II-15.止まない雨の中
「「おいしい~!!」」
私も香凛も甘いものが好きだ。特に私は退妖獣使の仕事をし終わった後、帰ってからプリンのような甘いものを食べるのが楽しみの一つだった。カラメルソースも、本格的なほろ苦いものではなく、ただひたすらに甘いもの。本当の意味でのカラメルソースではないと分かっていても、私は食べずにはいられなかった。
「これしおりんが作ったの?」
「うん。私も甘いもの、好きだから」
香凛の方がより興奮していたが、私も内心はかなり嬉しかった。ここに来て大好物にありつけるとは。
「もう少し時間があったら、マドレーヌを作ってたんだけど」
以前翠条さんはマドレーヌが大好物だと言っていた。しかもどこかで買ってきたものではなく、自分で作ったもの。
「……もしかして料理得意だったりする?」
私は気になって尋ねてみた。
「うーん……得意かどうかは分からないけど、料理するのは好きかな。いつものご飯も、自分で手間暇かけて作る方が好きだったりするし」
くぅん、と音が聞こえた。あ、と翠条さんがその音に気付くと、
「いいよ、おいでケルベロス」
ととんでもないことを口走った。
しかし何のことはない。出てきたのは昨日見た三匹の犬、に見える獣型の四半妖獣だった。
「私たちで楽しそうに話してたから、寂しがってたのかも」
お肉食べる? と翠条さんが言って、冷蔵庫からトレイに入ったままの豚肉を出してきた。それを三つのお皿に目測で等しく分けて三匹の前に出すと、たちまち夢中で肉を食べ始めた。
「おんなじお肉でもあまり質の悪いものは嫌がっちゃうから、出費がかさむんだけどね……」
「そうなの?」
「まだこの街に来たばかりで、今はお父さんたちから仕送りしてもらってるけど、いつ止まるか分からないから……」
「じゃ、じゃあ」
私は翠条さんに言おうとしていたことを、ここで言った。
「うちのお手伝いに来てくれない?」
「お手伝い?」
私は祖父の喫茶店でバイトをしていること、ゴールデンウィーク中は東雲さんがシフトに入れないから、その穴埋めをしてほしいということを伝えた。すると、
「本当にいいの?」
自分で言うのもなんだが相当無理やりな頼み方だったにもかかわらず、翠条さんは目をキラキラさせて承諾してくれた。実際のゴールデンウィーク中に慌てないよう、少し前から”新しいバイトさん”として、翠条さんが来ることになった。
* * *
「はわぁ、後輩ちゃんだぁ」
それを一番喜んだのは、他ならぬ東雲さんだった。東雲さんの代わりに入ってもらうことになりました、と翠条さんを紹介すると、東雲さんがそう反応した。
「よかった~、コウちゃんにも断られてたんだよね。レポートに追われてるから無理そうです、って」
東雲さんともう一人のバイトさん・鴻池さんは同じ大学に通っている。きっと大学内で会って話をしたのだろう。シフト表を見ても最近はほとんど週一回のペースでシフトに入るのがやっとなようで、私と東雲さんでほとんどの日を回していた。
「すごい! お店の制服って、着るの夢だったんだ~」
「別にうちの制服、大して特別なものじゃないけど」
「でも嬉しい! これを着てお仕事、するんだよね」
事態がややこしくなるので、翠条さんが四半妖獣であることは東雲さんや祖父には言わないことにした。祖父も四半妖獣のニオイをはっきりと感じることはできないし、バレたらバレたでその時に言えばいい。わざわざこちらから言うのは混乱を招くだろう、と私は思った。
「すみません、東雲さん。今日はちょっと、シフトに入れないので。翠条さんをお願いします」
翠条さんがバイトデビューを飾ったその日、私は退妖獣使の仕事があったので、翠条さんに色々教えるのは東雲さんにやってもらうことにして、私は香凛と店を出た。
「いいよ~♪ ゴールデンウィークまで特訓だ! おー!」
「おーっ!」
翠条さんもウキウキしているのがよく分かった。
後で聞いたのだが、翠条さんは東雲さんの想像以上に物覚えが早かったようで、いざゴールデンウィークになって東雲さんがいなくなり、私と翠条さんとで仕事をした時にはすでに半分くらいの常連さんのコーヒーの好みを覚えてしまっていたのだった。そのことで、翠条さんはゴールデンウィークだけでなく、ずっと祖父の喫茶店でバイトをすることになった。
* * *
実際の時間の流れは別にして、自分の中での時間の流れは、年を取るほど早くなっていくそうだ。体感での人生の時間の流れは、十五歳で早くも折り返し地点を迎えてしまう、なんて話も聞いたことがある。私もあと一年ほどすれば折り返し、というわけだ。
