人斬り邂逅
新撰組一番隊平隊士・安岡逞が、その男を見掛けたのは、上役であり兄貴分の沖田総司と、祇園社までぶらりと出掛けた帰りだった。
男は錆鼠色の着流し姿で、茶屋の縁台に腰掛け行儀よく茶を啜っている。
(あ奴、間違いない……)
あの肌の白さ、女と見紛う美貌、そして容易ならざる眼光。脳裏に叩き込んだ人相書きと照らし合わせても、新撰組が人斬りとして追っている男に間違いない。
「沖田さん、あれ」
人混みの中で歩みを止めた安岡は、沖田の袖を引いた。
「安岡君。あれじゃわからんよ」
ひょろりと背が高い沖田は、小兵の安岡を見下ろすようにして、その陽に焼けた顔に苦笑いを浮かべた。
「ほら、あれですよ、あれ。怡土藩の」
「はて、怡土藩……九州のかい?」
わざとか、と半ば呆れながら安岡は、
「怡土の人斬り楊三郎ですよ。ほら、猿ヶ辻で公家を斬った」
と、耳元で教えてやった。すると、沖田は得心した様子で、何度か頷いていた。
いつもの事だ。新撰組でも随一の使い手である沖田も、こうした探索は苦手なのである。傍にいてこそ判るが、全体的に鈍いのだ。
国事の話も、聞いてはいるが理解していない。そもそも判ろうという気がないのかもしれない。
「ああ、彼だね。加藤楊三郎だっけ」
「そうです」
安岡と沖田は顔を見合わせ、ほぼ同時に頷くと、追跡者として身に付いた、ごく自然な動きで路傍に寄った。
加藤との距離は、十歩ほど。こちらには気付いている様子はない。
「どうします?」
「どうするってさ、安岡君。強いよ、彼。多分、九州では一番じゃない? 今の京都じゃ五指に入るだろうね」
「だからって、見過ごせませんよ。それに沖田さんも強いじゃないですか」
「そりゃ、僕は強い。京都五指の一番さ。でも、君は弱い。隊内でも下から数えたらいいぐらいだよ」
「……」
こうした事を、沖田は臆面も無く口にする。最初は驚き傷付いたものだが、今は慣れた。彼は天才なのだ。常人との物差しが違う。
「でさ。そんな君でも、失えば隊の損失。そして僕も、非常に悲しい」
「沖田さん……」
その優しい一言に感激したのも束の間、
「大事な囮の駒だからね」
と、臆面もなく嘯いた。
「君が足手まといなんだ。だから仕掛けない。いいね?」
これが、沖田節。もういい、いつもの事だ。それに、この男は普通ではない。安岡は、そう自分に言い聞かせた。
「それに、これは剣術の試合じゃないんだ。今は鉢金も鎖帷子もしていない。いいかい? 新撰組はね、負けちゃいけないんだ。何があっても。そして負けない為に、万全の準備をして、どんな手を使っても勝つ。負けたら終わりなんだよ。それが新撰組」
「そうですね。その通りです」
「だけど、人斬り楊三郎に見掛けたって、誰にも言っちゃいけない。特に土方さんの耳にでも入ったら、コレもんだよ」
沖田は、無邪気に腹を切る仕草をしてみせた。
「……」
安岡は、背筋に冷たいものを感じた。切腹は怖い。有り得るから、なお怖い。現に二ヶ月前、同時期に入った隊士が、士道不覚悟で腹を切ったばかり。また同郷の隊士も、人妻との不倫を咎められ、粛清されている。
安岡は、土方が嫌いだった。この嫌悪感は、土方が持つ鋭さにある。近藤や沖田は、剣を持てば怖いが、普段は鷹揚としている。山南は知的で優しいし、原田や永倉は厳しいが陽気でもある。しかし、土方は違う。切れすぎる刃なのだ。そして、それを隠そうともせず、さらに陰気でもある。土方が現れると、安岡は緊張し息が詰まりそうになってしまう。
「あ、加藤が来ます」
安岡は、咄嗟に耳打ちした。
加藤は立ち上がり、律儀に茶代を小女に手渡しすると、こちらに足を向けた。
身体が硬くなる。それは自分でも判るほどだった。加藤との距離が近づくにつれ、殺気の圧が強くなる。
剣には自信があった。故郷の夜須では、管亥流を学び目録を得た。生まれて二十年。試合での負けは片手で余るほどで、それ故に藩の代表として新選組に参加した。それが、この様だ。沖田には弱いと常々言われているし、事実稽古では着いていくのがやっとである。そのような人間が、人斬りの異名を持つ加藤に怯えるのも無理はない。勿論、そんな事はおくびにも出せない。言えば士道不覚悟で切腹が待っている。
「安岡君、大丈夫。こんな天下の大道で、斬り合いなどにならんさ」
と、沖田は懐手のまま笑った。果たしてその通り、加藤は安岡と沖田に一瞥をくれただけで、何事もなく通り過ぎて行った。
「しかし、僕は嫌いだな、あんな奴」
加藤の背を見送りながら、沖田が言った。
「敵ですからね」
「いや、そうじゃなくて、気持ち悪い。何かを、化生を見ているみたいだ」
確かに、加藤には陰間が持つ、妖艶な色気がある。安岡に男色の趣味は無いが、その気がある隊士には堪らないだろう。そして、沖田が嫌いだという気持ちも判る。背が高く精悍な沖田と加藤は、陰と陽のように真逆なのだ。同じ剣客でも、住む世界が似ているようで違う。沖田も、それを強く感じているはずだ。
「ま、今日は縁が無かったという事さ。宿運があれば、機はまた巡ってくるだろう」
「ええ」
安岡は、気を取り直して応えた。
