VI-06.嘘と好意と、本当の気持ち
「香凛……!」
十二階建ての病棟をエレベーターで屋上から三階まで下り、そこから病棟の端の方まで走れば、着く頃には私の息は軽く切れていた。まだ息の整っていない状態で、私は病室のドアを引き開けた。
「……!」
入ってきたのが私だと知って、香凛はびくっと肩を震わせた。習獅野の予想通りの反応だった。いつもなら駆け寄って抱きついてくる勢いの香凛なのに、それがないどころかなるべくこちらを見ないようにさえしている。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をして、ベッドに腰かけた翠条さんが私に尋ねた。
「ううん、何でもない。香凛、ちょっと来てくれる」
香凛はやはりもう一度おびえるような仕草を見せたが、慎重な様子でゆっくりと首を縦に振った。私はそう返事しても自分からは動こうとしない香凛の手を握って、半ば引っ張るようにして病室を出た。
「……知ってる」
私が向かったのは同じ階にあるテラス。偶然誰もいなかったので、私は香凛と一緒に自販機近くのベンチに座って、香凛が何か言い出すのを待ってみた。すると案の定、一分もしないうちに香凛が口を開いた。
「さやのんから聞いたんでしょ、どうせ。わたしが習獅野家とつながってるってさ。失望したでしょ?」
「……」
「これは保身のためとかじゃなくて、本当にやましいことなんて一つもやってないからこそ言うけどさ。かおるんを裏切るようなことは、わたしはやってない。わたしには戦う力がないから、かおるんのサポートしかできない。でもそれじゃわたしはいてもたってもいられなかった。だからわたしができるような形で、退妖獣使と同じような仕事を、してたつもり」
「……」
「ねえ」
「……」
「何か言ってよ、かおるん」
ばさっ。
私はそんな音を立てて、勢いよく香凛を抱きしめた。温かさがじんわり伝わる一方で、芯のところにすっ、とした冷たさがある気がした。不思議な感覚だった。
「……かおるん、暑い」
いつもはあったかい、と言う香凛がそう言った。
「え?」
「暑苦しい」
「容赦ない」
「ちょっとくらくらしそう」
私は香凛から離れた。香凛は少し安心したように息をついた後、私に顔を近付けた。
「香凛……」
頬にそっと口づけ、と歌われるくらいの軽いものだった。でも少し嬉しくなって、同じことを私も香凛にした。
「ん」
「香凛のほっぺた。柔らかいんだ」
「気付いた? 保湿剤、習志野製薬の一級品使ってるからね」
「え?」
「あ、これは言わない方がよかったか」
「そこまで癒着してるの」
「癒着じゃないよ癒着じゃ。単純にいいやつだから使ってるだけ。かおるんも使えば?」
香凛を問い詰めなければ、という思いは、私の中で薄れかけていた。代わりに私は、香凛の温度を欲しがっている。そういう気がした。私は暑苦しい、とまた言われるのを分かっていながら、もう一度香凛を抱き寄せた。
「なに? 今日はやけに積極的だね」
「香凛がどっか、私の知らないところに行った気がしたから。呼び戻す意味で」
「わたしはどこにも行かないよ」
香凛が私の頭をぽんぽん、と撫でた。それから少しはにかんだ様子でにひっ、と笑った。
「ただし、かおるんが切り捨てなければ、ね。逆にかおるんが必要としてくれるなら、それでいいよ」
「人に隠れてコソコソやっといて、偉そうに」
「じゃあ最初からひなのんやさやのんと組みます、って言ってさ、かおるんは許した?」
「それは……」
人間を脅かす四半妖獣を討伐するためとは言え、相手はその四半妖獣そのもの。どういう事情があって退妖獣使側に協力しているのかは知らないが、たとえこちらをだます気はないのだとしても、私は確かに返事を渋っただろう。
「そういうことだよ。かおるんのお母さんはひなのんたちのお父さんが殺した。かおるんのお母さんだけじゃなくて、その他いろんな退妖獣使たちと一緒にね。その娘たちと組んでるんだから、下手に言うのは得策じゃないと思った」
「……」
