」
「悪い方だけに目を向けるのは、あんたのあかんとこ。いい方を見つけて、ぴちぴちに持って行くのが、私たちの役目やんか」
ネガティブ思考の目を励ますことが、私の日課になっている。全くもって、疲れる仕事だ。
持ち主の話をしよう。
持ち主は体重をすごく気にしている。体重計に乗って、減ってないと、暗いため息をつく。でも、減らす必要ある? って、言いたい。ちょうどいいよって。仕事でオフィス街歩きまわるんだし、ちょっとくらい肉ついてた方が魅力的なのに。
痩せることより、身だしなみをどうにかしてほしいと思う。目が言ってたけど、美容院行く暇ないから、髪の毛伸ばしっぱなしらしいし、時間がないから、化粧も3分で済ませる雑さらしい。服も、社会人7年目なのにリクルートスーツみたいな無難なやつばっかり着てるから、「年取った就活生かよ」って目がツッコんでた。気にするのは、体重じゃなくて、そういうとこだよ。
そんなことを、直接持ち主本人に言えたらどんなに楽だろうって、いつも思う。部位の気持ちは、なかなか持ち主に伝わらない。
持ち主は、自分を気遣う余裕がない。
朝はギリギリまで寝て、食事する暇もなく、素早く身支度して『老けた就活生』になって出かける。ストッキングに窮屈なパンプスでアスファルトの上をコツコツと早歩きして、15分。ようやく駅に着く。この15分がどれだけ足と腰に負担をかけているか、わかってない。その後、満員電車に25分。ストレスだけの25分。
コンビニで菓子パン買って、会社のロッカー室で立ったまま食べる。とりあえず空腹を満たすだけのガソリン補給。この時の咀嚼音は、世の中にある音の中でトップ5に入るせつない音だ。
そして、働く。また、アスファルトの上をコツコツと歩き回り、会社や店に入って、なんやかんや説明して、相手に買ってもらったり、断られたり、門前払いになったりを繰り返す。
同僚や先輩は、上司と客の文句ばっかり言っている。持ち主はそれを聞くのが嫌で、皆と距離を置いている。持ち主のこの行動は、耳として助かっている。悪口を聞くのは、かなりのダメージになる。悪口の場から遠のいてくれるのは、ありがたい。だけどそのせいで、持ち主は職場に一人の友人もいない。
持ち主はほぼ毎日残業する。
仕事を一人で抱え、いつまで経っても終わらない。パソコンで苦手な事務処理を永遠とやっている。誰にも助けを求めない。足はパンパンに張って、腰はギシギシ、肩はゴリゴリ・・・。しかも、晩ご飯はスナック菓子だ。手が汚れない系の、食べながら作業できるようなものを選んでいる。それでは私たちに十分なエネルギーが回ってこない。いつまで自分の体をいじめるつもりなんだろう?