「さ、帰ろう。遅くなると、土方さんに叱られちゃう」
機は、意外と早くに訪れた。
あの日から四日後の晩。仕掛けたのは、加藤からだった。
巡察中、入り組んだ町家から突如現れ、一番隊の隊列に斬り込んできたのだ。
二名が即死、三名が手負っている。宵闇の中であるから傷の程度は判らない。
後から来た沖田は、その惨状を目にして苦笑した。
「君が、加藤君か」
黒装束の男は軽く首肯し、頭巾を取った。そこには、微笑を湛えた加藤の顔があった。
「ご挨拶は初めてですね」
「にしても、これは随分なご挨拶だよ」
「『我々の流儀』はこうかと思いまして」
「『我々』というが、僕は違うよ」
「さて、どうでしょうか。あなたの恐ろしい剣名は常々耳にしております」
「そりゃ、どうも」
加藤は、無傷の隊士に囲まれてはいるが、焦る様子は無く、悠然と佇立している。
「目的は僕だね?」
「あなたが、一番隊組長であるならば」
加藤は、透き通った声で答えた。
「判った。お相手するよ。ただ一つ。新選組は、一人に多勢で当たる事を旨としている。それに、こちらは鉢金・籠手・鎖帷子という万全な準備。一方、君は一人だし、その格好だ。あとで負け惜しみは無しにしてくれよ」
そう言ったが、加藤は返事のつもりだろう、正眼の構えを取った。
切っ先を向けられた時、沖田の肌が痺れた。
(これは)
と、思う。そこらの人斬りではない。構えは端正で、気品というものがある。岡田以蔵や田中新兵衛とも刃を交わしたが、それとは似て非なる物だ。
「安岡君」
沖田は菊一文字を抜きながら、加藤の背後にいる安岡逞に声を掛けた。
「君は僕の後ろへ」
安岡は呆気に取られた表情を見せたが、急かすと渋々その指示に従った。
「君は無傷か」
「ええ」
「君らしい。僕が負けたら屯所へ駆け込め。いいな?」
「しかし」
「君の躱す技術と逃げ足の速さを、僕は信じて頼んでいる」
「沖田さん」
「ま、負けないけどね」
そう言うと、沖田は平晴眼に構えた。
加藤も正眼。地摺りで、距離を徐々に詰める。
加藤の周囲には、四人の隊士が白刃を向けているが、それを気にする様子はない。
沖田は、腹に氣を込めた。すると、加藤は足を止め、構えを八相に変えた。
更に沖田は、氣を込める。三段突き。その機を探るが、潮合いはまだだ。一方、加藤の狙いは読めない。袈裟懸けか、逆胴か。いや、そんな単純なものなのか。
加藤が、更に前に出た。距離は三歩。その時、沖田は加藤の氣を明確に感じた。まるで蛇のように、地を這い足に絡みついてくる。
身体が重くなる。それを払うように、沖田は気勢を挙げた。その時だった。黒い塊のようなものが、肺腑から湧き出る心地に襲われた。
(何だこれは)
その黒い塊は、胸に留まり体内を抉るように暴れまわっている。
沖田は、必死に堪えた。汗。頬を伝うが、そのままにした。目の前の加藤に集中する。来るなら来い。俺は天才なのだ。このような状態であっても、人斬り風情に遅れは取らない。
黒い塊は、更に暴れる。糞。病か。予感はあった。だが、今だけは堪えてくれ。そう強く思う。この相手は、久々に自分を燃えさせる相手なのだ。
加藤の姿が、不意に消えた。そして、光。その眩い閃光に包まれた時、沖田の身体は軽くなっていた。これが、涅槃というものか。病が、その域に導いたのかもしれない。
「沖田殿」
加藤はそう言うと、おもむろに構えを解いた。沖田に絡みついた氣は消えたが、気持ちの悪さは変わらない。
「私から仕掛けて何ですが、今日の勝負はお預けにしましょう」
「何故だ?」
沖田は喘ぐように訊いた。
「今のあなたを斬れる者はいませんよ。私も命が惜しい。どうしても逢いたい人が故郷にいるので」
「では、何故僕を襲った?」
「斬れる、斬りたいと思ったからですよ。ですが、今のあなたは違う。流石は新選組一番隊組長。少々見込み違いをしてしまいました」
「……」
「私は、『あの人』に斬られなければならないのです。だから、勝てるかどうかの勝負は出来ない。申し訳ないですが」
「ずるいな」
加藤は頭を一つ下げると、踵を返し悠然と去って行った。囲んでいた隊士も、加藤の氣に当てられたのか、一寸たりとも動けなかった。
加藤の姿が見えなくなると、沖田は崩れ落ちた。その身体を受け止めたのは安岡だった。
「沖田さん」
「安岡君……」
「どうされたのです。顔色がひどく悪いですよ」
すると、沖田は鼻を鳴らした。
「昼飯に悪いもの食った。うちの台所は、どうにかせねばいけないな」
沖田は、安岡の肩に手を置いて、立ち上がった。
「大丈夫ならよいのですが……。ですが、沖田さん。何故私を包囲から外したのです?」
安岡は、口を尖らせて言った。
「不満かい?」
「まぁ」
「君が弱いからだ。気にする事はない」
「またそれだ。沖田さん、それ気にしますよ。判ります?」
<おわり>
この物語は、新撰組小説としても書きましたが、時代小説を書けない僕の作品を楽しんでくれている、数少ない読者様への暑中見舞いです。
その意味は判ったと思います。今日一日でババッと書いてみました。
斬られて、記憶に永遠に留まる。そんな愛もあるのかもしれません。