「ああ、あのドッペルさん!」
生まれた子供に名前をつけるのは当たり前のことだ。しかし、姓名まで考えなければならないのは、稀なことだろう。
子供は普通、親の姓を名乗る。つまり姓名を考えなければならない子供というのは、親のいない子供、いや生物学的に親がいないと言うことはありえないから、誰が親なのか分からない子供、というべきか。なんにせよ、例外的な子供と言っていいだろう。
佐藤晶はそういう子供だった。彼女はある日、いわゆる「赤ちゃんポスト」に預けられた。身元を示すようなものは何も身につけておらず、生年月日・氏名はもちろん不明。性別だけは、すぐに女の子と分かったが。
一度は預けた親が後悔して引き取りに来るということもなく、結局彼女は施設に預けられることになった。
佐藤晶という名前を決めたのは、きっとその時なのだろう。推測なのは、晶自身、自分の名前を考えた人物やその由来を知らないからだ。ただ、「~子」としなかった分、それなりに真剣に考えてくれたのではないかと思っている。
で、問題は姓名の方だ。いや、「佐藤」という姓名に何か問題があるわけではない。ただ調べてみたところ、この「佐藤」という姓名は日本一多い姓名だそうだ。The一般人、というわけである。きっと、「目立ちすぎないように」という配慮だったのだろう。ちなみに晶の周りで一番多い姓名は佐藤さんでも田中さんでもなく、小林さんであるのだがこれ如何に。
(「金魚」とかだったら、ネタになったんだけどなぁ~。一発で名前覚えてもらえそうだし)
金魚晶。あらけっこう語呂がいい。いつか改名してやろうかしら、なんて晶は思っている。
まあ、名前の話はいい。この日、晶は学校から帰ってくると、施設の子供たちが「葛西先生」と呼ぶ職員から声をかけられた。
「晶ちゃん、『六条愛』という子を知っている?」
「六条、愛……?」
はて、聞き覚えのない名前である。
「そう。修学旅行中に奈良のお寺でぶつかったそうなんだけど……」
「ああ、あのドッペルさん!」
芝居がかったというにはあまりにも自然な仕草で晶は手を打った。その様子に葛西先生は苦笑を漏らす。
「名前、聞かなかったの?」
「それがすっかり忘れておりまして……」
てへぺろ。その仕草に、葛西先生はまた苦笑した。名前が分からないからとドッペルゲンガー扱いしていたのだから、ヒドい話である。
それから葛西先生は晶から一通りの話を聞く。おおよその話は学校からの連絡で伝え聞いているが、晶から直接聞くのはこれが初めてである。彼女はこういうことを自分から話すような子ではなかったし、また葛西先生自身も施設の仕事が忙しく、話を聞いてあげる時間を取ることはなかなかできない。彼女はそのことに少し心を痛めつつも、表面上は穏やかに晶の話を聞いた。
「……それで、学校から連絡があったのね」
「ああ、やっぱりあったんですね。連絡」
どこか他人事のように、晶はそう言った。曖昧な笑みを浮かべる彼女の心は、何時にもまして読みにくい。
「晶ちゃん、ちょっと座って?」
晶が大人しく座ると、葛西先生は学校側から伝え聞いた事情を包み隠さず彼女に伝える。やがて話を聞き終えると、晶はどこか自嘲気味に笑いながらこう言った。
「……その、誘拐された双子の妹ちゃんが、わたし?」
「六条さんは、そう思っているみたいね」
そう言われ、晶は黙り込む。いつもは飄々と構える彼女が見せた険しい表情に、葛西先生は彼女の心の中の激しい葛藤を垣間見た気がした。
「……先方の連絡先も教えてもらったんだけど、連絡してみていい?」
「なんで、わたしに聞くんですか?」
少しつっけんどうに聞き返す晶に、葛西先生は苦笑を浮かべながらも優しい声でこう言った。
「これがあなたにとって大切なことだからよ。あなたに聞くのは、当然だわ」
葛西先生がそういうと、晶は険しい表情のまま俯く。葛西先生は辛抱強く彼女の次の言葉を待った。