私は、目に話しかけた。
「そろそろ、そっちも疲れてきたんちゃう?」
「まあ、パソコン画面見すぎて、しょぼしょぼはしてるけど、まだいけるで」
「ちょっと! いけるとか言ったらあかん! 休まな! 自分、持ち主の性格に引きずられてるで」
「あ、ホンマや。頑張る教に入信してもうてた」
「このままいったら、この人、また終電まで働くで」
「そうやな。いつものコースやな・・・こうなったら、あれ、やっちゃうか」
「ああ、あれね・・・本人にはきついけど・・・」
「本人もやし俺にとってもな・・・でも何もせんかったら、この人仕事やめへんしな」
「そうやね。じゃあ、やろか」
私の同意を得て、目は『ふん!』と踏ん張るような声をあげた。
「イタッ」
持ち主が声をあげた。さっきの踏ん張りは、持ち主の目に激痛を起こさせるためのものだった。これが、『目に限界がきてますよ』と持ち主に伝える、部位の手段なのだ。
持ち主はあまりの痛みに、唸り声を上げている。よしよし。はい。残業は終わりにして帰ろ帰ろ。
カチャカチャカチャカチャ・・・。
「嘘やろ・・・」
目が呟いた。私も信じられない気持ちで、“カチャカチャ”を聞いていた。
「なあ、もしかして、持ち主、キーボード、叩いてんの?」
「おう・・・左目ぎゅっとつぶって、右目だけで画面見て資料作っとるわ」
「まじで・・・?」
いい加減にしてほしい。体が悲鳴をあげてるってことが、全然伝わらない・・・。結局、持ち主は、終電ギリギリまでパソコン作業を続けた。
持ち主が駅の階段を猛スピードで駆け上がる。終電の出発時刻が迫っているのだ。窮屈なパンプスを履いている足には、地面から容赦ない衝撃が響き続ける。
「だから早よ帰れって、言ったのに」
目が愚痴る。私も全くの同感だ。
なんとかギリギリ電車に飛び乗った。ぜいぜいと荒い呼吸の持ち主。心臓もドクドク脈打っている。混んでいるから、座って休むこともできない。周りの乗客たちの声が聞こえてくる。仕事帰りに一杯飲んできたサラリーマンたちのぼそぼそと話す声。会社の、得意先の、子供の、妻の、不平不満を言い合っている。暗く疲れ切った声だ。でも思う。このサラリーマンたちは、私たちの持ち主よりずっと幸せだと。愚痴大会だったとしても、お酒を飲みながら、仕事仲間と気持ちを共有している彼らの方が、持ち主よりずっと自分の時間を過ごしている。愚痴を聞かされる耳には同情するが、持ち主が激痛に耐えながら叩く、パソコンのキーボードの音を聞かされるより数段ましだ。
ようやく家に着いた。
「おかえり」
と、珍しく持ち主の母親が出迎えた。いつもは寝ているが、娘が連日深夜に帰宅してるんじゃ、さすがに心配なんだろう。
「少し、休みもらったら? 有給あるんでしょ?」
母親が心配げな声で言った。でも、この発言は微妙だと思った。休んで、と優しく気遣いながら、反面お金のことを持ち出している。
「普通の会社なら、ちゃんと有給くれるでしょ?」
こんな言い方じゃ、娘の体より、給料の方を心配しているように聞こえる。持ち主の母親は、いつもこういう不安の塊のような慰めをする。そのせいで持ち主は、何があっても踏ん張ってしまう。
「うん。あるよ有給。でも、使うのもったいないし、いつかまとめて旅行行く時に使うから」
旅行? 仕事の奴隷のこの持ち主が、いつ旅行するの? 連休なんか、取るわけがない。でも持ち主は、これが母親の期待している答えなのだとわかっているから、こう答える。いつもこうやって母親の考えを先回りして生きてきた。それがクセになって、自分自身も母親の考え方と同期してしまった。持ち主は、お金がなくなることがものすごく怖い。だから仕事を必要以上に頑張ってしまうのだ。
でももういい加減、自分の気持ちに向き合って生きていかなければいけないのに、毎日仕事で頭が満杯だから、ほったらかしにしたまま、日々が過ぎていく。
こんな生活を、もう7年も続けている。そろそろ生活を見直さないと、とんでもないことになってしまう。そんなに猶予がないということは、耳である私も、目も、他の部位も、みんなわかってる。気づいてないのは持ち主本人だけ・・・。なんとも皮肉な話だ。
