IX-01.妖獣の歴史、という名の歯車
「ねえ聞いてよ、かおるちゃーん」
「何ですか?」
ある夏休みの日、八月半ばの昼過ぎ。私たちは祖父の喫茶店で、いつものようにバイトをしていた。ちょうど昼休憩中で店を閉めている時、東雲さんが私にすり寄ってきたのだ。
「最近すっごく彼氏が積極的なの! すぐご飯に連れて行ってくれるし、勉強の息抜きにどこか行こう、って言ってくれたり!」
「いいじゃないですか、もしかしてどこか行く予定が?」
「そうそう、明日からね、東京行くの。卒業旅行にはまだちょっと早いけど、偶然私も何日か空いたから、東京観光行こっか、って話になって」
東雲さんはびっくりするくらい嬉しそうだった。明日から楽しみ、とその様子は遠足前日に眠れない小学生のような興奮ぶりだった。
「彼氏さん……植川さん、よく予定空きましたね」
「そう! 本当はダメだったんだけど、私のためにわざわざ予定をずらしてくれて! 悪いよって何度も言ったんだけど、譲ってくれなくて」
ヘンなとこで強情だよね、と東雲さんは少し小さめの声で言った。
私は入院中に、香凛からいろんな話を聞いた。あの覆面の四半妖獣と植川さんは、偶谷くんを保護するためにこちらに来ていたことや、にもかかわらず虎野に洗脳されて、偶谷くんを一度死なせてしまったこと。さらに自身を香凛の腕に宿らせ、私たちが無事にあのうっそうとした森から脱出できるよう、手引きしたことも。
すぐに私は植川さんを元に戻すように働きかけた。働きかけたと言えば大層な感じだが、要は習獅野の姉の方に会って、元に戻してもらうよう頼んだのだ。
「……アタシを信頼しすぎじゃないか? 花宮をよほど信用していると見た」
「もし変な真似したなら討伐する。でも今のところ香凛と協力してて、四半妖獣の数を減らすようなことをしてるなら、倒す優先度は低くなるわ。……たとえ私のお母さんを殺した一族でも」
「まあ、アタシが変な真似、とやらをしたところで、オマエに勝ち目はないがな」
そうして植川さんは元の姿を取り戻した。ただ一度人の姿を失った影響で、記憶がところどころ欠けてしまった。それは香凛に協力する前にすでに認識していたことらしく、植川さんはうまくごまかしながら、東雲さんとの関係を続けている。なんでも急に東雲さんにラブラブになったらしく、記憶が一部ないのがバレてしまうんじゃないかと、私は少し心配なのだが。ちなみにこのままうまく行けば、結婚も考えているそうだ。
「あれ、言いましたっけ。私、植川さんと一緒のマンションなんですよ」
「ぬおー! 自慢か、自慢なのか!? しおりちゃんずるい〜!」
翠条さんが会話に混ざってきた。目に見えて東雲さんがぷんすかし始めた。
腕をぶんぶん振り回しそうな勢いの東雲さんをよそに、私は翠条さんに一つ尋ねた。
「どうだったの? その、みのりちゃん、だっけ?」
「ああ、その話? うん、みのりは元気だったよ。相変わらずいろんな人に迷惑かけちゃってるみたいだけど、楽しそうにしてた」
夏休みが始まってすぐ、翠条さんは幼馴染のみのり、という子に会いに行っていたらしい。九州に住んでいるらしく少々長旅にはなったが、義理の両親ともうまく行っていたらしい。
最近翠条さんが体調不良を訴えることはなくなった。自分で今日は調子が悪い、と感じることも少ないらしい。
あの事件以降、翠条さんがどこか変わった気がした。少し大人っぽいというか、少なくとも私の先を行っている、そう感じる。
もうあの事件から、一ヶ月くらいになる。翠条さんが戌ノ宮高校の裏山で、ぐったりと木にもたれかかる偶谷くんを見つけた。すぐに病院に運ばれたが、すでに手遅れだった。体内から大量の睡眠薬の成分が検出され、それで自らの命を絶ったのは明らかだった。
「アイツは手に、翠条の作ったマドレーヌを握りしめていたらしい。それから、睡眠薬の服用後にそのマドレーヌを食べていたことも分かった」
