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地蔵爺さん

作者: 半蔀

「筑波の山の麓のヨ,地蔵さんの頭をはたいてヨ,したら藪からぺっぴんさんが出てきてヨ,わしをしかるしかる。気ぃついたら夜でヨ,オレは気狂いになったんべ」

 おかしな調子でおかしなことを話すおかしな爺さんが目の前に座っていた。頭に笠をかけた地蔵のような爺さんだ。ボロボロな格好をしており,なんとも汚らしいのだった。

 辺りを見回すとただ真っ暗で,ここには俺とこの爺さんしかいないようだ。

 それでウスウス,……これは夢だな,と思った。変な夢を見るもんだ。こんな爺さんには会ったこともないのに。

「動けんヨ,動けんヨ」

 今まで胡坐をかいていた爺さんは,急に立ちあがろうとしたようだった。しかし,その体はびくともしていない。

 そこで俺は,ふと,この爺さんが動けないのは俺がこの爺さんを地蔵のようだと思ったからだ……とすっかり理解した。急に分かったのだった。それで少し,悪戯してやろうと思い立った。

 ためしに爺さんを鳥だと思ってみると,

「ぴーちく,ぴーちく」

 などと鳴くのだった。ただ,なぜか姿は元の地蔵爺さんだったが。

 今度は,コイツは木だ,と念じてみた。すると,爺さんの皮膚が見る見る木の皮のようになっていく。あっという間に,人の姿をした木が出来上がった。しかも,やけに生々しい。ちょっとグロテスクだな,これは。すぐに他のものを考えた。

 それから色々試してみたが,爺さんの声やら皮膚の色やらは変わるのだが,その姿形は一向に変わらない。爺さんの色違いやものまねを見ていてもつまらない。どうしたものかと考えていると,また爺さんが喋りだした。

「夜は恐ろし。人の途を通るときゃ,月を眺めちゃいかんいかん。気狂いなんぞは,とくとく抜けろ。ゆらゆらお月さまァ見てるとナ,気狂い,自分の肉をオカシクするヨ」

 地蔵の爺さんは相変わらず妙なことをぶつぶつ言っている。どういう意味なんだ? 俺にはまったくわからなかった。意味を聞いてみるかと口を開くと,そこでようやく声が出ないことに気が付いた。仕方がないので黙って話を聞いていることにした。

 すると急に場面が変わった。



 日暮れの山道であった。俺はいつの間にか三叉路の前に立っていた。三叉路の角には祠のようなものがあり,中には笠をかぶった地蔵が立っていた。辺りの木々は夕焼けに赤く燃えるようで,ひぐらしの声がうるさいほどしていた。

 この場所には見覚えがあった。子供の頃住んでいたアパートの近くの裏山のようだ。何か嫌なこととか,迷っていることがあると,よくこの山を登って,ここの地蔵の前まで来たものだ。少し懐かしくなって,俺は子供の頃にそうしたように三叉路のど真ん中に座り込むと,辺りの景色を眺めた。

 ここら辺に住んでいたのは中学に上がる前までだった。小学五年の春頃だったか,両親がひどい喧嘩をした。まだ子供だった俺はよく事情が飲み込めなかったが,何かよくないことが起きたのだということは分かった。それから両親の仲が急に冷めていった。俺は一人っ子だったから,家の中では頼れる相手がいなかった。父も母も,自分達のことで精一杯のようで,いつも怖い顔をして近寄りがたかった。家の中がそんなであるから,俺は逃げるように家を出て学校へ行き,学校が終わってからは,なるべく家に居る時間を減らすために,この裏山に登った。そして,こうして山の雰囲気のなかでぼうっとしていたのであった。

 とうとう両親が離婚して,俺は父に引き取られ,ここを去ることになったのは小学六年の夏も終わろうとしていた頃であった。その時もやはり,この三叉路に来たのだった。それ以来,ここを訪れることはなかった。


 俺は三叉路の地蔵を眺めた。当時は地蔵なんかに興味はなかったから見向きもしなかった。地蔵は人の厄を身代わりに引き受けてくれるというが,子供の頃の俺が知るはずもないし,そもそも俺はまともに信仰心なんか持っていない。それが今になって,どうして夢の中に現れたのだろう。例の爺さんも関係あるのか? あれが地蔵様じゃ,信じている人もやりきれないな。などと考えていると,目の前の地蔵が急に光りだした。あまりの眩しさに目を逸らす。一体何なんだ……まさか。いやな予感がした。