「もうあれしかないね」
私は言った。この決意ある呟きに、目も同意する。ついに奥の手を出すことに決めた。それは、スルーすることができない痛みを持ち主に与えること。心臓に、心停止寸前の激痛を作り出してもらい、持ち主を強制入院させる作戦だ。
“心”臓に痛みを授けることで、『このまま休まなかったら、体だけじゃなく、“心”も死んでしまうよ』という裏メッセージもある。痛みは、私たち部位が唯一与えられた、“悲鳴”の伝え方なのだ。
それでも持ち主が気づいてくれなかったら、繰り返し心臓に痛み加える。本当に心臓が停まってしまうかもしれない。持ち主も死に、もちろん目も耳も他の部位も死ぬ。だから、この作戦は最後の賭けだった。私たち部位は命をかけて、人生を見直してほしいと、持ち主に訴える。
「激痛を与えるタイミング、どこがいい?」
と、心臓がたずねてきた。
「そうやなぁ。やっぱり、仕事中がええなぁ。同僚と一緒に営業している時に、お客さんの前で痛みを訴える。これはさすがに持ち主も病院行くやろう」
と、私が言うと、「いいね! OK。まかして!」と心臓が明るく答えた。これを聞いていた目が急に割り込んできて、心臓に文句を言った。
「これさ、死ぬか生きるかの大事な勝負やねんで! やのに、なんでそんなに陽気なん? 君はあほなの?」
「あほはやめてよ! 失礼ね!」と、心臓はまた明るく答えると、その理由を語った。
「あたしさ、これまでずっと、持ち主のストレスをダイレクトに味わってきたのよ。急にバクバクとか、きゅーとか、ザワザワとか、もうせわしなくてしょうがなくって、疲れ果ててるの。だから、今回のミッションはようやく来たチャンスなわけ。成功したら、平穏な時間を過ごせるんだと思ったら、つい明るくなっちゃったの」
「そうやったのね。ごめんね。目が文句言うて」
「ううん。気にしてないよ」
「ありがとう! 絶対成功させよね」
「うん。ま、でも失敗したとしても、あたしが止まって死ぬだけだし。みんな道連れね。ハハ」
「・・・」
前向きキャラかと思ったら、心臓はやけくそになっていただけだった。それほどストレスをダイレクトに味わう日々は、つらかったんだろう。情緒不安定になる気持ちもわかった。ここは一致団結して、なんとしても、持ち主に気づいてもらわなければ。
今日も持ち主は外回り。でもペアを組んでいる男性社員とまったく会話をしていない。というか、持ち主が話しかけても、男が返事をしない。ずっと不機嫌なようだった。一年先輩のこの男。持ち主より成績悪いからか、何かと突っかかってくる。予想通り、3軒目の会社で、客が席を立ち部屋で2人きりになった時、持ち主を責め始めた。「商品説明が長い」とか「でしゃばんな」とか言っている。こいつはこんなこと言うけど、実際、持ち主の方が説明がうまいのだ。ずっと聞いている、私、耳が言うんだから、間違いない。
「今ちゃう?」
目が声をかけてきた。そうだ! 心臓激痛のタイミング、まさに今だ。
「おい。お前、文句言いの先輩。持ち主、見捨てんなよ。お前は持ち主が嫌いかもしれんけど、ちゃんと助けて、救急車呼んで、介抱しろよ。それで、お前のカブも上がるんやからな。わかったか?」
目が発破をかける。先輩に聞こえないのが惜しい。心臓が「いくよ!」と言った。瞬間、血の流れが止まった・・・。
「うっ!!」
持ち主のうめき声が聞こえた。
「どうした・・・?」
先輩の不審げな声が聞こえた。
「うっううう・・・」
目が「ええぞ。ええぞ。倒れろ! 早よ倒れろ!」と、応援している。
「おい・・・。大丈夫か? 胸が苦しいのか?」
先輩の声に、不安の要素も加わってきた。いいぞ。救急車を呼ぼう!! 入院して、仕事休もう! でも・・・
「いえ・・・大丈夫です。何でもないです」
