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紺の水着と迷彩柄と

朝というのは、どうしてこうも辛いものなのだろう。


眠気が満ちる部屋の中を駆け巡る、甲高いベルの音。その音に対して、ここ数年の生活においてもはや反射的にすらなってしまった動作を嫌々ながらに開始。枕元に置かれた目覚まし時計を投げやりに叩き、白一色の無機質な二段ベッドの上から強引に跳ね起きて…ようやく眠気という誘惑から開放され、その灰色のカーペットの上に立つ。全く、今日だってろくに寝ていないというのに…正直、さも当たり前のように8時間は寝ていた子供の頃が今更ながら酷く羨ましい。


かくいう時刻は丁度朝の4時。窓からはまだ日の光は差しておらず、部屋の中は未だに明けることの無い夜の帳に包まれていた。


「…全く、朝っていうのは日が登ってからだっつーの。」


そんな昭和以前に生まれた年寄りのような愚痴を溢しながら、気を抜けばすぐに落ちてきてしまいそうな瞼を二の腕で必死に擦り、挙句豪快に自分の両頬をビンタ。そこから発生した乾いた音は、静寂を守っていた狭苦しい部屋の中に響き渡り、皆に朝の訪れを伝える…


「ほーら、あんたも早いとこ起きないと…って…」


はずだったのだが、しかしその肝心な伝えるべき相手がもうベッドの上から消えてしまっている。というのも、元々ここは二人部屋。二段ベッドの上が私で、下には本来もう一人の部屋仲間がいた…はずなのだけれど、もはや起きた形跡すら残さず綺麗にいなくなってしまっている。

でも今日は確か、私と同じ時間に起きるので良かったと思ったのだが…ただでさえ朝に弱い私より尚更朝に弱かったはずの彼女が、一体どうしてこんなにも早く起きているのだろうか。


「朝の散歩…なんて、バレたら殺されるよねぇ…」


睡眠時間はやたら短いくせに、その上寝る時はしっかり寝ろって言うんだから、本当に厳しい世界だ、ここは。極めつけには、「いつ何が起こっても対処できるように眠る時も注意を怠るな」なんて…全く無理を言ってくれるものだ。人間にだって一応限界はあるんだってーの。


「…ま、いっか。

どうせどっかでなんかの手伝いでもしてるんでしょ、多分。」


現状を適当に結論付け、その軽いノリをそのままに私は部屋を後にする。道中、自分の鞄から引っこ抜いた洗面道具一式をゆらゆらと左手に引っ提げながら。


部屋を出ると、辺りを包むのはひんやりとした朝の空気。その静けさとこれまた無機質な廊下がその独特な雰囲気に拍車をかけ、その空間は今嫌に神秘的な空気に包まれていた。

…しかし、いくら何でも静か過ぎるだろう、これは。これではまるで、私以外は誰も起きていないような…


「…起きる時間……間違えて無い…よね?」


右手に掛けた腕時計を慌てて再確認するも、そのぼやけた視界に映るのは相変わらずの早朝午前4時半という時間のみ。とすると別段、あの目覚まし時計が狂っていた訳でも無いらしいが…だとしたら私の確認ミスか?にしたって、いつもより早いならまだしも、遅いというのは…どうにもおかしな話だ。他の部屋に確認に行くのも気が引けるし、何よりそんなむさ苦しい空間に自ら入ろうという気にも私とて未だになれないでいた。生憎、男なんて筋骨隆々だろうと何だろうと端から興味無いし。


「…まぁ、とりあえずいつも通り準備といきますか。」


そんな思考も程々に、私はとりあえず自分が合っているという仮定で朝の行動を続行することにした。相変わらずの軽口を叩きながら、彼女は一人静寂が支配する廊下の中を歩いてゆく。…その先で、一体何が待ち構えているのかなんて、知りもしないままに。



「…あれぇ?」


で、あれからかれこれ数十分。顔を洗い、手洗いも済ませ、とりあえず朝の準備は万端。なら次にするべきは…と、いつも通りここまで足を運んで来た訳なのだが。


「やっぱり人…一人もいないんだけど…」


私の目の前を支配する、圧倒的な静寂。それなりの広さを持つこの食堂も、人どころか朝食の匂いの一つもしなければ流石に不気味なものだ。相変わらず飾り気の無い無骨な内装が、その独特の虚無感を無駄に後押しする。

しかし、こんなこと…いかに朝早くとはいえ、それはここではさも当たり前のように行われている一つの常識なのだ。それに加えて今日は、むしろいつもより遅いくらいなのだが、これは流石に…いやまぁ、ここまでで誰にも合わなかった時点でそもそもおかしかったのだが…

だがその次の瞬間、私の意識がその違和感を一つの確かな感覚として認識する。…なるほど、これでようやくはっきりした。


「なんかこれ…

……やばくない?」


そしてその事実を認識したのと、私の体中を嫌な感覚が駆け抜けたのはほぼ同じタイミングだった。

…人が、人の気配が、この建物から消えている。ここにいるのは私だけで、それ以外はただ呆れる程の静寂の海が辺りを覆い尽くすのみ。普段なら騒がしいくらいに賑わっている場所が…そんな状況を目の前にして、動揺しない人間が一体どこにいるだろうか。