「睡眠薬の、後に」
「知っているか。睡眠薬自殺は現状、最も自分にとって苦しみのない死に方だ。それから山の中でそれを行うことで、なるべく他人に迷惑がかからないようにしたようだ」
習獅野の姉に私が会いに行った時、彼女はそう言った。
「恐らく高原に自分の狩気能の危険性を指摘された時点では、まだ策はあると信じていたはずだ。……アタシはそこで希望を捨てなかっただけでも、強いと思うがな。だが、その後に反鏡化が暴走して、普通の人間まで殺してしまった。狩気能の制御が追いつかなかったことで、何の罪もない奴まで殺めてしまった事実が、アイツを苦しめた」
「でも、まだお父さんに頼れば」
私がそう言うと、静かに習獅野が首を横に振った。全てを否定されているようで、私ははっとさせられた。
「アイツの父親には、後で話を聞いた。だが暴走して人間をも殺す段階まで来れば、もはや完全に制御するのは困難かもしれないらしい。たとえ私がアイツの記憶を根こそぎ奪っていたとしても、狩気能だけが独立して暴走する、その可能性すらある」
「そのことも、分かってて……?」
「さあな。だが一番犠牲が少なく済んで、できるだけ迷惑をかけない方法……翠条の症状も含めてだが、それはアイツにとって、自殺しかなかった。そういうことだろう」
「そんな……」
確かに根拠はなかった。偶谷くんがそれでも希望を捨てず、私たちに頼ってきていたとしても、偶谷くんを元の生活に戻してやれたかどうか。でも何もしてあげられなかったという事実は、消えはしない。
「……それで、どうするんだ」
その日、私が習獅野のもとを訪れたのには、もう一つ目的があった。私は植川さんを腕に宿していた香凛の他に、翠条さんも連れて来て、別室に待機させていた。
「それは翠条の希望なのか」
「違う。今ここで記憶を消してしまった方が、翠条さんも生きやすくなるかなって、思ったから」
「それはオマエが決めていいことじゃないな」
「……!」
私は翠条さんから、偶谷くんに関する記憶の一切を消してもらうよう、頼むつもりでいた。悪いかもしれないとは、私自身も思っていた。
「翠条がそのトラウマを乗り越えてなお生きるか、それとも消したい記憶と考えるかどうかは、翠条次第だ。少なくとも本人に聞かずに、やっていいことではない」
はっきりと習獅野に言われ、私は別室から翠条さんを呼び、決断を翠条さんに任せると決めた。
「確かに……怖いし、時々私を責め立てるかもしれない……でも、消したら兄さん自体が消えてしまう気がして、それも、怖い」
「迷うなら、消さない方がいい。トラウマにさいなまれてどうしようもなくなった時に、考えればいい」
翠条さんの記憶は、消さないことになった。それでも今のところ問題なさそうにしているあたり、芯の強さを感じる。
「……問題は、これで終わりではないことだ」
「それは……確かに」
香凛と翠条さんを先に帰らせた後、私は改めて、習獅野と話していた。
偶谷くんの狩気能は、妖獣と人間の数のバランスをリセットする意味合いをも持つ。そのことを植川さんから聞いた。たとえ偶谷くんが自殺を選んだことで狩気能が消滅したとしても、また別の人がその狩気能を持つことは十分考えられる。
「アタシは表向き四半妖獣の取りまとめみたいなものだから、オマエ達の味方は堂々とはできない。オマエたちが主体になって、四半妖獣の数を減らしていく必要がある。それから、次に反鏡化持ちが出た時にどうするのか、考える必要もな」
もう同じことは、繰り返せない。偶谷くんのような悲劇を、もう二度と起こすわけにはいかない。それは残された私たちに、重くのしかかる責任だった。
「今ここで、立ち止まれはしない」
私は決めた。決めるしか、なかった。
偶谷くんを風化させてはならない。その覚悟を、無駄にしてはならないーー




