V-01.翠条真織の一日
しゃく、しゃく、しゃく。
女一人の部屋にしてはちょっと殺風景なのかなあ、と言える部屋に、ハサミで紙を切る音が響きます。落ち着いた音に身を委ねるように、ケル、ルベロ、ロスの三匹もおとなしく、私の前で座っていました。
「おなかすいた?」
あまりに静かに私の様子を見ているので、堪らなくなって私は三匹に尋ねました。本当はこの子たちのずっと先祖は人間の姿で、やがて妖獣の力をコントロールできなくなって今のような姿になってしまったのだから、三匹、と呼ぶのはあまり好きではないんですが……。
三匹は返事するように、前足でくしくし、と胸のあたりを触りました。これは私とこの子たちの間で決めた、否定の返事をする時のサインです。
「そっか。もう少し待てる?」
三匹は示し合わせたかのように、くぅん、と一鳴き。こっちは肯定のサインです。両方とも鳴くことにすると紛らわしくなるので、肯定する時は声を出してもらうことにしました。
「ちょっと待ってね……」
私が今やっているのは、新聞の切り抜き。昔からの趣味で、いろんなニュースの記事を切り取ってノートに貼っていくのが、何となく落ち着くのです。
その切り貼りする新聞も、一社だけではありません。経済新聞はもちろん、時々スポーツ新聞からも切り貼りします。一つの新聞だけ見ていると意見の偏りに気付けなくなる、と昔お父さんが言っていたのを、今でも思い出します。だから購入する新聞はこまめに変えるようにしています。もしどうしても複数の新聞の切り抜きがしたいと思った時は、図書館にある新聞をコピーさせてもらうこともいといません。あるいは、ネットニュースを参考にする時もあります。
「うーっ」
三匹の中で一番わがままなロスが私に近付いてきて、甘えるような声を出しました。三匹は私が言ったことをよく理解してくれますが、逆はいまだに、なかなかうまくいってくれません。ロスが何をしてほしくて鳴いているのか、私は今でも時々分からずにロスの期待に沿えないことがあります。でもこの時はすぐに分かりました。
「お腹、空いてるの?」
くぅん、と一鳴き。ロスは三匹の中で一番の食いしん坊ですが、一番シャイでなかなか自己主張をしてくれません。ケルとルベロの意見に流されてしまうこともしばしば。さっきお腹が空いていない、という意味の返事をしたのも、おそらく話を聞いていなかったか、他の二匹の意見に流されてしまったからなのでしょう。
「おやつ食べる? ケルとルベロには内緒だよ?」
私がそう言うと、嬉しそうにロスは尻尾を振りました。いくらケルとルベロのお腹が空いていないとはいえ、ロスだけにおやつをあげるところを見られれば二匹に怒られてしまいます。
私は三匹がハサミに触ってケガをしないようにいったんハサミを高い場所に置いて、キッチンにある収納棚を開けて、ビスケットの袋を出してきました。手に二枚、ビスケットを出してロスに見せると、たちまちロスは二枚とも食べてしまいました。ちらっ、とルベロがこちらの様子をうかがった時にはすでに時遅し、ロスは食べ終わっていました。よほどお腹が空いていたのでしょう。それでも言い出せないくらい恥ずかしがり屋さんなのがロスなのです。
「あとはケルとルベロと一緒にご飯だからね?」
確認のために私がロスにそう言うと、くぅぅん、と少し長めに鳴いて二匹の元に戻っていきました。私の方は本棚の上に置いたハサミを取って、新聞の切り抜きの再開です。
新聞の切り抜きを始めたきっかけは、ささいなものでした。ある日ふと、お父さんが読み終わった新聞を見た時でした。その時見たのはスポーツ欄で、全く見たことのないアスリートの人が大きな写真で写っていたのを覚えています。それ自体は特に印象深くなく、すっかり忘れていたのですが、一年くらい経った頃でしょうか、同じ人がまた大きく取り上げられている記事を見つけたのです。一年前は全国的な大会で惜しくも入賞できなかったが大健闘、と書かれていたその人が、今度は一年経って同じ大会で優勝していました。
それを見て一年前の記憶が急に蘇って、私の中で少し感動したことがありました。全然自分とは関係ないことかもしれないけど、新聞記事を時間の流れに沿って追いかけていくだけで、その人や物事の成長や流れを見られるということに気付いたのです。だから私が新聞記事の切り抜きを始めた時は、ノートに貼っていたのはスポーツの話題ばかりでした。
そこから少し大人に近付いてニュースが理解できるようになってからは、いろんな時事問題に興味を持つようになって今に至ります。一番多い経済の記事をまとめたノートは、もう十何冊目かにまでなっています。