「どーぞどーぞ。連絡しちゃってください」
やがて晶は顔を上げると、にかっと笑いながらおどけたような口調でそう言った。その笑顔が心配をかけないための強がりであることは一目瞭然だ。
「そう。分かったわ。それじゃあ、今夜にでも連絡してみるわね」
「よろしくお願いします」
折り目正しく、しかし芝居がかった仕草で、晶は頭を下げる。その姿に、葛西先生は痛々しいものを感じずにはいられなかった。
その日の夜、葛西先生は六条家に電話をかけた。最初、六条家のお父さんは晶が施設の子供であると聞いて驚いた様子であったが、すぐに冷静になって諸々の話をすることができた。
「……それで、あの。結と……、いえ、晶ちゃんと話をさせてもらえませんか?」
話の中で、六条家のお父さんからそう頼まれた葛西先生は、少し考えてから「申し訳ありませんが」と答えた。
「あの子も、突然の話で混乱しています。今は、そっとして置いてあげてください」
「ですが……!」
六条家のお父さんの声に切羽詰ったものが混じる。葛西先生も、表面的とはいえ彼らの事情は知っているから、その気持ちは理解できた。しかし彼女はまず第一に晶のことを守らなければならない立場なのだ。それで彼女はこう言った。
「お気持ちは重々お察ししますが、どうぞご理解ください。……それに、最初は電話越しではなく、直接お互いに顔を合わせて話をした方がいいのではありませんか?」
「それは、確かにそうですが……」
「一度お会いして話をする機会を設けましょう。もちろん、晶ちゃんも含めて」
「……分かりました。では、次の週末はいかがでしょうか?」
腹を据えたようで、電話越しの声に力がこもる。葛西先生は素早くカレンダーを確認すると、ハッピーマンデーの三連休だ。予定も特にない。「分かりました。では次の週末に」と答えた。
六条家の方が会いに来るというので、施設の住所と電話番号、さらに葛西先生自身の携帯の番号も告げる。ただ施設で会うのではなく、最寄り駅の近くにあるファミレスで会うことにした。個室が使えるファミレスで、予約は葛西先生の名前で取る。さらに詳細な日取りも決めてしまう。都合が悪くなった場合は、葛西先生の携帯に電話してもらうことにした。
「では、楽しみにしています」
「こちらこそ。家族で会いに行きますよ」
最後にそう言葉を交わしてから、葛西先生は電話の受話器を置いた。そして「フゥ」と一つ息を吐く。
(勢いで決めてしまった……)
晶の気持ちも確かめずに。そのことに葛西先生は少なからず罪悪感を覚えた。とはいえ、これは放置しておくことのできない問題だ。なによりまだ中学生でしかない本人を矢面に立たせるというのは、大人としてあまりにも無責任であろう。
受話器を置いた葛西先生は、そのまま晶のところへ向かう。彼女は勉強中だった。なにせ彼女は中学三年生、受験生なのだ。
施設にいる子が全てと言うつもりはないが、晶は勉強に熱心である。学校の成績も悪くない。「ただでさえ施設の子供ということで目を付けられているから、その上成績まで悪いと先生のウケが悪くて、ね」と本人は以前に言っていたが、そういう消極的な理由が全てではないと、葛西先生はちゃんと知っていた。
晶は、大学に行きたいのだ。大学に進学し、きちんとしたところに就職し、一人でも生きていけるようにする。以前に夢を尋ねたとき、彼女はそう答えていた。
そして同時に、その夢をかなえることがほとんど不可能であることも悟っている。18歳になったら、つまり高校を卒業したら、施設は出なければならない。金銭的な援助がなければ、大学に入ることは難しい。
ただ、完全に不可能と言うわけでもない。奨学金制度もあり、葛西先生は職業柄そういうものをよく調べている。可能性はまだある。だから晶にも「諦めるな」と言い聞かせ、彼女は勉強に励んでいる。
(報われて、欲しいんだけど……)
