とある妖のはなし
彼は、語る。
逢架が生きる時代から、数百年ほど前のことになる。とある村にそれは裕福な庄屋の一家が住んでおり、そのこの一人娘は大変美しいと有名であった。その庄屋一家の近くの寺に参拝するために訪れた安珍と言う名の僧は、器量のいい庄屋の娘――清姫をたいそう可愛がっていた。
「安珍様、わたくしをあなた様の妻にしてくださいますか?」
妻を娶ることをする僧はごくわずか。それを分かっていながらも、清姫は言う。せめてこの想い、打ち砕いてくれればそれでこの幻想も消え失せる、そして父の勧める縁談の相手に嫁ぐことができる。そう、考えたのだ。
「ええ、いいでしょう」
そのあまりの健気さと可愛らしさに心打たれた安珍は、嘘を吐く。
「一年後の今日、修練を終えてあなたを迎えに参ります。それまできっと、待っていてください」
意図せぬ答えに驚きながらも、喜びの中清姫は頷いた。
「きっと、きっとですよ」
そして、一年が過ぎ、また半月が過ぎひと月過ぎふた月過ぎても安珍は清姫のもとにはやってこない。安珍の身に何かあったのではと不安になった清姫は、彼が修練を行っていた山深くの寺近くに住む人々の袂を引いては「安珍と言う名の、年若く美しい僧を知らないか」と尋ね歩いた。
探し始めてから、ちょうどひと月が経った時だった。偶然にふもとへ降りて来ていた寺の住職は言う。
「安珍なら、一年と半年ほど前にもう京へ帰ってしまった。有望な弟子であった。もう少しとどまって欲しかったが、どうも長くこの地にはとどまりたくないようでな」
詳しく話を聞いてみると、どうやら安珍は清姫の住む庄屋の家を避けるようにして、既にこの地を去っていると。裏切られた――。それを自覚した瞬間に、清姫の心には冷たい炎が舞い上がる。
「殺してやる――」
庄屋の娘らしく、その風貌に釣り合うだけの美しい着物と綺麗な履物。長旅に適するわけがない。ただ、一心不乱に安珍に会わねばとの思いで清姫は、駆け出す。慣れない徒歩、擦り切れる草履。着物は薄汚れ足は傷つき血が流れた。
「安珍様……安珍様!」
京一番と評される有名な寺、そこに安珍がいるとの話を聞いて清姫はその門をたたく。訝しげな顔でそれを眺めた安珍は、その目に清姫の姿を捉えて顔色を変えた。
「清……姫様」
箱に入った傷一つない人形の様だった彼女の髪はふり乱れ身体は傷だらけ、おまけに着物はぼろ布同然。何より透き通るように輝いていた、光に当たるたびに緑や金色に色を変えていた魅力的な瞳は見る影もない。濁り充血して、この世のものとは到底思えない禍々しい気を、発している。
「安珍様、逢いとうございました……」
「あ、安珍? 誰のことでしょう。私は安珍ではありません。人違いでしょう」
「嘘よ、さっき私を呼んだじゃない」
冷え切った声で呟いた清姫に恐れをなした安珍は、修練の間に学んだ術を彼女に放つ。途端にどこからともなく炎が舞い降り清姫の身体を包んだ。
「安珍、様……」
「私が、お前と結婚などするわけがないだろう。一時の戯れを本気にする。これだから箱入りの娘は嫌だったんだ」
最後に、と安珍は呟き捨てる。死にゆく者に、自分を少しでも脅かした憂さ晴らしのつもりで。けれども、それを聞いた清姫は、天を仰いで呪いを吐いた。
「人を愛せよと、そう謳ったのは天上のあなた方ではありませんか。何故わたくしがこのまま炎に焼かれて死なねばならないのです。ええ、この恋叶えろなどとは言いませんとも。けれどもわたくしは口惜しい。このような人とも思えぬ男に一生で一度の愛を捧げて果てるなど。どうか、このわたくしを憐れんで下さいますなら、この魂差し上げます。ですから、お願いです。私のこの脆弱な体を、妖に変えてくださいまし――」
一瞬のことだった。天から稲妻が落ち清姫を貫く。白く輝く光が収まった時にそこに残っていたのは一匹の大蛇だった。
清姫の面影はない、しかしただ一つ唯一残った影はその鱗。数多の男を虜にしたが一番愛した人の心を捉えることはできなかった美しい瞳。その輝きを、蛇の鱗は継いでいた。
ちろちろと艶めかしく舌をちらつかせる蛇に恐れをなした安珍は寺の奥深くへ逃げこむ。
「和尚様、妖に追われているのです。お助け下さい」
「なに、一体どういう訳でそんなことに」
「私に惚れた妖を、滅そうとしたら逆上してきたのです。どうかお助けください」
「そうか、それは災難であるな。私に考えがある。この寺の釣鐘、これを下ろして隠れればよい。滅多な事では傷一つ付かぬ大物だ」
言われたとおりに釣鐘の中に隠れた安珍は、一安心とため息を吐く。しかし門を破壊し安珍を追う蛇――清姫は寺の深部に侵入し即座に安珍の居所を見破った。当然と言えば当然、本来釣られているはずの鐘が床へ置かれているのだ。不審に思わない方がおかしい。
「安珍様、ここにいらっしゃるのですね」
外からの声は、鐘の内部で反響し安珍に届く。
「熱かった、苦しかったです。貴方がそんな人だとは思わなかった――いえ、唯一愛した貴方を信じたかった」
「わ、分かった。私が悪かった。謝る、結婚しよう!」
「いいえ、もう結構です。ただ一つの願いだけ聞いて下されば」
「願い? なんだと、何でも聞こう、だから助け――」
「私の願いは、安珍様。貴方の死ですわ」
とぐろを巻くように鐘を締め付けた清姫の、その妖としても類いまれなる力と、牙から滴る毒で溶かされ安珍はやがて姿を現す。
「清姫、愛してる。だから」
「聞きたく、ありません。さようなら、愛しています」
今も、これからも。
その声が安珍に届いたかは知れない。けれども、物陰に隠れて様子を窺っていた和尚が見たのは、美しい少女が白骨を抱いて涙を流す姿であったという。