「幸せになって、晶ちゃん。お願い」
彼女はガンを患っていた。それも子宮ガン。幸い転移は確認されなかったが、楽観しえる状況ではない。すぐに子宮の全摘出手術を行うよう、医師から強く勧められた。
しかし彼女はそれを躊躇った。
彼女には、漠然とではあるが、思い描いていた将来像がある。
いずれは結婚し、子供を産む。できれば男女一人ずつ欲しいが、この不景気の時代、それは難しいかもしれない。ただどうしても一人は欲しい。子供を産み、そして育て、親としての喜びを味わいたい。現在はお一人様で子供もいないが、彼女はずっとそう願ってきたのだ。
だが子宮を全摘出すれば、その将来像を実現することは不可能になる。子供を産めなくなるのだ。彼女はその手術に、強い拒否感を覚えた。
とはいえ、手術を拒否したところでガンは消えてくれない。それどころか、いつ何時身体の別の箇所に転移するかも知れない。「自分の命こそまず大事」と、
医師と今は離れて暮らす両親に説得され、彼女は最終的に手術を受けることに同意した。
手術は無事に成功した。しかしそれは、彼女の子宮がなくなったことを意味する。空っぽになってしまったお腹をさすり、彼女は子供を産めない体になってしまった自分をひたすら嘆いた。
手術が成功してからも彼女の通院は続いた。再発していないかなどを確認するためだ。ただ彼女はその通院に意味を見出せないでいた。いくら病院に通ったところで、子供を産めるようになるわけではない。それどころか病院に行くたびに自分が出来損ないになってしまったような気がして、彼女はいたたまれなかった。
さてそんなある日のこと。彼女はいつも通りこの日も病院に来ていた。術後の経過観察は順調。ここまで来れば、再発の可能性もかなり低くなる。彼女をずっと診察してきた医師は笑顔を見せながらそう告げる。それを彼女はどこか他人事のように聞いていた。
診察が終わり、会計を済ませる。いつもならばすぐに帰るのだが、彼女はふと病院の別の棟に足を伸ばした。
彼女が向かったのは産婦人科。行ってみたところで辛い思いをするだけであろう。それなのになぜそこへ向かったのか、彼女自身もまた釈然としない。ともすればその辛い思いをしたかったのかもしれない。心を傷つける、まるでリストカットのように。
産婦人科には、当たり前に妊婦が多くいた。お腹が大きくなったその幸せそうな姿を見て、彼女は自分の心が荒むのを自覚した。
(私だって……、私だって……!)
不可能な願望。理不尽な現実。彼女は肩にかけた大きなトートバッグのベルトを力任せに握り締める。
(来るんじゃなかった……)
後悔し、帰ろうと彼女は思った。ため息をつき、身を翻そうとしたその矢先、彼女はそこでつい最近双子の赤ちゃんが生まれたという話を耳にする。その話は荒んだ彼女の心に塩を刷り込むかのように響いた。
(ずるい……。私だって……、私だって赤ちゃん欲しかったのに……!)
自分はもう自分の赤ちゃんを抱っこすることもできないのに。それなのに他の人は一度に二人も授かるなんて。
そんなのずるい。理不尽だ。不公平だ。私だって、私だって、私だって!
どす黒い感情が湧き起こる。それが憎しみだったのか、それとも嫉妬だったのか、あるいは狂気であったのか。今となっては彼女自身にも分からない。ただ彼女は抗うことをせず、その感情に身を任せた。
(二人もいるんですもの……。一人くらい、いいわよね?)