しかし、私をここまで動揺させているのにはもう一つ理由があって。


「…いい加減、そこに隠れるのやめてくれないかな?」


そう背後に問いかけるも、応答は無い。

いや、正確にはこれはこれで応答しているつもりなのかもしれない。しかしその応答の仕方が、現状の私にとって最悪なものなのは事実だった。


ぬるりの背後の物陰から現れる、一つの影。人型…ではあるものの、人にしてはあまりにも大きすぎる。加えて全身真っ黒で、どこに顔があるのかすらいまいち判別できないようなまさしく謎の姿。

異形。その一言で納得できてしまう程に、その姿は我々人間にとって異常なものだった。…その影が身に纏う、殺気にも似た異様な気配も相まって。


「…ホント、どうなってんのコレ?

夢…ならいいんだけど。」


その希望的観測が絶望的であることは、朝一場の寝起きビンタで既に確認済み。

つまりこれは、紛れも無い現実なのだ。

今、この建物から私以外の人が消えていて、代わりに現れたのがこの黒い奴。そしてそれが今にも襲い掛かってきそうで、それに対する有効な反撃手段を今の私は持ち合わせていない。


「…拳銃くらい、ここの中じゃ持ち歩いておくべきだったかな…」


傍から聞いていると、どうにも物騒極まりない一言。だがそんなことすら切に願ってしまう程に、現状は絶望的なものであった。

何よりまずいのは、相手の情報をこちらが一切掴めていないということだ。「戦いとは情報戦である」とは上官がよく口にしていることだが、それを今更になって痛感することになろうとは…これでは一体、どこを攻撃すればいいのかまるで分かったものでは無い。というより、そもそも素手の攻撃なんて効くのか、コイツ?


そんなことを考えている間にも、状況は止まること無く動き出す。

黒い影が再びぬるりと動き出し、そのまま辺りを右往左往。しかしそれでもこちらとの距離を一切変えることは無く、それはまるでいつでもかかってこいと私を挑発しているかのようにも見える。だがまぁ、そんなトンデモな化け物からの挑発に乗れる程私とて肝は座っていないが。


でも、何にせよ行動は必要だ。

逃げるか、戦うか、或いは両方…?とにかく、ここでいつまでも固まっていたのでは埒が明かない。


「顎は…あの辺、かな?」


とりあえずの攻撃予定場所に軽く目配せして、攻撃方法はとりあえずOK。次の場所に視線を移し、その後の逃走ルートの確認を開始する。ここから真っ直ぐ逃げるなら最初私が入って来た方の出入り口が一番近いが…それにしたって、私が今出せる最高の全力疾走でも恐らく数秒かかる。武装という武装を一切持っていないこちらとしては…素手でも何でも.奴の動きを一瞬だけでも止める必要があった。

人ならば、動きを止めるのに一番都合のいい一撃は、個人的には無難に顎へのアッパーカット。だがそれが果たしてあの化物に通用するのかは…やってみなければ、分からない。


いや、通用する。しなければならない。もしもしなかったなら、今度は私が奴から一撃喰らうだけの話だ。そして奴の一撃というのが一体どれほどのものなのかは…想像するだけ、体が竦んでしまいそうなので止めておこう。

なら、ここは教え通り…


「行動は迅速に、だよねぇ!」


軽く拳を構えた後、踏み込んだ右脚を起点にして私の全力疾走が開始される。

そしてその小さな背中を、まさに今部屋全体をも覆い尽くさんとするその大きな影が迎え撃つ。それはただ、漆黒の闇と濃密な殺気を身に纏い、中央に不気味な青白い光を浮かべ、そして…


「…ッアァァァーー!!!」


その小さな好敵手に向かって、高らかに、悍ましく、笑って見せた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「…よし、と。」


現在、午前10時20分。日はすっかり南の空へ登り切り、そこから生まれた暖く澄んだ空気がこの異常な現状に唯一の温もりを与えてくれていた。

そんな細やかな温もりの中、ようやく準備を終えた私はその腰をベッドから引き上げる。そしてそのままクローゼットの右隣…少し背の高い、一枚の鏡の前に立つ。


そこに映るのは、一人の少女の姿。と言ってしまえば簡単だが…そこにはまぁ、日本人という前提を無しにしても色々と特殊な点が転がっていて。

一つは、この格好だ。ズバリ、私が今身につけているのは学校指定のスクール水着。伝統的な藍色の中に映える、しかし伝統的とは程遠いシャープなデザイン。自身のシャープな体格(胸部含む)と相まって、いかにダサいスクール水着とは言えど中々様にはなっている…と思う。

しかし、そこにもう一つの特殊性が重なることによって、その見た目はどうにも不思議なものになっていて。


「…はぁ…

ホント、多少は可愛いとは思うんだけどねぇ…」


そう、特殊な点二つ目。それは自身の…私の肌が、やけに黒っぽいことにあった。

東南アジア系…というのも何か違う気もするような、どこか変わった姿。肌は結構な黒さなのに、反して髪はサラサラの黒髪(今は後ろで小さく結んでいるが)でも顔のパーツは比較的日本人寄りで、しかし完全に日本人かと言われるとどうにも違って見えて…要はまぁ、複雑な姿なのだ。


