II-06.私と香凛と朝ごはん
「退妖獣使をやる」
言葉は短かった。しかし簡潔で、どんな言葉よりも、私の意思を示していた。
「母さんの跡を継ぐ……か」
まるで私が最初からそう言うのを分かっていたかのように、父は言った。ちょうど喫茶店の営業を終えた祖父も、和室にやって来た。父から話を聞いたらしかった。
「父さんとおじいちゃんは、反対だ。母さんが退妖獣使の仕事をやっていたがばかりに死んだことを、お前もよく覚えているはずだ」
「……分かってる。手紙を読んで、初めて知った。お母さんが私に、みんなに優しくしてくれていた裏で、どれだけの苦労をしていたか。四半妖獣に対して恨みや憎しみの感情を持ち続けることが、どれだけ負担か。それでも私は、退妖獣使をやりたい。あれだけ正直に手紙を書いていたお母さんが、退妖獣使の仕事がつらかったなんてことはどこにも書いてなかった。確かに楽しいとは、程遠いものかもしれない。でも私は、……お母さんがどうしてそれでも続けていられたのか。どうしてお母さんがあんなに強かったのか。その理由を知りたい」
私は言い終わってしばらく、黙って父の方を見ていた。私はそうやって父に言うことで、本当に自分がどう思っていたのか分かることができた。母が目の前で亡くなるのを見たから退妖獣使はやりたくない、という答えにはならなかった。その時から、退妖獣使をやる、その務めを果たしてみせるという思いは変わらなかった。
「……」
「分かった」
私にどのような言葉をかければいいのか悩んでいたらしい父に代わって、祖父が言った。
「薫瑠がそこまで言うなら、お前に継がせよう。……ただし、もしも辛くなった、やめたくなったというのであれば、すぐに言いなさい」
かつて退妖獣使の務めを果たしていた祖父に基礎を教えてもらい、私は中学に入ってすぐに退妖獣使となった。女性であれば中学生から退妖獣使の任に就けるとは言え、その歳から本当にやり始める人はおらず、意図せずして私は史上最年少の退妖獣使となった。一年経った今でも、最年少という称号は変わっていない。
* * *
私は早起きが得意な方だ。
母が幼い頃に亡くなってしまい、父と家事を分担するうち食事を作る担当が主に私になったことも大きい。いつもなら会社勤めの父と、今年から中学生になる弟の璃浦、そして私と三人分のお弁当を作ることから私の朝は始まる。
「どうせ早く起きるんでしょ? ギリギリでいいから、起こしてえ」
と私は前日の夜に香凛から言われていたので、私は先に起き出して準備をしておくことにした。ちなみに香凛の家に泊まったので、父と璃浦には昼食は各自適当に調達してくれ、と言ってあった。
「おはようございます、薫瑠様。お嬢様は、お目覚めですか?」
「いえ。いつも通りです」
「そうでしたか。では朝食の準備が整いましたら、お呼びいたしましょう」
階下に降りると、まずじいやが出迎えてくれた。香凛が朝に弱く、ぐずって起き出そうとしないのは日常茶飯事だった。私も特に香凛を無理やり起こそうという気はなかったので、毎朝誰よりも早く起きるのだというじいやと一緒に、朝食を作り始めた。
「薫瑠様は構いません、どうぞ、お休みください」
「いいんです。なんか、最近人の食事を作るのに慣れてしまって。むしろ何もしないでいいって言われると、落ち着かなくて」
「そうですか……」
いくら香凛がお嬢様だと言っても、朝から豪勢な食事はとらない。それは過去に生きていた貴族でも同じことらしい。私の家は特に金持ちでもないし、むしろ貧乏に入る方なのでてっきり思い込みで朝からいいもの食べてるんじゃないか、と思ってしまうのだが。
じいやが丹念に、しかし手早く慣れた手つきでだし巻き卵を作る横で、私はベーコンを焼いていた。最初香凛の家に泊まるようになった頃は、じいやのだし巻き卵の作り方を見て目を丸くしたものだ。これでもか、これでもかとダシを注ぎ込む。そうするとおいしくなるのか、と聞くと、もちろんそれもあるが、単に香凛がダシでジャブジャブになった卵が好きだから、ということらしい。いつも香凛を基準に考えているからかもしれないが、どうも金持ちの家の娘は食べ物に変なこだわりがある気がする。
「……お嬢様のお弁当も間もなくできますし、お嬢様を起こして差し上げてください」
じいやはとにかく手際がいい。私が自分と香凛の分の朝食を半分くらい作っている間に、じいやは残り半分と香凛や私の分のお弁当まで作り終わっている。どうしたらそんなに手際よくご飯が作れるのか、と私は思いつつ、再び二階へ香凛を起こしに行った。