そして彼女は最近生まれたという、双子の赤ちゃんの片割れを誘拐した。人目を盗んでその赤ちゃんを持っていた大きなトートバッグに入れて病院の外に連れ出したのだ。自分の赤ちゃんを手に入れた。彼女はそう思い、暗い満足を覚えた。
赤ちゃんを誘拐し、家でその子を抱いたとき、彼女は確かに幸せだった。しかし子育てとは幸せなばかりではない。むしろそれにも増して大変でしんどいもの。あやしても泣きやまず、夜うとうとできたかと思えば夜泣きでたたき起こされる。誘拐したという後ろ暗さも重なってか、彼女は早々に追い詰められて音を上げた。
「こんなの……、こんなの私の赤ちゃんじゃない!!」
泣き声を上げる赤ちゃんを前に、彼女は目を血走らせながらヒステリックに叫ぶ。もう限界だった。ほんの数日のことなのに、肌は荒れ髪はボサボサだ。ちょっとしたお出かけさえままならない。満足に眠ることもできず、疲労とストレスは溜まるばかり。
(いっそ……)
いっそ殺してしまおうか。そんな考えが浮かぶが、しかし彼女は頭を横に振った。殺人はリスクが大きすぎる。病院に返すことも考えたが、それでは自分が誘拐犯だと発覚して逮捕されてしまう。
(嫌よ、そんなの……!)
どこか、後腐れのないところに捨てるしかない。泣き叫ぶ赤ん坊を捨て置き、彼女はパソコンに向かった。
そして見つける。いわゆる、「赤ちゃんポスト」と呼ばれる施設のことを。ここだ。ここに預けてしまえばいい。彼女はそう思い、すぐに行動を起こした。
新幹線を予約し、赤ちゃんポストのある県へと向かう。赤ちゃんはやはり、あの大きなトートバッグに詰め込んだ。つばの広い帽子をかぶり、さらにサングラスをかける。マスクもしようかと思ったが、あまりにあからさま過ぎる気がしてやめた。ただ使い捨てを一枚、ポケットに忍ばせる。預けるその時には使うつもりだ。
赤ちゃんポストには、近くまではタクシーで向かい、そこから歩いていった。見えてきたところでマスクを装着し顔を隠す。行動は迅速に。彼女は赤ちゃんを預けると、後は振り返ることもなくその場を去る。やっと解放された。そんな思いを抱きながら。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
DNA鑑定の結果が送られてきたのは、12月の半ばを過ぎてからのことだった。結果は陽性とでも言えばいいのだろうか。佐藤晶は99.9%の確率で、六条聡および六条香と親子の関係にあるとされた。
この結果に、六条家の人々は狂喜した。これで佐藤晶が六条結であることが科学的に証明されたのだ。これで誰に憚ることなく、彼女を迎えることができる。晶の存在が明らかになってからというもの、特に親族連中の間で囁かれる雑音は、心無いものも多かったのだ。
聡は早速、葛西先生に電話をかけてDNA鑑定の結果を告げた。結果を聞くと、葛西先生は驚きと喜びが入り混じった声で「そうですか!」と応じ、それから続けてこう尋ねた。
「では、晶ちゃんのことは……」
「ええ。ぜひウチで引き取らせてください」
確かにそれが一番自然な流れだろう。葛西先生も「分かりました」と言って頷いた。
「晶ちゃんには、結果も含めて私のほうから伝えておきます」
「よろしくお願いします。色々と話したいこともあるので、またそちらにお伺いしようと思うのですが、年末年始はお忙しいでしょうか?」
「そうですね……。忙しいことは忙しいですが、何とか予定は空けられると思います」
「そうですか! 問題は私のほうですね……。会社と親戚関係……。なんとか予定をやりくりしてみます」
結局、聡と六条家の予定に目途がついたら、改めて連絡するということになった。さらに事務的な話をおこない、それが終わると聡は少し躊躇いがちにしながら、さらにこう尋ねた。
「それと……、あの子は元気ですか?」
「ええ、元気ですよ」
あまりにもいつもと変わりなく。その言葉を、葛西先生は飲み込んだ。晶の胸中が複雑でないはずがない。しかし彼女はそれを表に出さない。人に頼ろうとしないのだ。彼女は、一人で抱え込むことに慣れていた。いや、きっと慣れなければならなかったのだろう。