普段、長袖のブレザーと脚をすっぽりと覆うストッキングを身につけていればあまり目立たないのだが…こうして露出の多い服を着てしまうと、やはりどうにも肌の色が目立つ。まぁ、常日頃からこの色黒な顔を晒している時点でもうそういった周囲の目には慣れているつもりだが…やはりどうにも、自分の中での差別的感覚が未だに拭いきれていない。そしてこれは多分、私が一生背負って生きるべき一種の持病のようなものなのかもしれない。


それはそれとして、だ。

何故私が自身の羞恥心を押してまでこんな格好をしているのかというと、それには一応ちゃんとした理由があって。まぁ、既に左手の中に握られている水泳用のゴーグルと完全防水のスマホから、大体のことは察しがつくだろうが。


そう、私が今からしようとしていること、それは…


「…よし、準備完了。」


寝室のドアを開け、そのままの足でリビングを抜け、玄関の前へ。下駄箱の中から適当なサンダルを見繕って、これまた適当に放り出されたそれらを器用に履き揃える。そして玄関のドアノブに手をかけると、そこで少しだけため息を突いて、一言。


「…これ、もし人がいたら辱めもいいとこだよなぁ…」


なんてぼやきながら、その感情を殺すように豪快にドアをオープン。そして同時に…私は初めて、この変わり果てた東京の街へと足を伸ばすのであった。



…で、さてどうしたものか。


長ったらしいマンションの階段をようやく降り切り、辿り着いたのは三階の廊下。この建物自体、どうやら私の部屋と同様に外のような老朽化の影響を受けてはいないらしく、その廊下もいつも通りの真っ赤に染まった小綺麗なカーペットと壁の洒落た花柄を添えた黄色い壁が美しいコントラストを生み出していた。…いつも思うけれど、このマンションって普通に暮らすと一体いくらかかるのだろうか。

ちなみにこれ以上階下に向かうとなると、その先に広がる薄暗い天然プールの中へ飛び込む羽目になる。そしてそうなった場合…多分、そこから外に出るまでは息が保たない。下手に突っ込んで窒息死するよりも、ここで少しばかり頭を捻っていた方がよっぽどマシな判断だろう。


そんな私の頭には、しかし既に一つの答えが考えついていた。というより、この状況なら取るべき手段も一つしか無いはずだし、かく言うその内容といえば…普通なら、到底正気の沙汰では無いような荒唐無稽な内容なのだけれど。

で、その案を実行する為に私が向かったのは、今私がいる三階の廊下の奥…水面と空の色で真っ青に染まった、一つの小さな窓であった。


「さて、まずは確認から…と。」


そう言いつつその埃の詰まって開き難くなった窓を力尽くで開け放つと、今度はその中に小さな首を突っ込んで外の様子を確認する。厳密には下だけ…外に広がっている水面の高さを、だが。

そう、私が今考えていること、それは…


「ここから…は、ちょっとキツイか?」


この窓から、外へと飛び込むことである。


とりあえず、高さはOK。若干の高さこそあるものの、ある程度体制を整えれば何の問題も無く外へは出られるだろう。

だが、問題はその肝心な「体制を整えられる」か否かだ。いくら体が通るとはいえ、それもあくまでギリギリ。そんな場所から体制を整えてからこの高さを飛び込むとなると…この窓は、どうしたって狭過ぎる。これでは勢いもつけられないし、何より入水する時の体制がちゃんと整えられる自信が無い。飛び込みってミスると大変な怪我を負うこともあるって言うし…飛び込みの経験が一切無い私にとって、これは中々の難題であった。


「でもまぁ、やってみるっきゃ無いか。」


しかしその難題に対し、結構な軽口をもって迎え撃つ私。その口振りには、自信というより無気力な感じが強い。それはまるで、もし失敗したとしても大丈夫だろうという保険でも付いているかのように。否、実質付いているようなものなのだが。


窓枠に手をかけ、体を外へと乗り出させる。…なるほど、こうして見ると結構な高さだ。下が水だからまだいいが、これがコンクリートの地面だったなら…多分、こんな馬鹿をやることも無かっただろう。

ただ、逆に言うのならば、


「…下が水なら、余裕っ!」


その言葉を最後に、私は水の中へと身を投げ出す。

狭い窓をやっとのことで飛び越して、ようやく体に落下の勢いがかかり始める。一応、それなりの体制はできている。それに飛び込みの経験が無いとは言っても、水泳のスタート程度ならある程度の理解と経験はある。そして今回もそれを踏襲したスタイル…ピンと伸ばした両腕に頭をしまい込み、脚を伸ばして一直線に水面へと落ちてゆくのだ。

