半妖の娘
「ごめんね、ごめんね逢架」
母はいつも泣きそうな顔をしながら、決して近くに寄らないようにして自分を見つめている。そんな母を父がどう思っていたのかは定かではないが、その父も逢架の十歳の誕生日に崖から転落して死んだ。誕生日の祝いにと、狩りに行った帰りだったらしい。近くに死んだ猪もまた、落ちていたと聞いた。父の死を伝えられた母はまた、泣きそうな顔をした。けれどもどこか覚悟をしていたようなふしもあり、逢架は訝しく思ったものだったがそれだけだった。
ふうん、と。思ったっきりそれだけ。強いて言うなら、父は妖の母と違って人間だったから身体が脆かったのだろうと。もし崖から転落したのが母だったならば――否、半妖の自分だったとしても、大事に至ることはあっても命を落とすまでには至らなかったのだろう。とはいえやはり、仮定の話。過去のことをたらればで語るほど、十七ともなれば子供でもないつもりだ。
その冷たさに自分でも驚いたものだったが、よく考えると妥当かもしれない。思えば父親らしくない父親だった。母よりもまた、極力逢架には近寄らないようにしていたし自分が生まれてから父が死ぬまでのかっきり十年間で、抱き上げてくれたことは二度だけ。五年の一度の計算になる。一度はおぼろげな記憶の底だが、おそらく三歳か四歳のころ。二度目は彼の死の、前日だった。
「……暑い」
呟いた逢架は長く伸びた漆黒の髪を払い、うなじを露わにする。そういえばこんな風にやたらと日が照って暑い夏の日のことだった。父が死んだのは。
ひとつ、ため息。過去の物思いなんかに耽って、何の意味がある。無駄なことはやめようと立ち上がると、足の下の木の枝がぴきりと軋んだ。音につられて足許を見ると、たわんだ細い木はそろそろ限界を訴えているようだ。このまま枝が折れるのに任せて、ここ周辺で一番高い木の頂から落下というのも情けない話だ。億劫そうに一度瞼を閉じ、そして開く。
途端に何の変哲もなかった黒の瞳の奥深くから銀色の光が噴出し、瞳を染めかえる。そうだ、あいつに会いに行こう。くい、と膝を折り弾みをつけ、そして跳んだ。
駆けるたびに自分を打つ、風が気持ちよかった。
「……半妖」
「忌々しい……」
「寄るな、寄ったら殺される」
村はずれの家へ向かう途中ふと聞こえた声に振り向くと、数人の男が農作業の手を止めて自分をうかがっている。
「大丈夫よ」誰に言うでもなく、小声で逢架はつぶやく。「殺さないし、近づかないわ」
彼女が振り向いたことに怯えたようにしていた彼らは、逢架が何もせず去ったことに安心したのだろう、顔を見合わせて安堵のため息をついている。馬鹿みたい、と冷たく囁いた。
「殺されるのが恐ろしいなら、何も言わないで見ないふりをしていればいいのに。挑発するようなことを言ったら殺されるわ。ねえ、そうでしょう? 南都」
「……そうかもね。けど、逢架ちゃんは殺さない。そうだろ」
「さあ、どうかしら。あまり頭に来るようなら殺すかもしれないわ」
「いいや、殺さないよ。君は命の尊さをちゃんと理解しているからね。自慢の生徒だ」
「ええ、そうね。あなたに嫌というほど教え込まれたわ。『いただきます』も『ごちそうさま』も」
「ところで、そんな僕の自慢の生徒逢架ちゃんはこんなところで何をしてるんだい? 珍しいね、わざわざ村へ来るなんて」
何よ、と逢架は南都のその言葉に口をとがらせる。
「南都に会いに来ちゃいけないっていうの? そもそもあんたの方が何してるのよ。今日は体の調子、悪くないの? そもそもこんな暑い日に病気がちな人間がふつう出歩く?」
少し驚いたように目を細めた南都は、「いいや」と首を横に振って逢架の頭に手を置いた。
「会いに来るのは悪くないよ。そういうわけなら納得だ。お母様と喧嘩でもしたんじゃないと思って、僕が勝手に心配しただけさ。それで、質問に答えると……そうだな。体の調子はいつもと同じ。格別よくもないし、まあそこそこ悪い。こんな暑い日に――というのに対してだけれど、もしかしたら明日は今日より暑いかもしれないだろう? だったら明日行くよりは今日行く方がいいと思ってね。ちょっと古書店へ」
注文していた本が届いたんだ、そう笑いながら鞄の中に大事そうにしまってあった本を取り出して南都は逢架に手渡した。
「なに、これ」
「三十六年と八十五日前に自費出版されたとある研究資料でね、今はもう絶版で一般書店で手に入れるのは困難なんだよ。ちなみに、興味あるようなら貸すけどいかがです?」
「いい。私は字読むの好きじゃないから」
「勿体ないな、興味深いのに。まあ、いつでも貸すから何か困ったことがあれば読んでみるといい。きっと逢架の助けになるよ」
ところで、といいつつ逢架の手から本を取り上げ慈しむようにそっと南都はまた鞄にしまう。
「どうせこんなに暑いんだ、少し僕の家で冷茶でも飲んでいかないかい? 甘味もつけるよ」
「もともとあんたに会いに来たって言ってるでしょ? いいわよ、行きましょう」
「逢架、あんたじゃなくて『あなた』だ。この前も言っただろう? あんた、は粗野だからあまり使わないようにと。特に女の子はね。高飛車な印象を受けるから僕は好きではないな」
「たかび……? なに、それ」
「うーん、まあ噛み砕いて言うと偉そうで上から目線って感じかな。新しい単語獲得おめでとう、逢架」
「あなた、私を馬鹿にしてるの? はやく行きましょう」
「さっそく使ってくれるのか。流石自慢の生徒だ」
くすくすと口元を押えて可笑しそうに笑う南都にむっとして少し早足で歩きながら、逢架はふと思い出した。父が死んだのは今日のようなやたらと暑い日だったけれど、自分が南都と出会ったのは確か、雨の降る薄暗い日だった。