II-14.しおりんの境遇
翠条さんの家は香凛の家からそこそこ遠いところにあるらしく、私たちに一通り事情を説明してくれた翠条さんは一足先に帰ることになった。すると翠条さんくらいか弱い女の子が夜道を一人で歩くのは危ないから、と草壁先輩が送っていくことになった。しかしその話を聞いていたじいやが他の使用人に連絡して、二人とも車で送っていくことになった。
「かおるんは帰らないの? 二人と一緒に帰ったらよかったのに」
「私は別に。最悪ここに泊まっていけるし」
「自分の家みたいな言い方だね」
私が香凛の家に泊まるとお弁当も作らないことになるので、父と弟が次の日の昼食に困ってしまうことは分かっている。だが、父から特に香凛の家に泊まるのを止められたことはなかった。私の父は私と香凛の仲を認めているからだろうか。
「嫌とは言わないでしょ」
「まあ、そうだけど」
本音を言えば単に家に帰るのが面倒なだけだったのかもしれない。結局その日も、私は香凛の家に泊まらせてもらうことになった。
「……言ったでしょ」
「何が?」
しばらくののち、一緒に露天風呂に入っている時だった。ふんふんふーん、と鼻歌を歌って体を洗いながら、何でもないことのように香凛が言い出した。
「しおりんはやっぱり、嘘をついてた」
「ああ……」
お昼休みに、香凛がそう言っていたのを私は思い出した。だが結局、どこに嘘があったのかなど分からなかった。そもそも、まだ翠条さんが邪悪じゃない四半妖獣だという事実を、信じ切れていなかった。
「かおるんのことだから先に言うけど、しおりんが他の四半妖獣と違うのは、間違いないよ」
「そうなの?」
私はというと香凛の隣でシャワーヘッドをいじって、勢いよくお湯を出したばかりだったので、少し声を大きくして聞き返した。
「そう。その分だと結局分からなかったみたいだけど」
かおるんその辺り鈍いからね、と香凛が余計な一言。そんなことないわ、と私は香凛の顔に向かって相変わらず勢いのいいシャワーをかけた。
「嘘も何も、あれが本当じゃないの。それに翠条さんが嘘をつく理由は?」
「話してたのよりもっと悲惨な過去が、あるのかもしれない。確かに、ここからは推測になるけど――」
悲惨な過去、と聞いて私は思わず息をのんだ。私や香凛よりずっと華奢な体。翠条さんを初めて見れば十人中十人ともか弱そう、と言いそうな翠条さんが、受け止めてきた過去。
「少なくとも、しおりんは偶然でこの街に流れ着いたんじゃない。わたしやかおるん、あるいは草壁先輩みたいな退妖獣使がこの街にいることを分かった上で、最初から事情を話して、守ってもらうつもりでこの街に来てる。でなきゃ、わざわざうちの学校に来たりはしない」
花宮学園の生徒は制服を着ていればすぐに分かる。うちの学校の生徒というだけで目立つのに、そこに通常はあり得ない転校という方法でやってきたとなれば、目立たないわけがないだろう。そのことは翠条さんも分かっているはずだった。
「かおるんや草壁先輩に認めてもらって、自分が普通の四半妖獣とは違うってことを広めてもらえたら、もう後は心配ないでしょ?」
「それって、翠条さんが実は違うみたいな言い方だけど」
もしも翠条さんがそのことを最初から狙っていて、後から裏切るようなことがあったとすれば。とてもそういう計略家なタイプには見えないが、先入観は時として牙をむく。油断はできない。
「もちろん、違うよ。わたしは確かに、しおりんから邪悪な気配は感じなかった。普通そんな邪悪な気配を消し去るなんてことはできないから、本当にしおりんは人を食べたりしないし、普通の女の子と何ら変わらないと思う。それでも、最初からそんな危険な賭けに出ようなんて、すごい話だよね」
それに、と香凛は一足先に体を洗い終えて、お湯につかろうと移動しながら付け加えた。