 光が収まったので,恐る恐る地蔵の方へ目を戻すと,案の定,地蔵大の爺さんが鎮座していた。

 叫びたかったが声が出ない。爺さんはまた喋り出した。

「しかし人皆気狂いヨ。お月さまァにココロ奪われる。気ぃつけえ,肉をおかしゅうしすぎっと,きっと鬼になっちまうべ」



 ……鬼。鬼か。

 爺さんの話を聞いていると,ふと父のことが思い浮かばれた。

 父は俺を引き取ったあと男手一つで俺を育てた。父は自動車の整備工として働いていて,いつも油の臭いがしていた。それが父の匂いであった。

 父は頑固であった。そして筋の通らないことが何よりも嫌いであった。そういう性格の父と思春期真っ只中にあった俺は,それはもうしょっちゅう喧嘩をした。大抵は俺が負けて,家を飛び出すのであった。それで,何時間か町をふらふらして,夜中になって父が寝た頃を見計らって帰るのだった。財布なんかもって行く暇もないから,いつも腹ペコで家に着く。そうすると,台所には決まって炒飯とかカレーとかがラップしてあって,無骨な文字で「帰ったら食え」とだけ書かれたメモが貼られてあるのだった。俺は,料理下手な父の作ったまずい飯をかきこんで寝るのだった。

 俺が成人して働き始めた頃から,父は体を悪くした。ずっと無理をしていたのが祟ったのだろう。しかし俺が何度も休めと言っても,父は聞く耳持たなかった。その間,父は何度も軽い眩暈を起こしていた。

 父が倒れたのは,俺が社会人として四年目を迎えた頃であった。急いで父が運び込まれた病院へ行くと,父は病院のベッドの上で点滴につながれながら,戸惑うような目をして俺を見た。

 それから父は入退院を繰り返す生活になった。当然仕事もやめさせた。生活費は俺が稼ぐからと言ってなんとか父を説得したのだった。その時の父の,恥じ入るような悔しそうな顔が今でも思い出される。

 はじめ父は,仕事をやめた生活の変化に戸惑うらしかったが,それでも多少弱気なぐらいで以前とそれほど変わったことはなかった。父の様子がおかしくなったのは,そんな生活を一年ほど続けた頃であった。

 父は妙に人を疑うようになった。俺に,「ほんとうは面倒だと思っているんだろ」とか「おまえ,実はアイツ(母)と一緒に行きたかったと思ってるんだろ」と,以前なら決して言わなかったことを父は言うようになった。

 俺は何度も否定した。そんなことは一度だって考えたことはなかったから。父と一緒に居られて本当に良かったと思っていたから。……しかし,俺の言葉は一つも,父には届いていないようだった。あれほど筋の通らないことを嫌った父なのに,今は俺の声にさえ耳を貸さない。

 その頃には,父の体はやせ衰え,頭髪には白色が混じり出していた。目はギョロっとして,人を胡散臭そうに見るのだった。

 父は,時には癇癪を起こした。料理の味が薄いといって酷く俺をなじった。それでも怒りが収まらず,俺の頬を殴りつけた。……父の拳には,昔の父の拳骨にあった力や威厳など,もはや少しも残っていなかった。そして癇癪が収まると,興奮して上がった血圧のために,また眩暈を起こす。俺はそんな父を支えて,床に寝かせてやった。血の気が失せて,土気色になった父の顔を見るたびに,俺はどうすることも出来ない,やるせない気持ちに襲われるのだった。

 父は病に負けてしまったのだ。あの何者にも屈しない油臭い父の背は何処にもなく,今は老いて骨の浮き出た背を俺に向けるだけであった。



 ……ああ。だからこんな夢を見るのか。夕暮れのこの三叉路に,俺はまた迷い込んでしまったのだな。……俺は子供のときから変わらないなあ。

(しか)り。然り」

 地蔵大の爺さんが言った。その途端,夕焼けに染まる三叉路の景色は一瞬にして消え,元の真っ暗な空間に戻った。

 大きさの戻った爺さんが立っていた。爺さんはかぶっていた笠を取って,俺をジッと見下ろした。俺は立ち上がることが出来なかった。

「然り。鬼にもなる()し」

 爺さんは俺の前に歩いてくると腰を屈めて俺と目線を合わせた。白く濁った瞳であった。それなのに,何でも見通してしまいそうな瞳であった。俺はその瞳を見た途端,急に涙が溢れて止まらなくなってしまった。必死で止めようとして,しかし堪えることが出来なかった。

 俺は子供のように泣きじゃくった。すると,爺さんが俺の肩に手をかけた。暖かい手であった。そうしてあやすかのような口調で言った。

()れど道有り。()ほ人のごとし。(なん)ぞ迷はざる」

 そう言って俺の頭に持っていた笠をかぶせると,ふっと笑って,俺の肩にかけていた手で,ゆっくりと俺の頬を撫でた。そして「()い,良い」と笑いながら,すうっとどこかへ消えてしまって,二度と俺の前に姿を現すことはなかった。

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