VIII-03.対面
「兄さん……?」
どこを探しても見つからないと、花宮さんが言っていた兄さんが、目の前に現れました。
「どこに行っていたの……花宮さんが、探してたって」
「ちょっとやらなきゃいけないことが、あってさ。ちゃんとご飯は食ってるから、大丈夫」
そう言う兄さんの目の下には少しクマができていました。それに前に会った時より、心なしか頰がこけていたり、やせているように見えました。兄さんが嘘をついたのだということは、すぐに分かりました。
「やらなきゃいけないこと……?」
「なんだかさ。虎野がいなくなってから、みんな正気に戻った、って話を聞いて、それなら今言っとかなきゃいけないこともあると思って。俺を育ててくれた父さんと母さんに、会いに行った」
前に会った時よりずっと髪の毛はボサボサで、身なりもずいぶん家に帰っていない、そんな背景が見て取れました。
「それより、入院してるなんて。大丈夫なのか?」
「私は、大丈夫。ちょっと、目の調子が悪いみたいで」
「ああ……それは、花宮に聞いた。青い目になって、周りの人たちが苦しむって話だろ。兄妹だから、俺の狩気能の影響なのかもしれない、って」
むしろ原因が分かってすっきりしている、と言わんばかりの口調で、兄さんは言いました。
「あの、お父さんに、会って欲しくて」
「ああ」
私がさっきお父さんにもらったばかりのメモ書きを手渡すと、受け取って少し見た後、兄さんはこちらを見て笑いかけました。
「……ああ。分かってる」
「そこのホテルにいる、って。連絡がついたらなるべく早く来て欲しいって、言ってたから」
「父さんに会ったのか?」
ちょっとだけ驚いた様子で、兄さんはこちらの目を見てきました。。お父さんが生きているということも同時に知ったはずなのに、私がお父さんと会ったことの方に驚いているようでした。
「そう……ついさっき、ここに来て。もう少し兄さんが来るのが早かったら、会えたと思うんだけど」
「……いや、ここで鉢合わせになるのも、気まずかったと思う。分かった。後で、ここに行くよ」
兄さんは手渡したメモ書きをズボンのポケットにしまいこみました。それから手に提げていた紙袋から一つあるものを取り出して、私に見せました。
「それは……」
「これ、ありがとうな。直接もらったわけじゃないけど、お礼は言っとく」
それは明らかに、私が作ったマドレーヌでした。直接兄さんに渡したことはないので、きっと花宮さんに渡したものをもらったのでしょう。何個くらい持っているのかは分かりませんでしたが、少なくとも手に持っていたのは新しく、まだラップに包まれて、新品のアルミカップに収まっていました。
「うん……」
「なんかさ……あったかかったな」
「あったかかった……?」
「こういうの、作るの得意なのか?」
「うん……ここ何年かずっと、一人暮らしだから。すごく忙しくない限り、自分でご飯は作るようにしてる。それから、たまにそのマドレーヌを焼いて」
「そうか。おいしかった。またちゃんと、食べるけどな」
兄さんはそう言い残すようにして、病室を出て行こうとしました。
「兄さん」
「ん?」
「お父さんのところ行ったら……花宮さんのところ、帰るんでしょ」
「ああ……もう少し、後でな。父さんのところには行くけど、まだ行けてない場所があって。そこに寄ってからになると思う」
花宮によろしく伝えておいてくれ、と兄さんは手をこちらにひらひら降りつつ言って、私の前から立ち去っていきました。
「花宮さんにあげたのって……結構前なような」
お見舞いとしてはちょっと失礼かもしれないけど、と兄さんは持っていたマドレーヌをいくつか、病室の窓際に置いていっていました。自分で作ったそれを私は手に取って、そっとラップを取ってひとかじり。少し甘めの、私の好みの味がふわ、と口の中に広がりました。
「……治し方が分かれば、いいんだけどな」
せっかく退院しても、目が突然痛くなるこの症状がなくならなければ、結局病院に逆戻りになってしまいます。お父さんの言うことが本当なら、私の症状の原因である兄さんの狩気能が何とか抑えられれば、私ももう入院しなくて済む、ということになります。
「どうした、心乃?」
「お父さんが帰ってすぐ後に、兄さんが来たの」
「それは本当か!?」
「うん、お父さんがどこにいるかは、言った」
「助かる。できれば七馬が来た時には、心乃も来て欲しい。その時はまた追って連絡する」
「分かった」
すぐに私は、お父さんに電話をかけました。兄さんが見つかったことを聞いたお父さんの電話越しの声は、心なしか弾んでいました。少なくともお父さんに長年会っていない実の息子と会うことの気まずさはないようでした。
「……あれ、しおりん。どうしたの」
「兄さんがさっき、私のところに来たの」
「……え?」
私が次に電話したのは、花宮さんでした。お父さんの時と同じような反応が返ってきました。
「あれだけ探したのに、見つからないなんて」
「探したって、どうやって?」
「もちろん歩いてとか、車での捜索はやってる。でも同時に、ヘリコプターもいくつか飛ばしてるんだよ。それで発見できてないし、今も特に報告は出てない」
よく耳をすますと、ピッピッ……と時々レーダーのような音がしました。花宮さんはどうやら、家で捜索隊の指揮を執っているようでした。私はお父さんがいるホテルの名前を、花宮さんに伝えました。すると知ってる、と言わんばかりの声のトーンで返されました。
「そこは特に慎重に調べてる。この近辺ですぐに予約できて、長時間滞在が許されるような大きなホテルは、そこしかないもん。その近辺を歩いてるなら、見つけられないなんてことは、まずない」