「……よし」
今日はノートに貼りたい記事が多かったので、少し時間がかかりました。いつもならとっくにこの作業を終えて宿題に取りかかるか、晩ご飯の支度を始めている時間。落ち着かない様子で歩き回っている三匹を見て、私は今日の宿題がそれほど多くなかったことを思い出し、夕食の準備を始めることにしました。
「あぁ……明日にでも買いに行かないと」
冷蔵庫を見るなり、妙に寂しいことに気付きました。そろそろ蒸し暑くなって食べ物の足も早くなるから、と買い物をサボっていたツケがここで回ってくるとは。自分の分だけならそうでもないのですが、三匹の分も作ってあげるとなると、お父さんとお母さんから毎月もらっているお金では実はそこまで余裕がありません。遼賀さんのおじいさんの喫茶店でアルバイトができるようになったのは助かりました。
冷蔵室と野菜室、それから冷蔵庫で保存しなくてもいいものを探すと、野菜は人参と玉ねぎにじゃがいも、それから肉は鶏もも肉が見つかりました。
「鶏肉の肉じゃが……」
それはお母さんが作ってくれる、私の大好きな料理。思いついたのはやっぱり懐かしいから……というより、鶏肉を見つけた時点で、私の中で肉じゃがを作ることは半ば決まっていました。そうと決まったら早速鍋の用意です。ダシを入れなくても野菜と鶏肉から出るダシで十分おいしいらしいので、調味料も醤油や砂糖といった、さしすせそだけ使います。
ケルたちの分も作るので、野菜や鶏肉は食べやすいサイズに。鶏肉を焼くのは焼き色がつくかつかないかというところでとどめて、野菜に火を通して肉を戻し、水と調味料を入れたらフタをして時々混ぜながら煮込みます。本当は風味がよくなるのでお酒も一緒に入れたかったのですが、その風味をルベロが嫌うので、普段はあまり使いません。
ちなみにルベロは一番味にうるさくて塩辛い味付けも嫌がるので、今回の肉じゃがもルベロの分だけ別にとって、砂糖を多めに入れてあげます。三匹の中で唯一メスのルベロはもしかすると、将来の子どものために、今のうちから食生活を気にしているのかもしれません。砂糖を余分に入れるのが健康かどうかは疑問ですが。
「ケル、ルベロ、ロス。できたよー」
二十分ほど煮込めば完成です。三匹の分をよそってから呼んで、温めていた一膳分のご飯も用意します。三匹の食事は朝と夜の二回ですが、なるべくどちらも私と同じ時間に食べてもらうようにしています。
三匹とも最初は出された肉じゃがを前にして様子をうかがっていましたが、食いしん坊のロスが一番にじゃがいもを頬張り始めると、用心深いケルとルベロも後に続いて食べ始めました。何も言わずゆっくりと食べているところを見る限り、味に問題はなかったみたいです。
食べ終わって少し落ち着いたら、眠たくならないうちにお風呂に入ってしまいます。寝る間際になってお風呂に入るのは頭がぼうっとしてあまりいい気分ではないので、とりあえず何も考えずにお風呂に入ります。
「ルベロー」
服を脱いでお風呂場に入ってから、私はシャンプーが切れていることに気付きました。以前はこんなに忘れっぽくはなかったのですが、アルバイトを始めてからまだ慣れきっていなくて、疲れているのかもしれません。私はルベロを呼んで、シャンプーの詰め替えを持ってきてもらいました。ルベロだけはメスなので、お風呂場に入ってもらうのにも抵抗がありません。ルベロ以外にやってもらったことがないので、気のせいかもしれませんが。
「明日は数学と……」
寝る時に考え事もあまりしたくないので、お湯に浸かっているうちにしておきます。明日持っていくお弁当のおかずも、この時に考えます。
「ルベロ?」
私は結構のぼせやすくて、鼻血も時々出るので、たぶん他の子に比べればお風呂の時間は短いです。少なくとも花宮さんに話を聞くと二時間くらい入る時もあるらしいので、それに比べれば全然です。上がったらパジャマを着てドライヤーで髪を乾かしつつ、お風呂場でしていた考え事の続き。ドライヤーの音が結構落ち着くらしく、三匹はこの音で先に寝てしまいます。
私はと言うと、明日のお弁当に何を入れるか、メモをキッチンに残して寝ます。私が今住んでいるマンションの部屋にはもう一つ小さめの部屋があって、そこを寝室として使っています。
「……おやすみなさい」
よくよく耳を澄ませてみると聞こえる三匹の寝息を背後に聞きつつ、私は返事の返ってこないあいさつをします。返事がないのは、やっぱり一人暮らしならではなのかもしれません。
私の一日と言えば、こんな感じでしょうか。花宮さんに言ってみると、およそ四半妖獣らしくない生活だそうですが……。




