II-10.追い詰める
半妖獣は人間を喰うことをやめて、人間に協力するようになった存在。そして、四半妖獣はその逆、昔の妖獣の姿勢を今も引き継ぎ、人間を捕食対象として見ている存在。
その常識が必ずしも成り立つわけではないということを、実は私は前々から知っていた。半妖獣は明治維新以後の軍による妖獣掃討作戦を避けるため、人間を喰うことをやめようとしたのには間違いない。だがそれは半妖獣の全員ではなかったし、その方針に賛同して人間を喰うのをやめる努力をした者の中にも、どうしてもやめられず現代に至る人もいる。
『人間を喰うのをやめるのに失敗した人たちは、決して悪くない。あれは文字通り、血反吐の出るような努力の積み重ねだったんだ。遼賀家は成功した家の一つだが、失敗し一族もろとも死んでいた場合もあった。元は同士だった彼らを見捨てることは、傲慢に他ならない』
私が小さい頃にはまだ生きていた曽祖父は、口癖のようにそう言っていたという。祖父ももちろん、同じように考えていた。しかし世間一般的には半妖獣と四半妖獣の区別がついていない人もまだまだ多い。どうしても生きるために人の肉を食べなければならない、そのことに罪悪感さえ抱え込んでいる半妖獣と、主体的に人を襲いその肉を喰らう四半妖獣との区別がつかないのである。そんな半妖獣の人たちのために、祖父は何日かに一度、夜にも喫茶店をこっそり開けて人肉を提供している。もちろんその肉は、半妖獣の事情を知り、協力してもらっている人たちの好意で提供してもらったものだ。生前に肉体を提供することを了承している人からしかいただいていない。妖獣の中にも人間と何ら変わらない、平穏を望む人たちがいるとよく理解してくれている存在は、貴重だ。
「ホントに上手くいくのかな……」
そんな同じ半妖獣に食糧を提供する仕事を慈善事業としてやっている祖父に、私は無理を言った。いつ助けを求めにやってくるか分からないから、と大量に保管してある肉のうちのほんの少しを分けてもらったのだ。人間は雑食であるせいか、その肉はかなり癖のある臭いがする。腐敗する前から、だ。いくらなんでもそのままでは普通の人間でも気付いてしまうので、人間は気付かないが鼻のいい妖獣は気付く程度の臭いの処理がされている。その肉を、件の高校一年三組の教室に置くのだ。
「私はニオイ感じないから、分からないんだけど」
実は私は人間の肉のニオイもあまり感じ取れない。そんな状態で退妖獣使が務まるのか、と時々私は思う。思いつつ、一年が経ってしまったのだが。
私の他にも退妖獣使を務める人が多くいるうちの学校に、四半妖獣が潜伏しているかもしれない。前代未聞のその事実を前にして、多くの先生方が私たちに協力してくれた。可能性の高い高校一年三組の教室の少々見つかりにくいところに例の肉を置き、さらに隠しカメラも設置した。
「四半妖獣はあくまで自分から人を襲いに行くからね。最初から肉が用意されてたら、どう出てくるか分からないよ」
「分かってる。ただ、今の状況を見過ごすことはできないから」
翌日、恐らくこのクラスにいるだろう四半妖獣が、どう出るか。私たちは動向を見守るのみだった。
次の日の授業にはとても集中できそうにないということは、私も分かっていた。時々でも何か変化があったか、スマホから確認しなければならなかったからだ。私はいつ肉に反応する人がいるか分からない、とかなりの頻度でスマホをいじっては映像を確認していたが、そんな私を香凛は、
「(そんなに頻繁にしなくても、いいと思うけどなあ)」
とでも言いたげな表情で私を見ていた(後で聞くと、本当にそう思っていたらしい)。
実際肉の位置が移動したのが確認できたのは、お昼休みに入ってからだった。真っ黒い髪を肩くらいまで伸ばした、見る限り一切怪しさのない生徒が一人、肉の包まれた袋を見てニヤリ、と口端を上げ、次の瞬間には元の表情に戻ってその肉を持って行ってしまった。
「……根本だな」
高校一年生の担当をしている先生にその映像を見せると、すぐに誰かは分かった。あとは学校中のあちこちに設置された監視カメラで根本がどこに行ったのかを追う。それも比較的時間を要さずに終わった。根本は制服のポケットに肉を忍ばせつつ、何食わぬ顔をしてお弁当を食べに友達三人と歩いていた。向かった先は、屋上。
「屋上……?」
「普段はカギかかってるよね」
香凛の言う通りだった。屋上には申し訳程度の柵しかなく、しかも香凛くらい華奢な体の子でも何とか乗り越えられるくらいのものだった。安全面の問題から、事務室に一つあるカギでしか扉が開けられないようになっている。しかし四人は何らかの方法でカギを開け、屋上に入っていった。ご丁寧に、他に入って来れないように再びカギをかけていた。
「行くよ、香凛。何が起きてるか、確かめに行く」
私は事務室で屋上のカギを借り、香凛と二人で屋上へ向かった。
しゅぼん。
何があってもいいように、最悪屋上で即戦闘に発展してもいいように、私は戦闘態勢を整えた。香凛も翼になって私の背中で息をひそめていた。私のただならぬ様子を見てか集まってきた野次馬たちも、私が白い装束姿になった時に出た煙で視界を覆われていた。