だいたい、日本は貸与型ばかりで給付型の奨学金が少ないのだ。不景気なこの時代、借金を背負わせては何の意味もないと言うのに……。
「晶ちゃん、ちょっといい?」
なるべくいつも通りの声で、葛西先生は晶に声をかけた。晶はノートにシャーペンを置くと、彼女の方に視線を向ける。
「おや葛西先生、どうかしましたか?」
おどけた調子のその言葉に、葛西先生はいつも通り苦笑を浮かべた。
「実は今さっき、六条さんのお宅に電話をしてね」
葛西先生は電話のやり取りについて、掻い摘んで晶に話す。相手が「晶と話がしたい」と求めたのを断ったと告げると、彼女は少しだけ安心した様子を見せた。
「……ただ、いつまでも放置しては置けない問題だと思うの。それで次の週末に六条さんのご家族とお会いすることにしたわ」
「……わたしも、ですか?」
「お願いしてもいい?」
「もっちろんですよ! というか、わたしがいないと話にならないんじゃないですか?」
晶は満面の笑みを浮かべながらそう請け負った。ただ、その笑みが強がりであることが分かるくらいには、葛西先生と彼女は長い付き合いだ。
「そうなの。それじゃあ、お願いね」
「ラジャです。任せておいて下さい」
敬礼の仕草をしながら、晶はもう一度そう言ってそう請け負った。そんな彼女に一つ頷くと、葛西先生はおもむろに話題を変える。
「……ところで、何の勉強をしていたの?」
「理科です。今は電気のところですね。『Vサインには愛がある!』」
そう言って晶は得意げな笑みを浮かべ、Vサインを葛西先生に突き出した。しかし葛西先生はその意味するところが分からず、曖昧な笑みを浮かべるばかりだ。
「通じない……! さては先生、理科は苦手でしたね?」
「ええ、特に電気が、ね」
葛西先生は自嘲気味な笑みを浮かべながらそう白状する。晶は「やっぱり」と言って楽しげに笑った。
勉強の邪魔をしては悪いからと、葛西先生は話すべきことを話し終えるとすぐにその場から離れた。数歩歩き、部屋の出口のところでふと振り返り、晶の様子を窺う。彼女はまたノートに向かって問題集を解いていた。いつものおどけた様子はそこになく、彼女の顔つきは真剣だ。
葛西先生は晶に気付かれないよう、そっとため息を吐いた。運命の女神とやらがこの世にいるのなら、なぜ彼女はこんなにも人々を差別するのだろう。その問いの答えは今まで出たためしがない。そして今夜もまた、その答えはわからずじまいだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
車の中の空気はヘンに重い。車内にいる誰もが大きな期待と、同じく大きな不安を抱えていた。
その日、六条家の四人は朝食を食べるとすぐに身支度を整え、車に乗り込んだ。これから駅に向かい、そこから新幹線に乗るのだ。旅行に行くわけではない。15年前、生まれてすぐに誘拐された六条愛の双子の妹、六条結(と思しき人物である佐藤晶)に会いに行くのだ。
(あれから、もう15年か……)
六条家の長男である司は、もう一人の妹である結の顔を一度だけ見たことがある。彼女が生まれたすぐ後、病院で愛と一緒に寝かされている姿をガラス越しに見たのだ。その時の彼女達の顔はほかの赤ちゃんらと見分けがつかなくて、父である聡から教えてもらわなければ、どれが自分の妹たちなのか分からなかっただろう。
『司。あなた、お兄ちゃんになるのよ』
母の香からそう告げられた日のことを、司は今でもよく覚えている。それがどういう意味なのか、当時の彼はいまいちよく理解していなかったが、それでも「お兄ちゃんになる」ことだけは理解できた。
『そうか、お兄ちゃんになるのか。なら、お兄ちゃんにならないとだな』
そんな、なんだかよく分からない決意をしたものである。
やがて、生まれるのは双子の妹であることが判明する。両親はすぐに必要なベビー用品を買い集めた。もちろん、二人分。双子の名前を話し合う二人の様子は楽しげで、家の中の雰囲気は明るかった。