持ち主が放った言葉はこうだった。嘘をついて、平然を装った。そこへ客が帰ってきたので、持ち主は営業の続きを始めた。先輩もそれ以上何も言えなかった。私も目も唖然とした。心臓は呆れて、痛みを起こすのをやめてしまった。血が再び流れ始める。体調を取り戻した持ち主は、いつもより流暢に営業トークを弾ませた。
「なんでや? なんでそんなに我慢する必要がある? あの腹立つ先輩に、弱みを見せたくなかったんか? そんなプライドのせいで、体をないがしろにすんの? あーもうホンマ腹立つ。俺、この体から降りたいわ」
目の言葉が、私たち部位みんなの気持ちを表していた。そしてその夜。ついに私たちの堪忍袋の緒が切れた。昼間、心臓に激痛食らったのに、持ち主は今夜も残業するため一人で会社に残ったのだ。
私たちは、ようやく気づいた。
持ち主は、孤軍奮闘してでも働く、度を超えた頑張り屋さんだと、好意的にとらえていたけど、実は違った。持ち主は、『一生懸命頑張っている自分』が好きなのだ。『体がボロボロになってもこんなに頑張っている自分』が大好きなのだ。だから仕事がやめられないんだ。仕事を『やらされている』と思っていたけど、持ち主が『自ら進んで』やっていたんだ。
「もう、トドメさそう」
と、目が言った。その声は絶望に近かった。この持ち主に、改善の見込みはない。だから、今、一人で残業しているこの時に、心臓に暴れてもらう。助ける人がいない、今、この場所で。持ち主を助けるのは、自身の『生きたい』という気持ちだけ。本人にその気がないなら、私たち部位も生きてる意味がない。ま、今の生活を続けていたら、遅かれ早かれ体の機能は停止するだろうし、この『トドメ』は妥当な判断だろう。
持ち主は、何も知らずにパソコンをカチカチ打っている。まさかこの後、心臓が、昼間の数倍痛くなるなんて、考えてもいない。このオフィスが最後の景色になるかもしれないことを、持ち主は想像もしていない。かわいそうな奴。いや、こんな持ち主を持った私たちの方が、かわいそうか・・・。
「じゃあ、そろそろやっちゃうわ」
と、心臓は淡々と、自分の中の血液の流れをストップさせた。
「うっ!!!」
持ち主が、苦しみだす。昼間より声が大きい。床に倒れたようだ。椅子に座っていられないほどの痛みなのだろう。唸り続けている。まじでつらそう。でも、自業自得だからね。
「あ、電話見てるで」
目が気づいた。持ち主が、苦しみながらも、机を見上げたらしい。頑張って手を伸ばせば、電話に届く距離。救急車を呼べる。
よかった、と思った。本当はそうしてくれることを願っていた。一人の時に、死を目の前に突き出したら、この自己陶酔型の持ち主も、生きようとしてくれると信じていた。でも・・・
「嘘やろ・・・」
目の絶望的な声が、また響いた。持ち主は、伸ばしかけた手を床に降ろして、再び上げる素振りを見せないと、目が言った。
「救急車を呼ばんくても、その内治るやろうって、高をくくっとんのやな? こいつ・・・ホンマなめとる!」
目の言葉を聞いて、私は、何か違うような気がした。
「もしかしたら、持ち主、死んでもいい・・・って、思ってるんやない?」
私の予感は、体全体に響き渡り、部位、すべてに伝わった。
『死んでもいい・・・』
持ち主が、強くそう思っている。たぶん私の予想は当たっている。
「そうか。そう思ってんのか。持ち主がそう決めたんなら、しゃーないか・・・」
怒りを通り越して、疲れ果てた目が言った。その意見に、部位たちも同意する。体全体に、あきらめと覚悟が広がり、静まり返っていた。持ち主は、完全にフロアに横たわってしまったようだ。仰向けになって、天井を見上げていた。入社してから、長い時間過ごしてきたオフィスの天井をじっと眺めていた。
「あれ? おいおい。どうした?」
目が急に驚きの声を上げた。
「泣いてるで・・・」
持ち主の目から、涙があふれてきたのだ。その涙は目尻を伝わって、髪を濡らし、そして、私の所にまで達した・・・。耳の私が涙を感じるなんて、初めてだった。この生ぬるい液体に触れながら、私はなんとも言えない気持ちになった。持ち主の人生、本当にこんなことで終わっていいのか? こんな悲しい終わり方、ありえへんでしょ!
