IV-02.俺と遼賀、花宮
次に俺が目覚めると、冷たい床の上に座っているのを知覚した。学校の廊下よりももっと殺風景な、通路のような場所だった。そしてすでに俺をおぶってくれていたヒナノがいないことは、その場に金色の髪をした人がいないことですぐに分かった。代わりに俺の近くに立って少し怯えるような表情を浮かべていたのは、見たことがない茶色の髪の女子だった。俺は確かめるように、口から声を出した。
「誰……だ?」
「わ、私は」
彼女は相当焦っているようだった。彼女は何度か深呼吸をして落ち着いた後、名前を名乗った。そんなに俺のことが怖く見えているのだろうか。
「私は、遼賀薫瑠です」
「遼賀……知らないな」
「あ、あの。あなたの、名前を。聞いておきたいんですけど」
俺はそこで初めて、相手に名乗れと言っておきながら自分がそうしていないことに気付いた。俺はまだ寝起きでぼんやりした頭ながら、自分の名前だけははっきりと言った。
「俺……俺の名前は、偶谷。偶谷、七馬、だ」
その名前に、彼女の方もピンと来ていないようだった。初対面なのだから当たり前だ。俺は彼女にヒナノの行方を聞いた。
「ヒナノ……? さっきの人かな」
「どこかに行ったのか?」
「あなたを置いて、出て行った。あの人とは知り合いなの?」
「……いいや。でも一度死んだ俺を、助けてくれた」
「一度、死んだ……?」
そう言った途端、彼女が露骨に俺を警戒した。もちろんとんでもないことだということは、俺も理解している。その上で事実は事実だと思って、俺は話を続けた。
「どうしてあの人が助けてくれたのかは分からない。本当は助けないつもりだった、とも言ってたし。でも俺は騙されてたんだって知って、それからここに来れば、俺が知らないことをいろいろ教えてもらえるはずだ、とも言ってた」
「ここに来れば……あなたが何を知ってて、何を知らないのかは分からないんだけど」
「どうしたの、かおるん」
俺が彼女と話していると、別の女子がやってきた。そちらは少し暗めの青い、短めの髪をしていた。
「香凛。気付いてたの?」
少し驚いた様子で、遼賀が話した。
「ううん。あまりかおるんが戻って来ないから、どこに行ったのかおじいさんに聞いたの。そしたら地下通路にいるって」
「ここのドアが開く音がしたから、何事かと思って。そうしたら、習獅野がこの人を背負って立ってて……」
「習獅野?」
「最初は分からなかったけど、あの特徴的な金髪と、妖獣のことを知ってる感じ。私と同い年くらいで、女の子だった」
「じゃあ、お姉さんの比奈乃さんかな。確か今年で中三だったと思う」
「やっぱり……」
「で、比奈乃さんが何て?」
「この偶谷さんを預かってくれ、って。でもいきなりそんなこと言われても預かるなんてできないし、おじいちゃんも受け入れてくれるかどうか」
「大丈夫。それは心配しなくてもいいよ。匿うくらいなら、うちでできるから」
「香凛の家で?」
「そう。そうすればかおるんがふらっと様子を見に来ても、全然不自然じゃないから」
「うん……」
そう言うと青髪の女子は遼賀に店番に戻るよう促した。確かに遼賀の服装をよく見ると、どこかの飲食店の制服のようだった。俺がヒナノと来たらしい扉とは反対方向に、遼賀は廊下を進んでいった。俺とその青髪の女子の二人が、今度は残された。
「はじめまして」
そして、まるで最初から知り合いだったかのように、俺に話しかけてきた。
「偶谷くん、だね。あなたのことはよく知ってるよ。これからよろしく。わたしの名前は、」
俺は驚くあまり腰が抜けて、立ち上がれなくなるところだった。
「花宮香凛。偶谷くんも知ってるでしょ?」
* * *
花宮はその後も遼賀に付き合わないといけないということで、俺はもときた道を戻ることになった。ヒナノが何食わぬ顔で入っていったあのお屋敷が花宮家らしい。ちょうどその扉からさっき俺とヒナノを出迎えてくれた、初老の男性が顔をのぞかせていた。
「この裏口を何も知らず行くのでは迷ってしまいますから、わたくしがご案内いたします」
「迷う?」
「ええ、何もこの通路は遼賀様の経営なさる喫茶店と、花宮家とのみを結んだ道ではございません。詳しくはお嬢様からご説明があると思われますが、むしろ花宮家とを結ぶ道は後から作られたものでございます」
じゃあね、バイバーイ、と手を振る花宮と別れて、俺はその男性のあとについて真っ暗な道を歩き始めた。
「……偶谷様」
「え?」
「これから先、偶谷様が外出をなさることは許されません。偶谷様が花宮家にお住まいになることは、お嬢様のお父様、すなわち旦那様にさえ知らされることはありません。ご自覚なさるにはまだまだ情報が不足されているものと思われますが、偶谷様は今、非常に危険な状況に置かれております」
「危険な状況……」
「そもそも習獅野様が偶谷様を発見し助けるという行為自体、非常に賭けであり危険なものでございました」
「……それなのに、どうして俺を助けたりなんかしたんだよ」
俺には少なくとも、どうしてもそこだけが納得のいかないところだった。妖獣のことを何も知らないらしい俺を生き返らせることに、何の意味があるのか。もちろん、本来死んでいたはずのところを助けてもらったのは、感謝してもしきれない話なのだが。
「それは偶谷様が、妖獣の未来にとって非常に重要な存在だからでございます」
「俺が、重要な存在……?」
「とにかくも、まずはお嬢様とお話をされることが先です。そのためにも、花宮家でお過ごしになることに少しでも慣れていただきたいのです」
行きはヒナノに背負われて寝ていたせいか、それほど長い時間かかったようには感じなかった。しかし自分の足で地面を確かめながら歩いている今は、ひどく長い時間に感じた。前を見ても後ろを見ても暗闇で、いったいどれくらい道が続いているのだろう、と思った。さらに俺の感覚が正しければ、地下に潜って一直線、というわけでもなさそうだった。
「さっきからこの道、曲がりくねってないか」
「ええ、さようでございます。この辺りの地下には水道管やガス管など、様々なライフラインがすでに埋まっております。それを避けるようにこの道を作りましたので、まっすぐに行くよりも遠回りにはなっております」
「そうなのか」
「突貫工事で作ったものですから、足元が悪いことはご勘弁下さいませ」
「これ、あなたが作ったんですか」
「いえいえ、とんでもございません。わたくしはあくまで、お嬢様のお世話をする、花宮家の一執事に過ぎません。この地下工事は花宮家の行った事業でございます。もちろん、裏事業ではありますがね」
それからまた少し歩いて、地上に出るための階段を上ると、そこにはこれまで俺が見たこともないような規模のお屋敷が広がっていた。ヒナノに背負われていた時よりもそのお屋敷はずっと、大きく見えた。俺がその壮大さに見とれているのを見てか、男性が俺を促した。
「ここにいらっしゃっては、旦那様に見つかってしまいます。他の者には事前に言っておきましたから、一足先にご夕食といたしましょう」
俺はそこまで聞いて、初めて俺の制服が泥でひどく汚れていることに気付いた。雨でぬかるんだ学校の地面に寝転された時のままだった。俺はその服装のままで夕食に臨んでもいいのか、と一抹の不安を覚えつつ、男性と一緒にお屋敷の中に入っていった。




