夜に
「この時間に」と妖の彼は言っていたけれど、と思い至ったのは翌日の夕食後。自分はその彼に出会った時間を知らない。南都の家を出た時刻は大体わかるが、自分が気を失っていた時間がどれくらいであったのか分からない上に、昨晩は帰宅と同時に倒れこむように布団へ潜ったため家に着いた時間からの逆算も不可能だ。
少し考えはしたものの、直ぐに覚悟は決まる。南都の家を出たと思われる時間から、昨日出会った場所で彼が現れるまでひたすら待っていればいいのだ。他人を待たせるくらいなら自分が待てばいいし、もともと待つのは嫌いではない。
母に一言外出の旨を伝えようと、家の外を眺めその姿を捉えた。
「母さん、今晩出かけるわ。帰る時間は分からないけれど」
「……ええ、分かった。誰かと逢う予定でもあるの?」
「そうじゃないわ。少し遠出の散歩にでも行こうと思って」
「そう。ならいいわ。行ってらっしゃい」
母が自分に寄りたがらないのは分かっていたから、少し遠くからの会話になったが了承は得た。ばれなかった嘘に安堵して小さく溜息を吐く。
「行ってきます」
家を出て、薄らぼんやりと覚えている道を辿る。合っていればいいのだけれど、と心中で呟いた。
「逢架ちゃん、どうしたの?」
不意に背中からかけられた声に不意を突かれ反射的に手が出そうになる。一年前半前と同じだ。その声とその呼び方で自分を呼ぶ人は一人しかいないのに。
「南都……」
だが、すんでの所で平静を保ってぴくりと僅かに指を動かすに留まったのは多分、少しながら成長の証。
「ちょっと散歩に」
「こんな夜遅く?」
「嘘じゃないわ、本当に散歩」
「別に疑ってたわけじゃ、ないんだけどね。今ので怪しいと思った。まあ、追及はしないでおくよ。あまり危険なことはしないって約束してくれるなら」
「……危険って何」
「人間相手でも、男に喧嘩を売らないこと。妖には近づかないこと」
その時点で言い訳を守らないことが既に決定していたが、まあ仕方がないと言い訳。もともと先にあった予定を優先するのが筋と言うものだろう。
「ええ、分かったわ。危ないことはしない。それで良いでしょう?」
どうして妖に近づくのが危険なのかははっきりとしないが、余計な事を聞いて怪しまれても困る。大方、凶暴なのがいると危ないということだろう。
「うん。じゃあ気を付けてね。面白いものでも見つけたら話聞かせて」
「そうね。それじゃ」
手を振り南都とそこで別れた。それから少し歩いて、自分の記憶が正しければ昨日出会ったであろう場所にたどり着く。空はもう暗い。近くにあった木に登り幹に腰掛けて彼が来るのを待った。
「貴方に恋して幾ばくも」
ぽつりぽつりと逢架の口から零れる旋律。幼いころに床に臥す逢架に、母が歌ってくれた子守唄の一節だ。
「残らぬ灯を輝かせ」
そういえば、と昨晩は思い出さなかったことを思いだす。幼いころ、逢架はよく体調を崩して寝込んでいた。
「あなたに唯一残したい、想いを置いて朽ち果てる」
持病、と言う訳ではないがもしかしたら自分は元来、体が弱いのかもしれない。
「それがわたしの定めなら」
昔は意味も分からずに、暖かい旋律に乗せて母の口から紡がれるこの歌を聞いていたが、いま成長して改めて聞くと、その暖かさとは真逆の歌詞になっていて不思議に思う。
「それがあなたの為ならば――」
唄いきって見上げた空には青白く輝く月。太陽の光がないと輝けないことから、女を月に男を太陽にと例えたものがいるのだと南都が言っていた。それは随分傲慢な話ね、とそのときは彼に言ったものだったが実際、父を失った母はそれまであった魅力と言うようなものを失くしていることを考えるとあながち間違えともいえないのかも知れない。
「君が、歌っていたのか?」
突然の声は、逢架の中で既視感を生む。相違と言えば、南都は後ろからで妖の彼は肩越しからだということ。少し震えた逢架に「寒いのか?」と見当違いのことを彼は訊く。
「寒くは無いわ。夏だし」
「そうか。私は夏は好きではない。どうにも体温の調節が面倒くさい」
「体温? あなた、血筋は?」
素直な疑問に彼は眉を吊り上げる。無表情が取って返したように不機嫌そうになる。
「清姫だ。昨日も言っただろう」
「きよ、ひめ……?」
「清姫を、知らないのか?」
地を這うような声、という表現を知ってはいたが身を持って体験したのは今が初めてだった。ぞくり、と背筋が冷える。
「知らないわ」
辛うじて告げると、大きなため息。
「妖の中で、よもや清姫様を知らぬ者がいるとは思わなかったが……驕りだったようだな」
冷たく吐き捨てられたその台詞に、ずきりと心が痛む。
自分が知らないのは、妖との交流を絶っていた半妖だから。多分あなたは、驕ってない。そう続けたかったが、ついた嘘がそれを許さなかった。
「あ……ごめんなさい」
「別に、謝罪を求めているわけではない」
怒りに耐えているのか、硬い声。俯いた逢架を一瞥して、彼は淡々と言葉を続けた。
「清姫と言うのは、今から数百年前に生きていた姫の名だ。彼女はとある庄屋の、美しい一人娘であったと伝えられている――」