今思えば、あの時間が一番幸せだったのかもしれない。
結が誘拐されると、家の中の空気は一気に荒んだ。揃えられた二人分のベビー用品が痛々しい。捜査は一向に進展せず、両親の様子はどんどんおかしくなっていった。苦しいだけの毎日が嫌で、司は部屋に閉じこもるようになった。
誘拐から半年が過ぎた頃になると、両親はようやく落ち着いてきた。今になって思えば、愛のことをメインに考え始めたのだろう。家の中の雰囲気も明るくなり、やっと日常が戻ってきたように感じた。少なくとも、上辺だけは。
両親はもちろんのこと、司も愛を大事にした。だが同時に、結のことはタブーになった。愛の前では、決して結の話をしない。それが六条家の暗黙の了解になった。愛が余計な“業”を背負うことなく、健やかに成長していくこと。それが家族の救いだったのだ。
しかしそれはまるで、血が流れ続ける傷口を見てみぬ振りをすることに似ていた。家族や親戚の誰もが、結がこの場にいないことから目をそらしていた。愛にそれを悟らせないために、と言い訳をしながら。しかし傷口は確かにそこにあって、血を流し続けているのだ。それをなくすことはできない。
(まさか、生きていたなんて……)
我ながら酷い感想だ、と司は思う。もちろん、彼だってずっと結の生存と再会を願っていた。しかし同時に、心のどこかでは諦めてもいた。彼だけではない。両親だってきっとそうあろう。
かなわない期待を抱いて過ごすには、15年という年月はあまりにも長すぎる。心がボロボロに磨り減ってしまう。だから人は諦めて、自分の心を守るのだと思う。
(本当に、よく似ていた……)
愛が撮ってきた、あの写真のことだ。写っていた佐藤晶という少女は、愛と瓜二つだった。
(本当に、本当に結なのか……?)
そうであって欲しいと、願っている。その可能性が高いだろうとも思っている。ただ、現時点では科学的根拠は何一つとしてない。結かもしれないし、しかし違うかもしれない。結局のところ、車の中の空気の重さは、それが原因だろう。
「……あなた。ラジオ、消していい?」
「ああ、すまない。うるさかったか?」
「そうじゃないけど……。何だかそういう気分じゃなくて」
前に座る両親の会話を、司は聞き流す。ラジオが消えると、パーソナリティーの明るい声も聞こえなくなった。確かに明るい声を聞いていたい気分ではなかったが、ラジオが消えて車内の空気はさらに重くなったように感じた。
ちらり、と司は後部座席の隣に座る愛の様子を窺う。彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。いや、窓ガラスに映る彼女の目は、どこにも焦点が合っていない。きっとこれから会いに行く少女のことを考えているのだろう。
香と愛は結に、いや佐藤晶にプレゼントを用意していた。最初はアクセサリーを買おうと思ったらしいが、高価なものは相手が恐縮するといけないと考え止めたそうだ。次に洋服を考えたが、サイズは愛と同じでいいとしても、好みに合うか分からない。それで結局、シンプルなデザインのマフラーにした。
早く会いたいとは思う。今日という日を心待ちにしていた。それは本当だ。しかし同時に司が、いや六条家の全員がある種の恐怖を覚えていることもまた事実だった。
なんで今更、などとは口が裂けても言いたくはない。彼女が結で、今度こそ家族5人で暮らせれば、どんなにか幸せだろう。まさに絵にかいたようなハッピーエンドだ。だけどそのハッピーエンドを無邪気に信じるには、きっと自分たちは苦しみすぎたのだ、と司は思う。そして佐藤晶と言うあの少女も、きっと。
やがて六条家の家族は新幹線に乗った。司はスマホを取り出しイヤホンを耳にして音楽プレーヤーを起動するが、結局再生を始めることなくイヤホンを外した。そんな気分ではなかったのだ。