ここまでは大丈夫、後は…ただこの体制を維持したまま、着水を待つのみ…


そんな遅すぎるタイミングでゴーグルをしわすれたこと気付きつつも、私の体はもう街を覆う海の中へと落ちていくのを止めることはできない。そんな状況でできることと言えば、ただその真っ直ぐな体制を維持したまま目を瞑って飛び込むのを待つのみ。


そして私の体は…それこそ恐ろしい程美しく、音も立てずに水の中へと入っていった。…その、今の私では理解できない、別世界の海の中へと。



それから、かれこれ三十分の時を経て。


「…なーんも無いな、こりゃ。」


東京の、それも結構広大な道路のど真ん中で私に私は今浮かんでいる。仰向けになり、手は力無く腹の辺りに置いたスマホに添えて、辛うじて動いている脚だけが今の私を前進させる推進力だ。だがそんなバタ足すらも、今まさに止まりかけようとしていた。


いかに危険で異常な状況であるとは言えど、心の中では少し楽しみにすらしていたこの探索。それがここまで何も無いとあっては、不謹慎ではあるかもしれないが流石につまらな過ぎると言わざるを得なかった。道を覆う水の上を、ただひたすらに泳ぎ続ける…ただでさえ面倒くさいこんな作業の中、しかしそんな私を囲む景色には一切の変化が見られないままなのだ。

人は勿論、その痕跡すら一切無し。最初の方こそいちいち建物の中を潜って確認してはいたが、その全てがただの無駄足と化していた。そしてそんなことを繰り返すこと10回前後、もはや何も得られるものは無いと悟った私は結果こうして今に至るという訳だ。


…しかし、まさかこんな所でこのゴーグルが功を奏すとは…最初こそ「値段が同じなのにこれだけUVカットの機能が付いてるー!」みたいなお得感情で買ったものだが、それがまさに今結構効いている訳だ。もう昼近いこんな時間に、真上を向いたまま屋根も無い晴れ空を見上げていたのではどう考えても目が保たない。かと言って、目を閉じたまま進むのはどうにも癪だという面倒くさがりな私にとって、このUVカットのゴーグルはまさに神からの授かり物も同然であった。


「ありがとう、お母さん…」


そんな私にとっての神の名を静かに呟きながら、仰向けの状態からくるりと回って数分振りの泳ぎの体制。手抜きの平泳ぎを維持したまま辺りを見渡すと、結局そこにあるのはさっきまでと変わらない灰色と水色の世界。最初こそ驚きと不安で恐ろしくすら見えたこの景色だが、ここまで何も無いとなると退屈になってくるのも仕方があるまい。


その退屈さを紛らわすため…と言ってはなんだが、私は水面を強く蹴ってそのまま下…この東京を覆っている水の底へと潜ってみた。

しかし、全く恐ろしい程に綺麗な水だ。水中に沈んだビルの欠片や信号機、そしてこれまたボロボロにひび割れた道路。そしてそれ以外に映るのは…ただ私の口から漏れ出されるゆらゆら揺らめく水泡のみ。普段なら何でもないはずのこれらが、今はこんなにも美しく見えてしまうのは…やはり私も、こんな世界に長居し過ぎておかしくなってしまったのだろうか。

しかし、あんなにも汚れていたはずの東京をここまで透き通った水が覆っているとなると…これは多分、単純に空から大量の水が降ってきたとかそういう訳では無いのだろう。水底までしっかりと光が行き渡っている辺りからしても、この水の綺麗さは恐らく尋常では無い…とすると、本当にここは異世界だとでもいうのだろうか。


「…ぷはぁー!」


そんな水中探索も1分もしないうちに終了し、私は水面から勢いよく顔を出す。肺活量にもある程度自信がある私だが、これ以上は深さ的にも息が保ちそうに無い。一応底までは行くことは可能ではあるが…正直、あまりやらない方がよさそうだ。


少し疲れた、という名義で私は再び仰向けの姿勢に戻る。…やはり、体力の面 と精神の面を考えるとこれが一番妥当な泳ぎ方だ。そしてそのまま手に持っていたスマホ(潜ってる時もしっかり持ってました)を開き、適当に中身を確認後地図のアプリに移動する。幸いGPSは生きているらしく、こういう地図アプリを調べれば今私がどこにいるのかは一目瞭然。しかしそれだけに、私がこれまで泳いで来た道のりがいかに短かったかも痛い程に分かってしまう。

そんな私の現在地は、東京都世田谷区千歳烏山駅の近辺にあるとあるマンションのそのすぐ近く。そして当のそのマンションと現在地との距離、およそ700m。…つまり私は、何だ…結構頑張ったつもりだったのにまだ700mしか進んで無かったのか。


「はぁ…」


これでも一応、うちの高校の割とガチな水泳部から助っ人を頼まれたこともある私だ。そしてその練習会で当たり前のように新記録を叩き出し、毎度の如く水泳部からのガチな勧誘が来る。そんな私でさえもこのざまということは…この事実から見ても、こうしてただ一人この湖の中を泳いで探索するというのは結構無謀な話なのかもしれない。…でも、だとすると…