「ほんまにええの? これで終わりにして、ほんまにええの!?」
私は、思わず大声を上げた。持ち主に届かないとわかっていたけど、叫ばずにはいられなかった―――――
どこからか、声が聞こえた。
『・・・・・・終わりにして、ほんまにええの!?』
どこからか、というか、体の中から響いてきたような感覚だ。泣きながら、もう死んでもいいやって、思ってたけど、今の声で我に返った。
「このまま終わりにして・・・いいわけないでしょ!!」
口に出して言ったつもりだったけど、ちゃんと声になっていたかはわからない。わたしは、鉛のように重く感じる腕をなんとか上げ、机の上の電話に手を伸ばした。でも、奥の方にあって届かない。体を起こそうとしたけど、そこまでの力は出てこない。腕を上げているのも、もう限界に近い。
ああ、やっぱりだめなの? このまま死んじゃうの? 嫌だ嫌だ。絶対に嫌だ。この殺風景なオフィスで死ぬなんて、絶対に嫌!
わたしは、最後の力を振り絞って、腕を伸ばした。・・・・・・でも、電話には届かなかった。伸ばした腕から力が抜けて、ひゅるひゅると机から落ちた。
もうだめか・・・。
と、絶望した時、コトン、と何かが落ちる音がした。
それは、スマホだった。
そうか。わたし、机の隅っこに、自分のスマホ、置いたんだっけ。そのこと、すっかり忘れてた。わたしは、本当に最後の力を振り絞って、スマホを握り、救急車を呼んだ・・・・・・。
遠くに救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員の人がやってくるのを感じた時の安堵感は、なんと言葉にすればいいのだろう? とにかくその時、『私は生きる』と自分に誓った。
病院に着き、迅速な治療を受け、私の心臓はなんとか機能を取り戻した。お医者さんには、「あと数分遅かったら、命はありませんでしたよ」と言われた。
『・・・・・・終わりにして、ほんまにええの!?』
体の中から聞こえたあの声がなかったら、わたしは今ごろ、どうなっていただろう。想像するだけで恐ろしい。
今現在、もうだいぶん回復して、明日からでも会社に行けるけど、休職している。たっぷり溜まっている有給をとことん使って休んでやる。
そして、鋭気を養い復帰したら、一人で仕事を抱え込むような働き方はやめよう。できないと思ったら、「できません」「助けてください」って言おう。そうしないと、今度は本当に死んでしまう。
そう決めたら、なんだか体中が緩んできた。今まで一瞬たりとも気が抜けなくて、入れなくてもいい力を、無理して入れていたんだな。そう気がついて、ほんの少し涙が出てきた。
『そうや! ええぞ! 上出来や!』
体の中から、また声がした・・・ような気がした。・・・そういえば、なんで関西弁? 訳が分からなくて、フフッと笑った。わたしは、わたしの体を抱きしめて、言った。
『いつもありがとう。これからもよろしくね』
おわり
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
以前、本で読んだ話なのですが、足を失って、そのことでずいぶん悩んでしまった方がおられたそうです。なくしてしまったことをずっと悔やんで嘆き続けて立ち直れないでいた時に、ある人にこういう言葉をかけられたそうです。
「あなたは足があった時に、足に感謝をしたことはありましたか?」
感謝したことがない、とその方は気がつき、失ってしまった足に改めて『ありがとう』と告げて、そこから前向きになられたそうです。
だいぶん昔に読んだ本なので、少し違っているかもしれませんが、大まかにはそういう内容でした。
体は、いろんなことを私たちに話しかけていると思います。そのことに気を向けるだけでも、幸せな時間を過ごせるのではないでしょうか。
この物語が、あなたにとってのそのきっかけになってくれれば、こんな嬉しいことはないです。
毎月4日と18日頃に、短編小説を投稿しています。
よかったら、また読んでいただけると嬉しいです!!