「根本の始末をした時。あんな子がわざわざソフトボール部のバット借りてきて、殴ってとどめ刺そうと思う? 退妖獣使でもないのに、乱入しようって発想にまずならないと思うんだよね。しかもその後散らばった血を見ても怖がることはなかった。……これこそ推測だけど、しおりんが昔住んでたところには、しおりんみたいな普通とは違う四半妖獣が、いっぱい住んでたのかもしれない。そして四半妖獣だからという理由で、仲間や知り合いが殺されるのを、見てきたのかもしれない」
私は呆然とした。そんなものを経験したら、性格なんてとうの昔に歪んでしまっただろう。退妖獣使を始めた頃の私は、四半妖獣を始末した時に流れる血をまともに見ることができなかった。退妖獣使がそういう仕事だと分かってはいたが、それでもショッキングな光景で、とてもまともに見られるものではなかった。今でこそ慣れてしまったが、もう少し私に忍耐力がなかったら、きっと弱音を吐いていただろう。
「しおりんの『私の身の潔白が証明されるなら何でもする』って言葉に、よく表れてるよ。あれは例えなんかじゃなくて、ホントに心の底から、そう思ってるのかもしれない……」
翠条さんの、とびきり明るい笑顔。純粋で無邪気で、裏表のないその笑顔が、私の頭の中でにじんだ。私は現実を直視したくなくて、お湯に入ると顔の下半分をお湯に沈めた。ふぅ、と長くて細いため息をつきながら、香凛も同じようにした。
* * *
「今度、しおりんの家に行こっか」
ベッドに寝転んでから、香凛が私に言った。
「翠条さんの?」
「うん。大丈夫。そこまで深入りはしないつもりだから」
翠条さんに何があったのかは分からないが、それを聞くのはやめておいた方がいい。私もそう思っていた。
「わたし、単純にしおりんに興味があるんだよね。どんな子なのか、普段どんな感じなのか。家に帰ってもあんな感じなのかな、とか」
「……」
「ほら、昨日も肉団子スープ、作ってたでしょ。あれ別にじいやが手伝ったとか、そんなのじゃないから。全部しおりんがやるって言い出して、一人で作っちゃったんだよね。わたしは側でずっと見てただけ。もしかして料理上手いのかな、とか思っちゃったりして」
かおるんと比べてどうなんだろうね。と香凛はつぶやいた。
「料理が上手い……か。手伝ってもらえるかな」
私は現実逃避するように、全く別のことを考えていた。
* * *
「えっ! 今日?」
「大丈夫?」
「たぶん……少し、散らかってるかもしれないけど……」
「そっか。ありがとう」
さすがに戸惑っていたが、翠条さんに家に行ってもいいか尋ねると了承してくれた。
「少し遠いけど、大丈夫かな」
「どれくらい?」
「申ヶ岩駅の近くなんだけど……」
私や香凛の家、私たちの学校の最寄り駅は辰川という名前だ。申ヶ岩は四つ隣の駅になる。
「まあそこなら、学校から一時間もかからないでしょ? じゃあ、行くの決定で」
結局香凛がほとんど独断で決めていた。翠条さんも特に嫌ではないようで、終始笑顔だった。
私も香凛も、基本的にどこか遠くに出かける以外は住む街から出たことがなかったので、電車に乗って移動すること自体が新鮮だった。特に香凛はそもそもこれまで電車に乗る、という発想自体なかったらしく、駅の構内に入ってから電車に乗るまで、ずっときょろきょろしていた。
「これは?」
「それは切符。電車に乗るのに必要なの」
「これを、自動改札機に通す。おおーっ、穴開いた!」
まるでタイムスリップしてきた昔の人を案内している気分に私はなった。香凛の態度にさすがの翠条さんも、
「花宮さん、本当に電車乗ったことないんだね……」
と感嘆の声を漏らしていた。そもそも自動改札機を作る会社も花宮ホールディングスの子会社だったはずなのだが。
電車に乗って二十分もすれば、申ヶ岩駅に着く。商店街が続く南口とは反対側、閑散とした住宅街の広がる北口を出て、すぐそこのマンションに入っていった。
「あれ? これうちのマンションだ!」
「……ホントだ」
