62日目:わがまま
「先に挨拶をしなければなりませんねぇえぇ。でも、素性を明かすわけにはいかないので、それは叶いませんねぇえぇ。ごめんなさいねぇ。では、あなたには、死んでもらいますぅうぅ。仕方ないことですよねぇえぇ。私は、殺人がだぁいすきなのでぇえぇ」
そう言ったのは、男性に見えなくもない人間でした。
未曾有の恐怖心を掻き立たせるほどに、恐ろしい人間でした。
「仕方ないことないんだけどなぁ」
彼女の首は、ナイフのような凶器で囲われていました。
「よ、よせ!笹指から離れろ!」
棚倉先生は、威嚇するような大きな声で、けん制しましたが、この人間とも言えない狂気の塊で、凶器の塊のような人間は、全く以て引くことをしませんでした。
私は、怖くて、恐ろしくて、おぞましくて、何もできません。
声を発することも、抵抗することも、できません。
「とりあえず、殺しま……ぐ、ぐはっ!?」
その瞬間でした。
本当にあっという間で、何が起きたのかさっぱり分かりませんでした。
それは、彼女が態勢を整えた、まさにそのスキを突くような瞬間でした。
「本当は、使いたくなかったんだけど」
彼の手には、先ほど折り畳み傘と言っていた円筒状のそれがありました。
目にもとまらぬ速さで伸びたそれは、彼女が首を右側に動かした瞬間に、化け物の左手へと到着し、先端部分がそのまま化け物の手首へと突き刺さりました。
「ぬぁあっぁぁあ!なんだ、いったい⁈」
「別に、本当に、何もないよ。ただの護身用のナイフだ。一応毒が塗ってあるけれど。それ以外は何の変哲もない。だから、お前は別に死なない」
「……なにが、したいんだ?」
「この二人が、この世界で生きることを、許してはもらえないだろうか?もし許してくれるなら、俺の命をくれてやる」
彼の言っていることが、余りにも衝撃的で、私は、彼を見つめざるを得ませんでした。
目には、涙が浮かんでいたようにも思えます。
「な、なにをいってるんですかっ⁈」
私は、ようやくここで叫び声をあげることが出来ました。
届かない叫びになることは目に見えていましたが、そうせざるを得なかったです。
彼の真剣なまなざしが、眩しい。
その視線が、辛すぎる。
「やめてよっ!!自分の命を、何だと思っているのよ!」
私と同様に叫んだのは、静さんでした。
「あなた、京さんっていう許嫁だか婚約者だかがいたじゃないの!なのに、どうしてそんなことがいえんのさ!私なら、大丈夫だから。ね?死ななくていいんだから、私が死ねばいいんだから」
「……でも、お前らには、この世界で生きていて欲しいんだよ」
「なんで、そこまで想えるの?意味が分からないよ!私たちは、所詮、侵入者。移住者。よそ者。そんなやつに、何でそこまで」
「俺も、そうだったからだよ。新しい環境でも、お前らは俺みたいにならないで欲しいんだよ。お前らを見捨てて生き残るくらいなら、俺は何のためらいもなくこの命を投げ捨てる。これは、俺のわがままだ」
そう言った矢先、化け物は、牙をむきました。
普通、こういう時は黙って、話を聞いてくれるものかと思っていましたが、さすがにそう言うわけにもいかないのが、この化け物じみた存在だったということなのでしょう。
本当、気持ち悪くて、最低です。
「話はおわりでぇすぅよぉ!」
その雄たけびと共に、化け物は、手に余るほどのナイフの数々をつかみ、彼の首元へと突き刺しました。……もう、これ以上の描写はできません。
人が死ぬところを、人が殺すところを、どうやって私は伝えればいいのでしょう。
ただ凄惨で、ただ惨くて、ただ不快な、あの状況を。
私は、これ以上描写して伝えることはできません。
涙が、止まりません。
「早めに殺しておけばよかったものぉをぉ!あほですねぇ!バカですねぇ!」
私は、もう直視できませんでした。
……彼に出会わなければ、こんなことにはならなかったのに。
あーあ、戻れればいいのに。
「待て!願うな!柳橋ちゃん!」
彼女は、叫びました。
私を、制止しました。
「……?」
「絶対に、願うな。望むな。祈るな。私を信じてくれ。今までの奴らも、棚倉先生も、私が、絶対に幸せにするから。だから、信じてくれ」
「じゃあ、私は黙って見てろって言うんですか?!」
声が、少し低くなったように感じます。
少し、大人っぽくなったような、そんな気がします。
「……始まったか」
私に、何が起きているんでしょうか。
私は、もう分かりません。意識が、遠のいていきます。
手が、少しだけ大きくなっていきます。
声が、少しだけ低くなりました。
頭が、少しだけ良くなるのを感じます。
「……助けて。ここから、出して?」
涙が頬を伝うのを感じました。
どうして、こんなことを言ったのか、定かではありません。
私は、とうとう2度目のお願いをしたのでした。
「助かった。お前がわがままで」
その声の後の記憶を、また目が覚めるまで、私は持ち合わせていませんでした。