特に私の場合、平日は学校に行き、放課後は祖父の喫茶店でバイトをするか、退妖獣使の仕事をするかのどちらか、という生活が続いていて、時間の流れが早い気がしていた。単調な日々の繰り返しだからかもしれない。あとは、
「こうも雨続きだと、気分が沈むね……」
ゴールデンウィークが明けて、東雲さんがいっそう仲良くなれたよ! と嬉しそうに帰ってきた、数日後。東雲さんの旅行が終わるのを待っていたかのように、天気がぐずぐずし始めた。一日二日なら私も気にしないのだが、雨こそ大して降らないが晴れ間も見えない、といった天気が一週間、二週間と続き、そのまま梅雨に入ってしまった。そんな暗い天気が続いていたのも、時間の感覚がなくなる一因かもしれなかった。ちょうど下校の時間帯くらいになって本降りになることも多く、私や翠条さんがぐっしょり制服を濡らして喫茶店にやってくることもざらだった。
「ふう……」
五月が終わろうとしていたその日も、ちょうど校門を出たくらいで雨の勢いが増し、折りたたみ傘しか持っていなかった私と香凛、それから翠条さんは三人ともびしょびしょになって、祖父の喫茶店に滑り込んだ。三人とも自宅より喫茶店の方が学校から近く、ひとまず雨宿りさせてもらうことにしたのだ。
「ああ……みんな、ひどい濡れようだな。少し待ってなさい、タオルを取ってくる」
今にも風邪を引きそうな私たちを見て、祖父がすぐに奥から体を拭くためのタオルを出してきてくれた。
「ありがとうございます」
「そのままでは風邪を引くかもしれない。シャワーを使いなさい」
もともと祖父の家だったのを増築して喫茶店となるスペースを足した、ということもあって、シャワーも奥に行けばあった。一番濡れてぶるぶる震え始めていた翠条さんを先に浴室まで案内して、私と香凛も奥の床に座り込んだ。
「替えの服は心配ないよ。じいやにここまで三人分、持ってきてもらうから」
実は雨が降り始めた時いったん校舎に戻って、香凛が迎えに来てくれないか、と連絡を取っていた。しかしさすがはお嬢様学校というべきか、すでに校門の前には多くのお迎えの高級車が陣取っていて、じいやの車を止めるスペースがなかった。仕方なく私たちは、とりあえず一番近いこの喫茶店まで走ろう、ということにしたのである。
だがこの喫茶店ならじいやが車を止めることができた。私も翠条さんもちょうどバイトの日だったので、シャワーを浴びた後そのままバイトをして、終わっても雨が降っていたらじいやの車で家まで送ってもらおう、ということになっていた。
「こちらが薫瑠様の分、こちらがお嬢様の分です。翠条様の分は少し前のお嬢様のものですから、一回り小さいやもしれませんが……」
「大丈夫だと思うよ。しおりんちょっと小柄だし。ありがとう、じいや」
「また、薫瑠様と翠条様のアルバイトの時間が終わる頃、お伺いしますので」
「よろしくね」
翠条さんが上がってくる頃にはじいやが到着して、袋に一人分ずつ分けられた替えの服をもらった。ぱっと見た限りどれも香凛が休日着ている服らしかった。派手なドレスではないが、どこへも出かけない休日に着る服としては高すぎるかな、という種類のものだ。ただ、こうしてすぐに替えの真新しい服を用意してもらえる環境があるのはありがたいことだった。
「ありがとうございます……すごく、助かりました」
翠条さんがその服を着て出てくると、ちょこん、としたお人形さんのようでよりかわいらしかった。
「いや、礼には及ばないよ。せっかくあるんだから使わなければもったいない。二人も早く入りなさい」
「じゃあかおるん、二人で入ろっか」
「無理。香凛の家みたいな広さじゃないから。二人で入ったら面倒なことになる」
私はスパッと断って、えー……とぼやいてがっかりする香凛を尻目に浴室へ向かった。
香凛まで全員がシャワーを浴び終わっても、まだ雨は降り続けていた。まさにバケツをひっくり返したような、という表現が当てはまる降り方で、そんな天気の日にわざわざ外に出ようという人はいないのか、いっこうにお客さんが来る様子はなかった。
「東雲さんも体調が悪いと言って最近休みがちだからな。これだけ低気圧の影響があれば、体調も悪くなるだろうと思って、ゆっくり休むように言ってあるんだが」
常連さんまで来ないとなると、いよいよ今日は閉めた方がいいかもしれない。祖父はそんなことを言った。
「あるいは、せっかくだから掃除をしようか」
「そうする?」
普段からマスターである祖父や、遅めの時間までシフトに入っている東雲さんが軽めに掃除をしているのだが、やはり大掃除の時くらいでないとなかなか手を出せない、という箇所もあるらしい。ちょうど祖父と私、翠条さんがいるということで、大掃除をすることになった。
「わたしは見てるだけでいい?」
