36日目:カエデ・クーゴの昔語り①
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「おーい。カエデ、一緒に遊ぼうぜっ!」
窓の方から、声がした。その声を判別できないわけがない。
ゆっくりと思い窓を開けると、そこにはやっぱり彼がいた。
彼の名前は、臣坂斉昭。
私達を守り人として雇った、いわば雇い主だ。真顔でいると少々恐ろしいが、笑顔が絶えない人だったので、そこまでの恐怖心は抱かなかった。さらっさらの短髪は清潔感を、筋骨隆々な体格は力強さを、それぞれ醸し出していた。おまけに全能と来れば、もちろんモテないわけがない。
少しでも助けてもらえば、誰だって恋に落ちる。
それは、男女問わずだろう。老若男女、誰でも格好いいと誉めたたえる、そんな人だった。
そんな人だから、私は恋に落ちたのかもしれない。
そんなあっさりとした理由で、落ちているのかもしれない。
その辺の噂好きな女たちと同様、惚れてしまったのかもしれない。
まあ、いいか。そうならそうで仕方がない。
普通、こういう人の近くの人なら、悪態の一つや二つ付くのだろうが、それもできないほどに彼はかっこいい。たまにかける眼鏡もまた、かっこいい。
「で、でもいいんですか?今日は、重要な会議なんじゃあ」
「ああ、もう。思い出させんなよな。せっかく、四つ葉のクローバーを見つけたのに。知ってたか?海外では、幸運の証なんだってよ」
そんな風に、誰よりも年が上なはずなのに、誰よりも一番子供っぽいのも、彼の特徴だ。
もっと年齢に深く入り込むと、彼の年齢は、私の10個上だ。きっと、恋愛対象にすらならないだろう。
まるで、俳優やモデルに恋をするように、私はこの人に恋をしていると悟った。
好きである気持ちは変わらないが、不可能だという諦めが、その気持ちの上を行く。
「すみません。でも、四つ葉のクローバーって、最近よく見かけますよ?」
「君は、運さえも壊すことができるのかい」
「すみません」
「いや、いいんだ。そうじゃなきゃ、君じゃない」
その輝く笑顔が、彼の周りの草木をより生き生きとさせる。私もまた、御多分に漏れない。
「じゃあ、僕は懐疑の準備をしてくるよ」
「懐疑の準備ですか?何を準備するんですか?」
「ああ、違った。懐疑じゃなくて、会議。難しいね、日本語は」
「まあ、すぐに慣れますよ」
「今度、しっかり教えてもらおう」
「ぜひ」
……うわ、ぜひとか言っちゃったよ。
礼をして、彼は戻っていった。2m近い彼の身長が、どんどん小さくなっていった。ちょうど私の身長くらいになったところで、私は作業に戻った。
私は、日本語教師だ。もともと日本人であるため、この王家に日本語を教えるという仕事を担っている。そして、ついでにその国立の学校でも日本語を教えている。弟も同じ仕事を任されている。
だから、今やっている作業というのは、その仕事の準備なのだ。
「はあ、明日は出張かぁ」
ついでに、彼の付き添い通訳もしている。
自慢できるのは(誰にだ)、誰よりも一番彼の近くにいる時間が長いということだ。
それだけは負けない。
そんな日の、昼のことだった。
あっけなく時間というのは流れていくもので、気づけば彼もまた人生の伴侶を決めなくてはいけない時期になっていたのだ。
つまり、さっき言った重要な会議というのは、彼の伴侶を決める会議なのだ。
内心ドキドキが止まらない。きっと、上の人たちは私のことなんか、最初から省いているんだろうけれど、それでもやっぱり気が気でなかった。
その相手によっては、明日の出張がより気まずいものになるのだから。




