紫藤南都
もう一年半ほど、前のことになるのだろうか。その日は雨が激しく振っていて、本当なら家に籠っているのが普通の過ごし方なのだろうけれどそれが嫌で嫌で、いつものように詫びてばかりいる母と顔を合わせたくなくて――外が雨のせいで陰気くさいのにこれ以上辛気臭い気分になりたくなかったのだ――、外に飛び出した。
全身を打ち、体温を奪う空からのしずくを気持ちいいと感じていたように思う。はぁ、と息を吐けば白いもやとなって姿を現す。
「……生きてるみたい」
呼吸が目に見えるから。いっそ一年中冬にして、常に息を吐くたびにそれを目に見えるようにすればいいのに。そうすれば、人間たちはきっとくだらない戦いなんてやめるだろう。ちゃんと、自分が殺してるのが敵将軍の〝駒〟じゃなくって同じ〝人間〟だって自覚すればいいのに。
くだらない妄想だと自分でもおかしくなって、くすりと逢架が微笑むと、額に衝撃が走った。何かの比喩ではなく、文字通りに衝撃。つぅ、と傷口から血が流れ出すのが分かって、その感覚が気持ち悪い。銀に染まった瞳で石が飛んできた方向を睨み付けると人間の子供が、石を持って震えて立っていた。
「あなたが、投げたの?」
「ち、違……っ」
「うそついてんじゃねーよ! おまえだろ!」
「……?」
震える少年の後ろからにやにやと楽しそうに笑いながら、彼と同じ年頃の少年が二人騒ぐ。その威圧感と自尊心でどろどろに固まったような瞳を、気持ち悪いと、逢架がつぶやくとまた二人は笑う。
「よかったな太一! 気持ち悪いってよ。はやく投げろよもう一回、今度こそ殺せるぜ。ほら、太一、早く投げろよ太一」
「え……でも、一回したら許してくれるって」
「はあ? 投げらんねえの? なにそれ、うわー」
「うっわ、超冷めるわ。興ざめ。そんなにいい子ぶっちゃってなにしてんの」
「で、あなた」逢架が冷めた声を割り込ませると三人の少年は固まった。「どうするの? 石投げて、私を殺す? 好きにしたらいいわ。どうせ餓鬼の投げる石程度じゃ私は死なない。それに脅されたからと投げるお前も脅して陰で笑っているお前らも、夜になれば私が殺しに行くんだから。精々今のうちにやりたい放題しておくといいわね。そうすればしただけ無残に殺せる」
くすり、とほほ笑んでちろりと舌を出した。血を舐めとるように、空気を舐める。
「冗談だなんて思わない方がいいわよ。誰も今晩殺すだなんて言ってない。〝夜〟よ。十年たっても百年たっても忘れない。必ずお前らを殺しに行くわ。ねえ、知ってる? 人間の肉と血ってね、妖にはご馳走なのよ? 特に下衆な人間であればあるほど、おいしいの。どう思う? 自分は下衆だと思う?」
止めとばかりにそう告げて、鋭くとがった爪を彼らに伸ばした。
「ああ、美味しそう。もう、今ここで殺しちゃってもいいわね」
――絶叫。
その声でふと我に返れば、三人の少年が転びながらも必死に逃げていっているのが見える。
「馬鹿みたい、殺されたくないなら殺そうとしなきゃいいのに」
「そうもいかないのが人間なんだよ。半妖のお嬢さん」
答えが返ってくることなど微塵も予想していなかった呟きに対する驚きで思わず爪をその方向に凪いだ。
「うおっと、危ないな。驚かせるつもりはなかったんだけれど、すまなかったね」
「逃げないの? 殺すわよ」
「優しいねえ、君は。大丈夫だよ、君は僕を殺さない。彼らも殺さない。そうだろう?」
「なんで? そんなこと分かるわけ」
「だって妖は人間の血肉なんて食べない。そして君は僕を殺しても何の利益もない。僕はね、紫藤南都。君の名前は?」
「なんで、そんなこと知ってるのよ人間のくせに。それに憂さ晴らしで殺すかもしれないじゃない。ちょっと崖から落ちただけで死ぬのよ、人間って。だったら私がちょっとこの爪で喉をなぞるだけで死ぬかもしれないじゃない。石投げられたの、血が出たわ。じゃあ投げ返してもいいと思わない? その結果どうなろうと知ったこっちゃないわ」
「確かに脆いよ、君たちと比べたらこの体は。とても弱い。君は強いよ。強くて、悲しくて寂しくて弱い」
可哀そうなものを見る目で見つめられた逢架の意識は苛立つ。通りすがりのお前にそんな目で見られたくないのだと。私は弱くも可哀そうでもないのだと。
「なにが、分かるっていうの」
「たとえば、一人になろうとしていること。たぶん、理由は知らないだろうけれど妖よりも人間に半妖が嫌悪されるのを君はわかっているんだろうね。だから人間を遠ざける」
「……」
「あと、たぶんあの少年をいじめていた男の子。もう二度といじめはしないだろうね。君に怯えて。君の影が抑止となる。なのに、それを自分が殺そうとしたという罪で塗り替えようとする。そんな君はとても強いよ。でもね、よくないな。まったくもってよくない。不愉快だよ。教師として見過ごせない。そんな子供は。だって、そんなの寂しいじゃないか」
言いきって、彼――南都はこちらに手を差し出した。
「僕の生徒になりなさい。僕に残った全てを君にあげよう。君の名前は?」
「……逢架」
「そうか、逢架ちゃん。じゃあ、僕の家すぐそこなんだ。行こうか?」
馬鹿みたいに人が良さそうな紫藤南都に絆されたわけでは、決してない。ただ、あのとっさの〝殺す〟といった詭弁を見破ってくれたこの人間に興味がわいた。それだけだ。どうせ、この男もすぐ飽きるのだから付き合ってあげてもいいと思っただけ。自分に言い聞かせながらその手を取ると、不満げな声が頭上から降ってきた。
「ほら、またそうやって言い訳して打算する。そういうところから、教育し直すからね」
「うるさいわ。暖かいものが飲みたい。はやく……行きましょう」
ちゃんちゃんこを羽織って帽子を被った彼の、長い栗色の前髪の向こうで黒い瞳が笑ったような気がした。
それからの一年半の付き合いで分かったこと。
紫藤南都は元教師だったが若いながらも病にかかって引退、療養のために田舎のこの村へ越してきた。もとの病は完治したらしいが、免疫が落ちたせいで病気がちになりまだ村でのんびり暮らしている。
好きなものは日本茶と甘味。あと本が好き。それから、教えることに関してはわかるまで何度も何度もしつこい。
あと、とても優しい。本人には口が裂けても言いたくはないが、まるで兄のように思っている。