「じゃあ香凛は窓拭きをお願い」
「えー」
香凛も私たちのバイトが終わるまで居座るつもりだったようだが、大掃除中はどのみちパフェも作ってあげることができないので、香凛にも手伝ってもらうことにした。香凛もぶうぶうと文句を言いつつ、結局は掃除を手伝ってくれた。
翠条さんもきれい好きだったようで、
「ふんふん、ふ~ん」
と鼻歌を歌いながらモップがけをしていた。私は翠条さんの部屋が整っていてきれいだったのを思い出した。
それから一時間ほど、一通り大掃除も終わって、お疲れ様、ということで私が三人分のパフェを作り始めた、その時だった。
チリンチリンッ
と、かすかにドアベルの鳴る音がした。香凛はパフェを待ちつつスマホいじりに夢中で、翠条さんも鼻歌の続きを歌っていたので、二人ともその音には気付いていないようだった。
「薫瑠」
「……うん」
そのドアベルの音は、裏口の扉が開いたのを知らせるものだった。裏口は人間をどうしても食べなければならない半妖獣のために、夜に限ってその肉を提供している場所だ。まだ夕方に差し掛かったこの時刻に、どうして裏口が開いたのか。祖父も、かすかなその音を拾ったようだった。
「ちょっと、様子を見に行ってくる」
私は祖父にそう言って、裏口の方へ向かった。
半妖獣の人が訪ねてきたのならば、それはそれで構わない。次からは人目につかないよう、夜間に来て下さい、と言えばいい話だ。だが、そうではなかった場合が危険だ。
裏口は一度階段を下りて地下の無機質な長い廊下を経由してから、人肉を保存している巨大な冷蔵庫の横を通り過ぎて、再び階段を上って地上に出たところにある。私さえも裏口から外に出たことはない。ただ、昔一瞬だけ見たことのある裏口を通して見た風景は、光など一切届いていない暗闇だった。きっとビルとビルの隙間だったのだろう。
「(……冷たい)」
さすがに裏口は外に直通しているだけあって、冷たい風が吹き抜けていた。雨がない分いくらかはマシに思えたが、それでもシャワーを浴びて温かくなっていた私の体の温度が奪われていく感覚になった。
そして、目の前に人がいた。
「……」
その人は金色の髪が逆立ったような、一度見たら忘れられないようなインパクトのある髪型をしていた。男か女か見分けのつかないような顔立ちに服装だった。申し訳程度のフードをかぶっていたが、ほとんどその意味はなく、全身がぐっしょりと濡れていた。
「……コイツを頼む」
その人は私の姿を認めると、どさっ、と背中に背負っていた荷物を降ろした。レインコートを着込んだその荷物は物ではなく、人だった。私は人だと分かった瞬間、背筋がぞっとするのが分かった。
「この人は……」
「ソイツはアタシには手に負えないんだ。アタシがソイツを預かるのは、得策じゃない」
「手に負えない? どういうこと?」
「ソイツは今後誰にも見つかっちゃいけない。特に四半妖獣と、退妖獣使の事情を知る奴にこれ以上知られちゃマズい」
「四半妖獣と、退妖獣使……」
「アンタの家族と、パートナーぐらいならいい。ただ、口外は厳禁だ。アンタの身にも、いずれ危険が及ぶことになる」
「どうしてそんな、危険な人を私に?」
フードをかぶったその人はより一層フードを引っ張って顔を隠しつつ、フン、と鼻を鳴らした。
「いずれ分かる。アンタも、無関係じゃいられない。退妖獣使を、やっている以上はな」
それ以上何も言うことなく、金髪のその人は裏口から出て行こうとした。私はその後ろ姿で、あることを思い出した気がして、その人に声をかけた。
「ねえ」
「……」
「もしかしてあなた……習獅野?」
私の勘が当たっていれば。その人の名前は、それであるはずだった。対してその人は何も言うことなく、ただ口角を少し上げて、それから去って行ってしまった。
「どういうこと……」
私は呆然としつつも、冷たい床に無造作に置かれたレインコート姿の人を見た。見る限り私より少し年上の男の人のようだった。その場に放置するわけにもいかない。ひとまず祖父の家まで運ぼう、と手伝ってもらうために祖父を呼びに行こうとした時だった。
「ん……?」
その男の人が、目を覚ました。私はそっと立ち去ろうとしている、と勘違いされるのが嫌だったので、様子を見守ることにした。
「誰……だ?」
「わ、私は」
私は相当焦っていた。何とか心を落ち着けつつ、名前を名乗る。
「遼賀……知らないな」
「あ、あの。あなたの、名前を。聞いておきたいんですけど」
私が聞き返すと、男の人はぼんやりと宙を見ながらも、自分の名前をはっきりと言った。しかしその名前もまた、私が聞いたことのないものだった。
「俺……俺の名前は、偶谷。偶谷、七馬、だ」