私が今いる病院と、そのホテルはそう離れてはいません。電車で移動しているとしても、もうとっくに電車を降りて、病院までの道を歩いているような時間でした。
「だから少なくとも病院には向かってないって、考えた方がいいかも」
「じゃあ、花宮さんの家は」
「可能性を排除するようで心持ちが悪いけど、ただ探すだけじゃなくて、駅に設置された防犯カメラの画像もチェックしてる。でも、偶谷くんらしき人がどこかの駅のカメラに映ったのは、確認できてないんだよね」
花宮さんがそこまで言うということは、すでにお手上げに近いのかもしれません。私たちがすぐに想定できるような場所には向かっていないのかもしれない、と私も考えました。
一度会話が途切れて、しばらく花宮さんが何かの機械をいじる音が電話越しに聞こえていました。それからがたっ、と花宮さんの離席する音がした後、何分かして慌てた様子で花宮さんが私を呼びました。
「……見つかった。戌ノ宮……って言って分かる?」
「ここから、そんなに遠くないんじゃ」
花宮さんたちが必死に探しても見つからないのなら、もっと遠くに行っているものとばかり思っていました。
「うん。割とすぐ行けるよ。しおりんの病院の前に車を向かわせたから、それに乗って。電車で行くより、たぶんそっちの方が早い」
「分かった」
今いる病院は私がいつも使っている最寄り駅の近くですが、家とは反対方向で少し距離もありました。花宮さんの言う通り、待ってでも車で行ったほうが早そうでした。
「どうしたの?」
「急用ができてしまって。どうしても外に出なきゃいけないんですけど、他の人には黙っててもらえませんか」
「あ、翠条さんそんなこと言っちゃう? どうしようかな」
私は電話を切るなり、さっきの看護師さんに話をしました。私の焦った様子とは対照的に、彼女はいたってのんびりしていました。
私は自分が焦っているのが、妙に冷静に自覚できました。今はただ待つことしかできないのに、私の心はいやに焦っていました。
「いいから! 黙っててくださいね!」
「翠条さん……?」
戸惑う看護師さんの気持ちも私にはよく分かりました。私が今までからは考えられないほど焦っているその様子も、私が入院中の身ながら病院を抜け出すのを考えていることも。戸惑わない方がおかしいと言えました。
私は明日辺りに着るつもりだった服に着替えて、病院を飛び出しました。
「お待たせいたしました、翠条様」
「……!」
病院のエントランス前まで来ると、すでに花宮さんの家の執事さん――じいやが車を乗り付けて待っていました。私が話すのを後にして紺色のいかにも高級そうなその車に乗ると、すぐに発進を始めました。
「お嬢様から、行く場所はお聞きになっておりますか」
「いえ……」
花宮さんは戌ノ宮とだけ言っていました。私たちが今いる場所からその地名が付けられた場所までは、そう遠くはありません。しかし具体的に戌ノ宮のどこなのか、その話を聞いていませんでした。
「県立戌ノ宮高校です。……偶谷様の、在学されている高校でございます」
「……!」
このタイミングでどうして、自分の通う高校へ行ったのか。それは分かりませんでしたが、私たちに話したのとは別の目的があって、そこに向かっているのは間違いありませんでした。
「とにかく急ぐようお嬢様に申しつけられておりますので、運転が少々荒くなります。お気を付け下さい」
じいやがそう言った途端車は恐ろしいくらい加速して、周りの車を次々追い抜いていきました。乱暴ながらも正確な運転で、窓の外をものすごい速さで流れる景色を見る間に、戌ノ宮高校に着いていました。
「翠条様、」
「今日は学校は休み……ですよね?」
「ええ、さようでございます」
何の変哲もない、真夏の土曜日です。グラウンドからは運動部のかけ声がまばらに聞こえましたが、校舎は開いていないはずでした。
「兄さんは、どこに……?」
まさか花宮さんの家にわざわざ居候して、人目を避けていたらしい兄さんが、今になってふらっと学校に戻ってすることが部活の練習なんて、考えにくい話でした。
「翠条様……!」
校門の近くで私が辺りを見渡していると、じいやが私を呼びました。近付いた私にじいやが指差して示したのは、ポツポツと裏山の方へ続く、アリの群れでした。群がるアリがせっせと小分けにして運んでいたのは、マドレーヌでした。焼き色とほんの少しだけ漂った甘い香りで、それが自分の作ったもの、さらにはさっきまで兄さんが持っていたのだろうものであることが分かりました。
「裏山の方に、兄さんが?」
「そう、考えてよろしいかと。この大きさの食べこぼしはよほどの行儀の悪さでない限りありえませんし、あえて手がかりを残されていったのかもしれません」
「え……?」
わざわざ手がかりを残す。来てほしい、ということなのでしょうか。
私はマドレーヌ、あるいはアリの群れを目で追って、導かれるようにして、校舎の背後にそびえる山の入口へ足を踏み入れました。
「マドレーヌが、見えない」
山に入ってしばらくはそのかけらがありましたが、やがてそのかけらはごく小さくなり、ついには全くなくなってしまいました。
「兄さ……」
私はこれ以上は危険かもしれないと思い、いったん後ろをついてきているじいやを待とうと、足を止めました。そして、前を向きました。
「あ、……ああ」
近くで一番太い木の幹に、もたれかかる人影。若干色白な腕は、すでに力なくだらん、と垂れ下がり、どんな色より暗い黒の髪を持つその頭。顔はこれ以上悩むことなど何もないとばかりに、安らかなものになっていました。
「兄さん……?」
手遅れなのだろうその姿を前に、私はまともな声も出せず、くずおれるしかありませんでした。
「兄、……さん」




