♯05
教室の一番後ろから、私は教室という 切り離され孤立した一空間を見回す。
放課後の今、一空間は様々な声が飛び交っていた。
総合で勝った方が吟だこゴチな。お疲れ。部活頑張ってね。地学今回いい線いくかも。
三日前に受けて、返ってきた試験の答案を交換し合う者、
帰りの挨拶もそこそこに 部活の支度をする者、
採点が終わらず返ってこなかった教科の点数に対して、自信を口にする者……。
傍観者になればいい。死者のように、創造主のように、俯瞰していればいい。
そうすれば私は何も考えなくて済むから。思考も闇に沈み込ませてしまえるから。
いつものように私は周りに帰りの挨拶をする。
いつものように周りは私に挨拶を返してくる。
ただ ひとりだけ。この間と同じく、ある男子生徒だけが怪訝な顔で此方を見ていた。
ディグノシス ♯05
「あっ。お久しぶりです」
生徒玄関に続く廊下を歩く途中で、呼び止められた。委員会で顔を合わせている後輩だった。
何でもないことをニ、三話す。これから部活だと言うと、後輩も自身の所属する部の近況を喋り始めた。
「再来週に公演があるんですよぉ。コメディの創作劇で。
同じ一年の子が主役取って。ちょっとそれはないよなって思うんですけどね……」
却って親しい人間には言わないであろうことまで、言葉の端から洩れていた。
挨拶をして別れる。たどり着いた生徒玄関は、電気もついておらず、西日が入らないせいで薄暗かった。
靴箱を取り出そうとして、もうひとり横で同じ動作をしている影に気が付いた。
誰かと思えば、先ほど怪訝な顔で此方を見ていた男子だ。
私が後輩と話をしているうちに、いつのまにか支度を済ませて教室を出ていたらしい。
相手が此方の姿に気付く。部活かと声を掛けられたので、そっちは直で帰りなのかと適当に繋げた。
「今日の体育、女子はミギが代理だったんだって。ねちっこかっただろ」
会話をしてみると、この生徒が誰に対しても平等の態度を取っていることに感心する。
偽善的な振る舞いではない。――あるいは、それを感じさせないほどの演技者か、何も考えていないか。
「そうだ、参考にいいか? 亀煎餅と歌舞伎揚げ煎餅ってどっちがいいと思う」
……でなければこんな突拍子もない質問はしてこないだろう。
いつものように茶化してみせると、面白い返答をしてくるものだから、つられて笑ってしまった。
相手が言い出したのは、別段変わりなく問いかけた会話の延長だった。
「――なあ、それよりどうしたんだ、そいつ」
意図のない言葉だ。
もし、これが折を見計らって計算で訊いてきたのだとしたら――相手は大層頭の切れる人物、ということになる。
そうでなければ、私はこんな確信を突かれた表情を見せやしない。
……え?
余裕なく聞き返した此方に、生徒は違う方向を見て言った。
「だから、隣にいる奴。弟か? …にしては、似てないし」
思えばその生徒は、私と会話するとき、いつも目があらぬ方向に向いていた。
何かを凝視し続けている、というべきだろうか。
……なにを、見ている?
平静を装ったつもりだったが、背中で嫌な汗がつつ、と垂れていくのが分かった。
生徒はもう一度私の隣に視線を合わせるが、此方に戻す。
「なんか周りの奴も気にしてないから、いいんだけどさ。 これから部活なんだろ。行ってスーパーテクでも見せてやれよ。じゃあな」
生徒の目線に居たもの。
喪服の如き黒衣の正装。髪も目も黒いのに、反して肌は病的なまでに白い少年。
傍らに居て、此方をいつも見下げる存在。
「彼」は生徒玄関を出ていった生徒の後ろ姿をじっと見ながら、不敵な笑みを浮かべた。
「接触してきたか。妙な手を使ってくるものだな……あれの主は。」
力を込めてしまえば折れてしまいそうな体躯は、遠くから見ると、全身を黒ずくめにした鳥に思えた。
不吉だと忌み嫌われながらも、空を翔る姿は気高く、獰猛で、鋭く抉ってくる――漆黒の鳥。
「主の意見を聞かなければ不可ないな。汚穢に塗れた罪科の我が主、あんたは如何したい。」
彼は私に触れる。体温を感じない指先が、耳から頬、首筋をなぞっていった。
希ならある。どんな形であってもいい、空虚からの解放。
絶望。嫉妬。欲望、怠惰、嘆息、悲観、自虐――数え切れない昏き思考からの 脱却。
白黒の世界に億千万の色が塗られたように、窓を開けた途端光芒が広がるように、
私の世界は開けていったのだ。
――目の前の 扇動する黒だけを、いっそう際立たせて。