そのことは、痛々しく思う。しかし葛西先生も晶だけにかまけているわけにはいかない。施設には他にも複雑な事情を抱えた子供が多くいる。優先するべきことを優先していると、晶のことにまで手が回らないのが実情だ。そして晶もそのことを理解していて、むしろ彼女の手を煩わせないようにするのだった。
ふがいない。そんな気持ちは募るばかりだ。その募った気持ちが、それを言わせたのかもしれない。
「あの……」
「……? どうかしましたか? 何か言いたいことがあるのなら、どうぞ仰ってください」
何かを言いかけた葛西先生が、躊躇うようにして沈黙する。聡が促すと、彼女は意を決したように話し始めた。
「……私がこんなことを言う資格はないのかもしれませんが……、晶ちゃんのことを『結』と呼ぶのは止めてあげてください」
「それは……」
「そのお名前が、六条さんのご家族にとって大切なものであることは、重々承知しています」
ですが、と言って葛西先生はさらに続ける。
「晶ちゃんは、“佐藤晶”としてこの15年を生きてきたんです。どうか、それも理解してあげてください」
「……そうですね。分かりました。家族にも話しておきましょう」
感情的になりやすい話題のはずだったが、意外にも聡は落ち着いた声でそう応じた。その声を聞いて葛西先生もほっと胸を撫で下ろす。
「差し出がましいことを言いました。申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。また会う前に言っていただけて良かった」
思い返せば、最初に会ったときも六条家の人々は晶のことを「結」と呼ぶことがあった。呼ばれた本人がとりたてて反応を示していなかったため今まで気にもしていなかったが、確かに違う名前で呼ばれて何も思わないわけがない。
六条家の家族はこれまでずっと、「結」と名前を呼んで誘拐された娘の安否を気遣ってきた。だからそれを考えれば、晶のことを「結」と呼んでしまうのは、ある面仕方のないことと言える。
しかしそれはあくまでも六条家の側の事情である。「結」と呼ばれるたびに、晶は「『晶』ではなく『結』になれ」と言われているように、まるで自分を否定されているように感じていたのかもしれない。そう考えると「無神経なことをしていた」と聡は後悔した。
それではまた連絡します、と言って聡は電話を切った。受話器を置くと、葛西先生はそっと息を吐く。これで晶が六条家に行くことはほぼ確実になった。葛西先生もその方向でこれから動いていくことになる。
(でもまずは……)
まずはDAN鑑定の結果を晶に伝えなければならない。彼女はどんな反応をするだろうか。葛西先生は、なぜか少しだけ怖かった。
葛西先生が晶のところへ行くと、彼女はやはり勉強をしていた。受験生にとっては追込みの時期なのだ。
尤も、晶の場合、今考えている志望校に受験する可能性は限りなく低くなってしまった。六条家に行くことになれば、当然、この県内の高校に通うことはできない。おそらく、あちらで改めて志望校を探すことになるのだろう。
とはいえ、今こうして勉強していることが無駄になるわけでない。それどころかますます重要になる。六条家に行けば「大学に入る」という晶の夢も、今よりずっと叶えやすくなるのだから……。
「晶ちゃん。今、ちょっといい?」
「おや葛西先生。どうかしましたか?」
晶はいつも通りにおどけた口調の返事を聞き、葛西先生は少しだけ安堵する。
「実は、今さっき六条さんからお電話があってね」
「ははあ、さてはDNA鑑定の結果が出ましたか?」
「ええ、そうよ」
葛西先生はそう言って今しがた聞いた結果を晶に伝える。その結果を聞くと、彼女は目を逸らしながら曖昧に笑った。
「それじゃあ、わたしはやっぱり六条結だったんですね……」
どこか寂しげに、晶はそう言った。なんだかたまらなくなって、葛西先生は彼女の頭を胸元に抱え込む。
「……晶ちゃんが、六条さんのお家の娘であることは、間違いないみたいね」
わざとらしくも「晶」という名前を強調しながらそういうと、腕の中で晶が僅かに身じろぎをした。そして彼女は頭を上げて葛西先生の顔を下から覗き込み、ニカッといつも通りの快活な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先生。……それで、これからわたしはどうすれば?」