「でも、じゃあどうしろっての…」


そう、一度こうなってしまった以上もう私としては何もしたものか分からなくなってしまうのだ。このまま意味の無い捜索活動で大切な体力を失うよりも、何なら部屋の中でじっとしながら情報調査に勤しんでいた方が良かったのだろうか。…まさか、ここに来て頭より先に体が動く癖が悪い方向に働いてしまうとは…反省。

ちなみにと言うか、現状私にとっての食料はリビングに貯蔵してあるものしか無い。外のスーパーやコンビニなんて当然やっている訳も無く、このまま無駄な運動を続けてエネルギーを消費していると、もしかしたら食料が尽きて飢え死に…なんてのも十分に有り得る話だ。…とはいえ、何故か電気は通っているので冷蔵庫の中身はもうしばらくは保ちそうだが。


そんなことに思い悩みながらも、私は何気なく手にしていたスマホの画面を開く。困った時はとりあえずスマホに任せる…現代人の困った癖だ。だがそれほどにコイツが便利な代物なのも事実。故に私も、こうしてその文明の利器に自身の運命を委ねているという訳だ。

とはいえ、何を調べるか…現状の把握はほぼ無理なことは分かったし、他に調べることなんて…


「………あ。」


そこで私は、気付く。私が今、一つの過ちを侵してしまっていたことに。


『…これからはちゃーんと付き合ってよね、いい?』


その言葉を思い出した瞬間…体が、震える。私という奴は…彼女にあんなことを言わせておきながら…これは正直、立場が逆だったとしても流石の私も怒るぞ。この寛大(興味が無いとかそんな訳では決して無い、決して)な私が怒る内容ならば、あの若干短気な奏姫が怒らないはずも無い。そんなことすら忘れてしまうとは…一体何をやっているんだ、私。

とにかく、気付いてしまった以上は仕方あるまい。とりあえず被害を最小限に留めるために…と、私は慌ただしげにスマホの画面を切り替えて目的のアプリ…SINEを開く。だが、


「…あれ?」


SINEのメッセージが…殆ど届いていない。

そりゃ一つや二つは届いているが、それも他の友達やもはや友人関係無しの情報系のメッセージばかり。無論、その中に奏姫からのメッセージは一つも入ってはいなかった。

しかし、その代わりと言っては何だか…


「…あれ、これって……

…時雨?」


その数少ないメッセージの中には…私の2つ目の希望になりうるものが、一つ入っていたのだった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


『紅炎、今大丈夫?』


『ん、大丈夫。』


いつまでも水中に浮かんだままというのもなんなので、とりあえず手頃に休めそうな陸地を探すこと数分。立体駐車場らしき場所の3階が丁度水面の高さと一致していたため、現在そこにて休憩中。

いくら私が体力馬鹿とは言え…流石に水の中にずっといると疲れても出てくる。まぁ、それこそ量からすれば水泳部とかの比じゃあ無いんだろうけれども。


そんなさながらプールの授業後の4時間目のような怠さと眠さに襲われながらも、私は今やるべきこと…現状、恐らく私の事情を理解してくれる人との接触を開始していた。それも多分、先程の少しばかり天然が入っているあの友人よりも遥かに頼りになる、そんな友人と。


『それじゃ単刀直入に聞きたいんだけど…』

『紅炎、別に頭がおかしくなったとかそういう訳では無いんだよね?』


『へぇ、残念ながら…』

『これは正真正銘ホントのこと。だから困ってるんだよ、私は。』


ちなみに彼女への情報伝達は奏姫がやってくれていた。いくら情報を共有できる人間が多い方がいいとはいえ、流石にその情報を伝えるのにも骨が折れるし、何よりそんなにポンポンと他人に教えるのも何かまずい気がする。根拠は無いが、そこに関しては意外にも奏姫と同意見だった。

で、その中でも情報を教えても大丈夫だろうというのが…彼女。本名「宮代時雨」。私達にとっての共通の知人であり、親友だ。小さい頃、この3人でそりゃあいろんなことをしたものだ。…本当に、そりゃあ色々と。


で、何故そんな彼女にこの話をしたかと言うと、一応いくつか理由はある。単純にこのメンバーなら話しやすいし、信頼もあるからということもあったのだが、しかし私達二人が彼女にこの事実を打ち明けた真の目的はもっと別にあるのだ。


『…なるほど。

つまりこれ、全部本当な訳ね。』


『はい、左様で。』

『だから助けて?ね、いいでしょ?』


『助けてって、どうやって…』


『そりゃあもう、かの有名人であらせられる宮代時雨様のことですから、少ーしばかり知識を分けていただけるだけでも。』


有名人…ちなみにこの私の言に嘘は無い。実際、確か彼女の名前は数日前のニュース番組で話題に上がっていたはずだ。それも地方のケーブルテレビとかでは無く、しっかりと全国に放送されている有名ニュースの数々(+新聞)。いくら有名人とは言えど、全国放送のニュースで名前を上げられるというのは中々に難しい話。そしてそれを成してしまっている彼女は、実はこの日本の中でかなりの有名人だったりする。こと、とある業界においては。