「わたしがかおるんに嘘をついてたのは事実だから、今さらそれを許してくれとは言わない。けど、もし今の話が本当なんだって分かってくれたなら、一つお願いがあるの」
ここまで来れば、次に香凛が何を言いたいのか、私には分かった。香凛はにっ、とした得意げにも似た笑いから少し切なさの混じったわずかな笑顔になって、そのお願いを言った。
「わたしとひなのんのやってることに、協力してほしい……って、言いたかったけど、まだそこまでじゃなくていい。でも、理解は示してほしいな、って思って」
「そんなことだろうと思った」
私はふにふに、と香凛の頬を撫でたり、軽めの力で引っ張ってみたりした。手持ちぶさたな様子、と受け止められただろうか。私は香凛に安心してもらえそうな笑顔になるよう少し意識しつつ、香凛に向けて言った。
「別にいいよ。私の好きな香凛がやってることだし」
「……っ!」
「ただ一つ、気になるのは」
「……気になるのは?」
「まだそこまでじゃなくていい、とか言ってる時点で、いずれは協力してもらう気が満々、ってとこかな」
「よく分かってるじゃん」
”私の好きな人”ねえ、と香凛が改めてつぶやくように言った。私は流れるようにそう言ってしまったことを後悔した。自分の方からは決して言おうとはしないことだ。顔が熱くなるのを感じた。私はそれを香凛に悟られたくなくて、さっきより強い力で香凛を抱きしめた。
「痛い痛い痛い」
「痛くしてるんだから当たり前でしょ」
「ハグしながら痛めつけてくるなんて。さては鬼だな?」
「鬼でもなんでもいいよ。……もう一回言っちゃったし、この際これまでの分全部言っとく。私は、香凛のことが好き」
私がそう言うと、さっきまで冷たかった香凛の体の芯の方が、ぼうっと熱くなってくるのを感じた。ちらっ、と香凛の顔を見ると、たぶん私に負けないくらい熱く、真っ赤になっていた。それから香凛はひゅっ、と息を吸うような音を出して、
「……わたしも」
くぐもった声で、そう言った。
* * *
「……そろそろ帰らないと。離して、かおるん」
気付けば日がすっかり暮れようとしていた。学校の帰りに病院に寄って、しばらく翠条さんと話して、屋上で習獅野と話して、それからテラスに行って香凛と話していたから、そんな時間になるのも当然かもしれない。
「しかしこんだけくっついてると、かおるんとあれこれ、っていうのもいろいろ考えちゃうね」
「……どういうこと?」
香凛は私と一緒にいれさえすればいい、くらいに楽観的だ。その手の話を香凛の方からしだすのは珍しいと言えた。
「かおるんから見たらわたし、楽観的を具現化したような人かもしれないけど、これでも考えてはいるからね。かおるんとはこのまま一生、一緒にいれたらいいなって思ってるし」
「それを楽観的って言うんでしょ」
「もしお父さんに言ってどうしても認めてもらえなかったら、花宮家は出て行くつもりでいる。そしたら、遼賀家に養ってもらおうかな」
「うちにお嬢様を養えるような金銭的余裕はありません」
「そんなー」
香凛はそう言いつつ、それほど残念そうにもしていなかった。
「まあうちはそういうのに寛容だし、いいんだけど」
「かおるんはあきらくんがいるもんね」
「まあ、それもあると思う。それに、お父さんも親戚にそういう人がいて、理解はあるって話だし」
「じゃあ本気にしてもいい?」
「だから、お金の余裕が」
「なーんてね」
香凛はテラスと廊下を隔てる扉を開けてから、私の方をもう一度向いた。
「冗談だよ。半分くらいはね。もう少し、考えるのは先延ばしにしていいと思うし」
やっぱり香凛は楽観的だった。ただ、私もそのことは考えていた。どのみち私たちはまだ十四歳で、そもそも結婚もできる歳ではない。あと二年は余裕があるな、と私ものんきに構えているところがある。
「帰ろ、かおるん。夜更けから雨が降るって話だし、もたもたしてると降り出すかも」
「分かった」
あいにく傘は持っていない。私たちはほとんど終わりかけの夕暮れの中、手をつないで病院を後にした。