マンションの入口の壁にしっかりと、花宮家の家紋と同じオブジェが飾られていた。
現当主である香凛のお父さんならどれが花宮家の資産や会社だ、と分かるのだろうが、香凛は残念ながらその辺りをあまり知らないらしい。
「オーナーは花宮さんだって、入居する時に言われたよ?」
「へえ……」
「かおるん、そういう意味じゃない」
翠条さんが付け加え、私が納得したところに香凛が割って入った。
「これあれだ。思い出した。ここのオーナー、わたしだ。メゾン・アルフォール申ヶ岩」
やはり本物のお嬢様は、規模が違った。
マンションのエントランスは最新型のオートロックが採用されていて、女の子の一人暮らしにもピッタリ。……要は大学生の下宿先として提供する予定だったのだが、思いのほか家族連れや老夫婦の入居者が多いらしい。そんな中翠条さんはターゲット通りのお客さん、ということになる。翠条さん自身は中学生だが。
「ここだよ」
手際よくオートロックの扉を開け、エレベーターで七階に上がり、突き当たりの角部屋。そこが翠条さんの部屋らしかった。
「ここに一人暮らし? ちょっと一人にしては広いんじゃない?」
「そう。ゆったり目になるように作ってあるからね」
いったん思い出してからの香凛の説明は手際がよかった。さすがに頭に叩き込んだマンションの情報が記憶に残っているらしく、このマンションは何階建てだとか、ワンフロアに何部屋あるか、など。部屋によって微妙に部屋の広さが異なるから、とは言いつつ、現在の平均家賃も教えてくれた。私の家ではそういうことは父にやってもらっているので、それが高いか安いかは私には分からなかった。
「それってどうなの? 高いの?」
「まあ、その辺のマンションに比べれば高いね。そもそもターゲットのこともあって防犯対策に力を入れてるし、部屋も広いから。近くにお嬢様学校の女子大があったと思うんだけど、完全にそこの学生が主なターゲットだね」
って言っても、肝心のそこの学生はあまり借りてくれてないんだけど、としれっと香凛は愚痴った。
「ちなみに四半妖獣対策もバッチリだよ。さっきのオートロックの入口あったでしょ? 邪悪な気配を出してる四半妖獣が来たときは、絶対にあそこは開かないようになってるから」
実はこれは笑いごとではない。私たちの街でも一度、マンションに四半妖獣が侵入してカギをこじ開けられ、相当数の人たちが喰い殺された事件が起きていた。辛うじて退妖獣使に通報がいったことでその場で始末されたが、以降はマンションをはじめとする集合住宅には、少なくとも数人は退妖獣使が入居すること、という決まりができた。さらに、可能ならば厳重なオートロックを付け、まず四半妖獣に侵入されないような構造にせよ、というお達しも出た。
「少し待ってて。何かお菓子とかあるかな……」
「いいよ、そんなに気遣わなくても。勝手に押しかけてるだけだし」
「そう? ごめんね」
私はそう言っておいた。家に誰か来るということは想定していなかっただろうから、そう言っておく方がいいと私は思った。
「ちょっとかおるん! 何でそんな余計なこと言うの!」
と香凛には怒られたが。
「お菓子食べに来たんじゃないんでしょ」
「そうだけどさ。お菓子欲しいじゃん」
「またじいやに怒られるよ、不摂生はよくありません、って」
「いいもーん、じいやに一度怒られるくらい何ともないもーん」
「今のもじいやに言っとくよ」
「それは勘弁して」
香凛と話していると、あ、と翠条さんが声を上げた。
「あれがあった。ちょっと待ってね」
翠条さんが思い出したように冷蔵庫を開け、中から出して私たちに出してくれたものはプリンだった。
「自分用に一週間分くらい作ったんだけど、せっかくだから食べてほしいな」
カラメルソースは底の方に埋まっていて、スプーンで思い切ってほじるととろっ、と溢れ出してきた。私も香凛も大好きな、とびきり甘いカラメルソースだった。