そしてそこまで登り詰めた知識が、今の私にとっては必要だ。彼女なら、私では思いつかなかったことも或いは分かるかもしれない。そう、彼女なら…


『つまり、助言すればいいってこと?』


『そゆこと。残念ながら、私の頭じゃもう限界があったから。』


『…つまり、私の頭ならなんとかなるってこと?』

『そんな都合のいい頭、してないつもりなんだけど。』


『でも、少なくとも私よりは賢い、でしょ?』

『…ね、小さな竜王さん?』


14歳、女性、アマチュア棋士…

竜王戦におけるあらゆる記録を塗り替え、将棋界の頂点の一つに君臨した伝説の神童。あらゆる天才を凌駕する、圧倒的なIQを備えた(実際に測ってはいないが)究極の天才。


『その呼び方、やめてくれない?』


将棋界から魔王と謳われる、我らが参謀、宮代時雨その人ならば。



彼女がその才覚を見せ始めたのは、確か5歳の頃だっただろうか。

子供の頃から運動神経がいまいちで、それでいて外で遊ぶ気も無い。別段友達がいなかったという訳でも無かったらしいのだが、そんな彼女の性分からかいつの間にか1人でいる時間が増えていった。そしてそんな時に出会ったのが…将棋だ。


と言っても、最初は将棋好きだった父とのちょっとした遊びに過ぎなかったらしい。適当にルールを覚えて、指したいように適当に指す。定石の1つも知らなかった彼女に対して、かくいう父親の方も随分手を抜いていたらしい。

だがそんなある日、彼女はとある運命の出会いを果たすことになる。偶然、父の使っているパソコンをいじっていた(5歳でいじれるって、よくよく考えたらすごいな)時のこと。これまた偶然画面上で見慣れたマークを見かけたもので、興味本位でクリック。そしてそこから現れたのも…これまた見慣れた9×9の茶色の盤面。


「凄い、将棋ってパソコンでもできるんだ!」


当然、やらない理由も無ければ親から止められていた訳でも無かったので、子供ならではの興味に惹かれるがままに、とりあえず遊び半分で挑戦してみることに。

で、結果、


「………」


そりゃあ見事に惨敗したと、彼女が笑いながらに話してくれたことを今でも覚えている。それも相当悔しかったらしく、その日の夜はずっと布団の中で涙と共に夜を過ごしたらしい。そしてそんなことを知りもしない親からは、同じくその日1日ずっと心配をかけられていたようだ。それこそ次の日、頼んでもいないのに彼女の好物にして親が嫌いな食べ物でもあったゴーヤチャンプルー(渋っ!)が食卓に並んだくらいに。


そしてそんなこんなで次の日、彼女は1つの決心をする。その後の彼女の人生を決定付ける、ある重大な決断を。


「…私、絶対あいつに勝つ!」


その日から、彼女の熱い将棋との日々が始まった。将棋についてとにかく色々なことを調べ、聞き、実践し…そんな日々が1ヶ月を過ぎた時点で、実は本気の父親に勝てる程の実力を身につけていた。

だが、相手も甘くは無い。実際の所、父親含めそこら辺にいるような趣味で将棋をやっているおじさま方とは比較にならない程、そのコンピューターの実力はとてつもないものだったのだ。


だが、そんな相手に彼女は勝った。費やした時間は実に3年、あの夜大泣きした5歳の子供はもう8歳になっていた。ある程度の思慮も身につき、物静かな性格も相まってそうそうのことでは情に流されてはしゃいだりはしない。

だが、その日は別だった。画面に勝利の2文字が出た瞬間、彼女は床を転がり回り、叫び、笑った。そしてそれをあちこちに自慢して周り(私も散々自慢された)、親に至ってはちょっとしたパーティー(無論、ゴーヤチャンプルーで)まで開いてくれた始末。そう、その日彼女は自身の人生を変えた究極の存在にようやく勝利を収めたのだ。そしてその時にはもう、既に将棋は彼女の生活の一部となっていた。


で、そのコンピューターがプロをも唸らせる超難関なレベルの存在だったと知ったのは実にその1年後。そして自身の将棋欲を満たすため、とある棋士に弟子入りしたのもその1年後の話だ。そこで彼女は幾多の技術を学び、経験し、積み重ねて…結果、齢15にして竜王のタイトルを勝ち取るに至る。



『…一応、私だって親友が困ってたらいても立ってもいられない訳なんだけど?