「六条さんとは、また直接会って色々と決めることにしたわ。むこうの予定が決まったら、また連絡をくださるそうよ」
「ラジャです。それじゃあ、しばらくは連絡待ちですね」
晶は敬礼しながらそう言った。シャーペンをおいてまでしっかりと右手で敬礼する辺り、芸が細かいというべきか。
さらに1、2分雑談をしてから、葛西先生は「それじゃあ勉強頑張ってね」と言い残して、その場から離れた。その背中に、ふと晶が声をかける。
「先生……」
「ん? どうかした?」
「……いえ、何でもないです」
視線を逸らしつつぎこちない笑みを浮かべながら、晶はそう言ってノートに向かった。葛西先生はすぐに彼女の傍に戻って隣に座る。そして晶の顔を覗き込みながら、優しい声でこう言った。
「何か、話したいことがあるの?」
返ってきたのは、沈黙だった。しかし決して、無視しているわけではない。晶は口を真一文字に結び、シャーペンを宙でせわしなく動かしている。葛西先生は、辛抱強く彼女が話をしてくれるのを待った。
「わたしは、やっぱり、六条家に行くことに、なるんですよね……?」
「そうね。少なくとも六条さんはそれを望んでおられるわ。ただ、晶ちゃんがどうしても嫌だというのなら、拒むこともできるのよ?」
「いえ、決して嫌なわけじゃないんですけど……」
そう言って晶はまた黙り込んだ。葛西先生はそんな彼女の傍に寄り添い、手を回して背中を摩りながら次の言葉を待った。
「なんか……」
「うん」
「……なんで、わたしなんだろうって」
ポツリと、それでいて搾り出すようにして、晶はそう呟いた。
「わたしが六条結じゃなかったら、きっと六条さんはわたしになんて見向きもしないで、わたしが六条結だったから、『引取りたい。一緒に暮らしたい』って思ってくれて……」
晶の言葉に葛西先生は頷く。彼女が言っていることは多分正しい。誘拐された娘、六条結でなければ、彼らは「引取りたい」とは思わなかったはずだ。例え晶が、どれだけ六条愛とそっくりの顔かたちをしていようとも。
「わたしより……」
そう言って晶は苦しげに俯いた。後の言葉は続かない。ただそれでも。葛西先生は彼女が言いたいことを何となく察した。
『わたしより、もっと別の子じゃ、ダメなのか……?』
晶はきっと、そんな事を考えていたのだろう。彼女は、そういう子だった。自分よりも、他の子を優先する。
施設には、いろんな事情を抱えた子供たちがいる。親に虐待された子供、養育困難で親と離れて暮らしている子供、親と死別した子供、赤ちゃんポストに預けられていた子供……。
みんな、愛情に餓えている。みんな、厳しい状況に耐えている。そして晶は、そのことをよく知っている。
「優しい子ね、あなたは……」
葛西先生がそう言うと、晶はブンブンと首を振った。彼女の目の端には、涙が浮かんでいる。それを見て、葛西先生は彼女の頭を胸元に抱きこんだ。
「先生、わたし……、六条さんトコ、行っても、いいのかなぁ……? わたしだけ……」
「あなただって、幸せになっていいのよ」
涙声の晶に葛西先生は優しい声で、しかし確信を込めてそう言い聞かせる。そしてさらにこう問い掛ける。
「晶ちゃん。あなたの夢は、なあに?」
「……大学に、行きたい。あと、サックス、吹きたい」
いつの間にか夢が増えていた。けど、それはとてもいいことだ。
「六条さんのところに行けば、きっと叶えられるわ」
「でも、わたしだけ……!」
「ズルイと、思う?」
葛西先生の腕の中で、晶は無言のまま頷いた。幸せになることを、少なくともその権利を手に入れたことを、しかしズルイと思う。一体なんということだろうか。まるでそれがこの世の不公平と不平等の象徴であるかのように、葛西先生には思える。
「……幸せになって、晶ちゃん」
「先生……」
「幸せになって、晶ちゃん。お願い」
葛西先生は晶をぎゅっと強く抱きしめる。こんな言葉でしか彼女の幸せを願えない自分が不甲斐ない。幸せになってもいいだなんて、そんな当たり前のことを納得させてあげることもできないなんて……。
「……うん」
やがて晶はそう言って小さく頷いた。それが、葛西先生には心強かった。