私は体の左側に差していた赤い短刀を引き抜き、奇襲に対する準備をする。そして持っていたカギで屋上の扉を解錠し、ドアノブをひねった。
「危ない……っ!」
香凛がとっさにそう言ったが遅かった。ドアを開けた瞬間、そこには例の根本と、彼女について行った三人が立ちはだかっていた。二歳年上でしかないはずの相手は、ずっと体格が大きく感じた。香凛ほどではないがそこそこ華奢な体をしている私も、あっという間に首根っこを掴まれて放り投げられた。
「くっ……!!」
香凛の翼のおかげで大したけがはせずに済んだが、私は想定外の事態に戸惑っていた。
「もしかして、四人とも?」
「そうだよ。扉のすぐ近くで反応があったから、かおるんを止めようとしたの。でも、間に合わなかった」
香凛にも確認をとった。今私が目の前にしている状況を見れば、明らかだった。
「(根本だけじゃなかった。四人とも、四半妖獣)」
それは異常に他ならなかった。この学校の生徒のほとんどは人間だ。そこに人間を喰う四半妖獣が四人も紛れ込んできたのだ。誰も気付かなかったのか。いや、誰も責めることはできない。退妖獣使の私や香凛が気付けなかったのだから、誰も気付けなくて当然なのだ。
四人はみな異形の姿をしていた。その昔アヤカシが存在していた頃、こんな姿かたちをしていたのだろう、という外見。一番前に構えていた根本は手がオオカミのような鋭い獣の手になっていたし、他の三人も禍々しい牙を生やしていた。目は昼間なのにらんらんと狂ったように光っていた。それは普段山の中にいて、下りてきては人を襲う獣と何ら変わらない、獰猛な目だった。
「びっくりしたでしょ? 四人とも、グルだなんて」
根本の声はその顔から想像もつかないほどねっとりとした、不気味な声だった。あえてそんな声を出しているのかもしれない。
「ゾクゾクしたぁ、この肉を見た時。ついにあたしのもとまで、たどり着いてくれたんだと思ってさぁ」
「……」
根本は私が置いた肉の包みを乱暴にはがすと、ねっとりとした視線でそれを見つめ、これでもかとしゃぶって見せた後口に入れ、ゆっくりと咀嚼した。その仕草のどれにも、私は共感できない。ただただ、気持ち悪いと感じるだけだった。
「この学校には退妖獣使がいるから、四半妖獣は来ない――そう思ったでしょう?」
「……退妖獣使は私だけじゃない。私の他にも、今まで数多く四半妖獣を倒してきた退妖獣使が、たくさんいる」
「知ってる知ってる。でもそんなの大したことじゃない。あたし四半妖獣の中ではなかなかの悪食で知られててさぁ。別に人間の肉が食べられなくても、何も問題ないのよねぇ」
「……っ!」
ほんの少しだけ、私の反応の方が早かった。まばたきした瞬間に根本が私に急接近し、私の腕をかみちぎろうとした。装束が少し破れて、切れ端が根本の口元に引っかかった。根本は構わずその装束の切れ端を口に放り込み、大して噛むこともなく飲み込んでしまった。
「たまらないねぇ。半妖獣の濃ゆ~いニオイがこびりついてて、まるで本物を食べてるみたいだった……次は本物が、食べたいなぁ……」
根本の悪食という言葉は本当らしい。ただの布切れをあんなにうまそうに食べるなど尋常ではなかった。根本の食べられるものは人間に限らないということか。
「ゾクゾクするんだよねぇ。こうやって、退妖獣使が食べられそうな状況になるとさぁ。もちろん人間の方がずっとおいしいんだけど、退妖獣使の肉もなかなかいける。バケモノの血が一つしか混ざってないから、むしろ口当たりがまろやかになって、食べやすいんだよねぇ」
食べられるかもしれない。
今まで考えたこともなかった。私の中に恐怖が芽生え始めているのを、自分自身で確かに感じていた。短刀を持つ手が震えるのが分かった。
「あ。あたし、知ってる。あたしね、前の街で何人も退妖獣使を食べてきたんだけど、その度にあたし、気持ちよくなっちゃって。四半妖獣を殺す側の退妖獣使が苦しみもがいて死ぬ声を聞くとあたし、肌という肌がぞわぞわしてたまらないの。人間で言う性的快感よりはるかに気持ちよくて、中毒になっちゃって」
そう言いながら、根本がゆっくりと私に歩み寄ってくる。分かっている。私が近付かれるたびに、食べられるまでのタイムリミットが近付いているということは分かっているのに、私の体はこれっぽっちも動こうとはしなかった。香凛が背後で私を必死に呼ぶ声がする。それでもぴたりと足は動きを止めてしまっていた。いや、正確にはぴたりと止まっているのは足の裏だった。ひざはガクガクと震えが止まらなかった。
「あ……ああ」
恐怖のあまり声もそんなものしか出なかった。自分がかつてないほどの恐怖を感じているということだけは、なぜかはっきりと分かっていた。
根本以外の三人は根本のいくらか後ろにいて、行く末を見守るつもりのようだった。辛うじて私が短刀を握り直し、ぎりっ、と根本をにらみつけることができた、その時だった。
「遼賀! 大丈夫か!?」
カギの開いていた屋上の扉を突き破るようにして、一人の生徒が姿を現した。その生徒はこの学校の生徒ならだれでも知っているであろう人物だった。
「草壁先輩……!」