『何なら今すぐそっちに向かおうかって話もでてるんだけど。奏姫と2人で。』


そんな天才であっても、やはり1人の友達だ。そんな大事な友達がそうやって心配してくれるのは、多分当たり前のことなのだろう。でもそれは…いや、何ならそっちの方がいいかもしれないな。そうすればもっとはっきり現状が分かるかもしれないし…何より、1人より3人の方が…

…いや、駄目だ。もしそんなことをして彼女達に何かあったら…私には、耐えられる自身が無い。ただでさえ深刻な状況なのだ。こんなことに他の人を巻き込む訳にはいかないし、こんな訳のわからない経験をするのも私1人で十分だ。…まぁ、巻き込んだといえば既に2人は巻き込んでしまったようなものなのだが。


『いいよ、こんな経験するのは私1人で十分。』

『時雨はいつも通り、安全な場所からバシバシ指示出してくれればいいから、ね?』


我ながら、随分と格好つけたものだ。友達を危険な目に合わせまいと、この状況を1人で切り抜ける決意をする。そんな少年漫画の主人公的な展開をさも当たり前のように引き起こすのだから、私も随分主人公慣れしたものだ。これも結局、日頃のゲームやアニメのお陰、なのだろうか。


『…本当、紅炎は変わらないね。』


『そりゃもう、なーんも成長してないからね、私。』


そんな天才からの暖かい言葉に、軽い皮肉をつける私。こんなやり取りも、そういえば随分と久しぶりだ。私がSINEに殆ど手をつけていないのもそうだが、向こうも向こうで忙しかったようなので結局最近は殆ど話していなかった。


でも、変わってないか…

…それは一体、本当にいいことなのだろうか。



『で?私は一体何すればいい訳?』


そんなこんなで、話はようやく本題へと移行する。

ひび割れたコンクリートの上に腰掛け、水面に両足を突っ込んで一休み。日はもう空の頂上近くまで登り切り、その眩い初夏の光が柔らかく私を包んでいた。

本題…となると、確か奏姫から粗方の事情は聞いているはずだから現状の説明は殆ど必要無いとして…


『んー、そうだねぇ…』

『じゃあ、この街がこうなっちゃった理由、何か思い当たる節無い?』


いや、ある訳も無いのは分かってはいるのだが…何せ相手は私とは格の違う天才だ。しかも私が知っている頃の時雨より恐らくその知能は上も上。そんな超常的な存在であるならば、或いはこの超常的な現象についても何か…


『ある訳無いでしょ、そんなの。』


しかし、そんな淡い期待も彼女の一言で軽く一蹴される。

いやまぁ、そりゃいくら天才とは言えどそれは別に将棋に関してだけなのであって。別に物理学とか地理学とかそういうことについて詳しく訳では無いのだろうし、むしろ中卒でプロの道に入った辺り、多分私なんかよりもその辺りの知識は低いかもしれない。そんな彼女にこの原因を分かれなんて言うのも…当然無理な話だ。というか、いくらそういう知識の専門家を世界中から掻き集めていた所、こんな状況の説明なんて絶対につかないとは思うけれど。


『でも、じゃあどうしろってのさぁ…

もう探索すんの疲れたし。』


その文面だけだったはずの駄々から影響を受け、私はその細い両手を伸ばして欠伸を一つ。その後一応地面に危険が無いことを確認した上で、この短時間で心身の疲労溜め込んでいた上半身をその灰色の地面へと横たわらせる。

…とはいえ、ここで音を上げるのはいささか早計だろうとは思う。でもだからといってこれ以上の捜索活動に意味があるとも思えないし、結局どこまでいった所であるのはただ水とコンクリートと…

と、そこで私は1つ大事なことを聞きわすれていたことに気付く。


『あ、そういえばそっちって…大丈夫、なんだよね?』


『ん?別に大丈夫だけど…ここはいつも通り至って平和だよ。』


平和、か…だとしたらこの異常事態、結構範囲自体は狭いのだろうか。仮に被害が円状に広がっているとして、西東京に当たる彼女たちの地域が無事なのだからそれこそ23区がギリギリ収まるくらいの広さ…だろうか?その辺りもきっちり調べておきたいところではあるのだが…


「それも、ちょっと難しいか…」


現状、そんなことをするのには人手が足りなさ過ぎる。そして下手に人手を集め過ぎた場合も、果たして何が起こるか分かったものでは無い。危険を最小限に抑えるためにはやはりこれ以上彼女達に無理をしてもらうのもいいこととは言えない。

なら、まずは考えよう。いくら何があるか分からなかろうと、考えるだけならタダだ。それに危険も無いし、今会話している相手はまさにそれにピッタリの人物。少なくとも、このインターネットも電気も繋がっていてスマホが利用可能な今のうちに1つでも多く一緒に頭を捻ってもらうのが、現状だと最善の判断かもしれない。


「…でも、それにしたって何をさぁ…」


とは言ったものの、一体何を考えればいい?分からないことは山ほどあるが、しかしそれらの1つ1つが絶望的なまでの無理難題。そんなものにいくら天才が頭を捻ってくれたところで、結論は…

…こんなに早くどん詰まりに陥るとは、やれやれ全く今後が思いやられるな、これは。



そんな暗い現実から目を逸らす為、私はスマホの画面からふと目を離し、何気なく空を見上げてみた。相変わらずの眩い日差しが、淀みの無い美しい空気を通してより一層眩しく見える。そしてその光をこれまた美しい水面が反射して、正直目のやり場に困るくらいに世界は眩しく輝いていた。

…何故、こんなに美しいのか。東京に住む全ての…数え切れない程の命がもう消えてしまっているかもしれないというのに、どうしたってここはこんなに美しく見えるのだろう。もし、この現象に何らかの悪意があるのなら…せめて悲惨な死体の1つくらい、残しておいてほしいくらいだ。