「香凛。ご飯できた」
ゆっさゆっさ。
私が香凛の柔らかい--どんな生活をしたらそんなふにゃふにゃした体になるんだ、というくらい柔らかい体をつかんで揺らすと、
「うーん」
ととりあえず返事だけして、また眠りに落ちてしまった。
「知らないよ。置いてくからね」
と釘を刺しても効果なし。私は香凛の頭にそっと触れて、
「起きろーっ」
髪を引っ張った。
「いたいいたいいたい」
香凛のリアクションはあったが、それでも起きなかった。
「香凛が起きてくれないと私まで責任問われるから。勘弁して」
最近では香凛がぼんやりして遅刻寸前に登校してくるのは私のせいだ、とまで言われるようになっていた。特に今日は香凛と朝から一緒にいるから、余計に疑われるかもしれない。
「うーん、……じゃあ、ぎゅーってして。かおるんがぎゅーってしてくれないと、起きられない」
「バカなこと言ってないで早く起きて」
「ううん。本当に起きられない」
「……えっ」
「ぎゅってして」
「……軽くだからね」
ぴくりとも香凛が動こうとしなかったので、私は香凛に従うしかなかった。
ベッドの上に乗って香凛に近付くと、香凛は途端にすっ、と起き上がって座った。なんだ、自分で起きられるんじゃないか、と私は思いつつ、香凛の腰に手を回して、少し抱き寄せる。香凛も同じように私の腰に手を回した。
「かおるんはいつでもあったかいね」
「香凛がいつも冷たいだけじゃないの」
「ひどい! ひとを死人扱いして」
実際その時の香凛の手は起きたばかりなのに、しばらく外気にさらされていたかのように冷たかった。
「かおるんがひどいこと言ったから、もうちょっと強くぎゅってして」
「これ以上は無理」
「嫌。もっとかおるんのあったかさがほしい」
そんなにじっくりしてられる時間はないんだけどな、と思いつつ、私はより強い力を込めて香凛を抱き寄せる。ふわっ、と香凛から鼻をくすぐるいい匂いがした。質がいいとすぐに分かる柔軟剤の匂いと、どこに売ってるのか聞きたくなるような、神々しささえ感じさせるボトルをしたシャンプーの匂い。私も昨日は同じシャンプーで髪を洗っているはずなのに、”香凛が”そのシャンプーを使うだけで、違う匂いがしている気がした。
「うちのシャンプー。かおるんが使うと、柑橘系の匂いになるね」
意識したことはなかった。そして、香凛の髪からぽふっ、と漂う匂いは、柑橘系でないのは間違いなかった。
その匂いのうまい例え方が見つからなくて、私はもう一度確かめようと鼻を香凛の髪に近付けた。
「ミルク……?」
「うん?」
牛乳というよりは、ミルク。一緒のようで全然違った。牛乳にしては柔らかいような匂いが私の鼻に入ってきた。しばらくして気付いた。それは髪からではなく、香凛の肌からほんのり漂っているものだった。
「ミルクの匂いがする」
「匂いがあるんだって、人の肌には。好きな人の肌の匂いはいい匂いで、例えるなら、ミルクになるんだって」
「えっ……」
私は自分が意図せずに香凛に好意を伝えてしまったことに気付いて、恥ずかしくなった。香凛から自分の体を引きはがした。
「嬉しいよ、かおるん」
「何が」
「かおるんからわたしのことが好きだって、めったに言ってくれないから。さっきみたいな間接的な言い方でも、すごく嬉しい」
「さっきのは、別にそういうことじゃ……っ」
私の唇に、香凛がそっと人差し指を当てた。それから軽く目くばせして、私の耳元でささやいた。
「朝ごはん、食べよっか」
階下に降りてきた時には、香凛は制服姿になっていた。ご飯を食べている時に汚れては困る、と私は家を出る直前までネクタイを締めないのだが、その時の香凛はすでにすぐにでも家を出られる格好だった。
「おはようございます、お嬢様……ですが、少々お目覚めが遅いですよ」
「ごめん、次からは気を付ける」
次は一体いつなんだか、と思いつつ私はトーストをかじる。香凛もじいやの小言を聞き流しながら席に着くと、驚くほどの勢いでだし巻き卵や野菜を食べ始めた。
「……あ、もうこんな時間」
私たちが食べ終わって時計を見ると、すでにいつも家を出る時間になっていた。私が香凛をぎゅーっとしていたからかもしれないが、香凛はかばんを持ち、私はネクタイを結んで急いで玄関を出た。
「じゃあ行ってくるね、じいや」
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませお嬢様、薫瑠様」
じいやが花宮家の門の前まで見送ってくれる。いつも通りの一日がまた、始まる。