そんなことを一瞬でも考えた私が、馬鹿だったのだろうか。

それまで何も無かった世界。何の淀みも汚れも無かった世界にふと混じり込んできたのは、1つの匂いだった。最初はそれこそ薄っすらで、何の匂いかは分からなかったが…本来匂いも含めて何も無かったこの世界で、しかしそれは次第に強さを増してゆく。そしてそれが私にとって…いや、人間という生き物にとって嫌悪感を抱いて当然のものだということも次第に明らかになってくる。


「この、匂いって…」


自然と、足が動いた。間違い無い、この近くだ。…この近くで、何かが…


私の足が進んだ先は、この立体駐車場のさらに上。一体どこまで上がればいいのかは見当もつかないが、この匂いが私の近く…それも上方向から匂ってくるのは1つの事実。そしてそれに身を任せるならば、こうして地道にスロープの上を登っては辿り着いた先で目を光らせる以外に方法は無い。

…しかし、予想してはいたことだがどうにも足元が悪い。砕けたコンクリートの破片があちこちに転がっていて、下手をしたらすぐ足の裏を切ってしまいそうだ。そうなってしまうと現状、あまりいい止血の手段が無い。怪我をそのままにして家まで帰るというのもあれなので、できれば怪我はしたくない所だが…


だが、そんな危険な道のりもあまり長くは無いようだ。私の鼻を突いていた匂いは階を上がるごとにどんどんその強さを増していき、そして最後には…もう正直、私でなければ泡を吹いて倒れてもおかしくないと思える程に悪辣な臭気へと姿を変えていた。


そして辿り着いた先が…ここ。私のいた立体駐車場の丁度6階に当たる場所だった。あと1階上がれば屋上とだけあって、ここから見える外の景色は中々に絶景であった。…この、私の目の前にある地獄を除けば、の話だが。

…こんなこと、望んでしまった私が馬鹿だったのだろうか。同階のさらに奥、壁で締め切られた光の差さない駐車スペースの中に、それはあった。


赤い、ただ赤い、1つの地獄。

それはもはや原型すら留めずに、ただ無造作に辺りに赤を撒き散らしていた。腕、脚、内蔵…かつてそんな形をとっていたであろうそれらは、しかし今はただ等しく赤の中へと沈み、その一部となってその残酷さを増大させていた。そしてそれらが放つのは…死という概念を生物的に嫌う、人間という存在が嫌悪して当然の匂い。


「…血……?」


だが、その時何よりも怖かったのはその景色では無かった。

本来なら、ここで人というのは口を抑えて倒れるものなのだろう。酷い場合なら、この景色を見た瞬間に気絶したっておかしくは無いのだろう。いくら死体を見慣れている職業の人からしたって、この平和な世界の住人である以上こんなものを見て平然としていられるはずが無い。もしそんな人がいるならば、間違い無く私は正気を疑う。


故に、だからこそ私は恐怖した。こんな状況に置かれて尚、一切の恐怖を感じることのできない…私という存在、そのものに。

…何故、こんな景色を見ても恐怖を覚えないのだろう。何故、こんな腐った空気に囲まれて吐き気の1つも感じないのだろう。…やはり私は、どうしたって人にはなれないのだろうか。所詮私のこれまでやってきたことは、ただの平和ごっこに過ぎなかったというのか。


しかし、そんな中私は1つの希望を見つける。

バラバラ…とすら呼べないような血と肉片の海の中に、1人だけ他とは違った存在があった。ちゃんと五体満足で、それも見た限り大した怪我も無さそうな、一人の少女の姿。まぁ、こんな死の海に紛れてしまえば何だって死体に見えてしまうので、その時の私は彼女の生死については半信半疑ではあったが…


だが、それは確かに1つの希望としてそこにあった。ここにきて負の感情しか抱けていない私にとって、1人でも生き残りがいるのならば、それは…と、その血の海を歩きながら彼女に向けて手を伸ばそうとした…瞬間だった。



そんな時だ、それに気付いたのは。

そんな時だ、それを聞いたのは。

それは、或いは私にとっての本当の始まりと同義だったのかもしれない。ただ美しいとしか思えずに、どこか私とは違う世界を見ているかのような感覚を持っていた私は、その瞬間に消え去った。

その世界は、最初から美しくなんて無かったのだ。本当に美しいだけの世界なんて、存在するはずも無かったのだ。そしてその事実を、私は知ることになる。…私自身の、この身をもって。


故に、この始まりの合図は私にとってピッタリのものだったのかもしれない。…確かに、戦いの始まりの音としてはこれ以上のものも無い。何せその音が聞こえなければ、私はきっとこの永遠にも思える平和ボケから抜け出せないままだっただろうから。

ここはもう、あの平和な日本じゃ無い。私に平和と幸せを約束してくれた、あの世界では断じて無いのだ。なら、私が何をすべきかは…必然的に、決まってくる。


始めよう。さぁ、始めようじゃあないか。


私にとっての戦いを…この、乾いた発砲音と共に。

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