♯09
「劣情を煽るのが好きみてェだな。其れが解った結果、得た物か?」
釦を外した白衣の裾が、外套の如くはためいていた。
月はない。都会でも夜空に星は浮かんでいるだろうが、
初夏の夜に浮かぶ恒星は極端に少なく、真黒な一面が頭上に広がるだけだった。
ざわざわと木々が揺れる。音に混じって、離れた場所に居る相手の声が響いてくる。
「ほざくなよ? 意識も持たなかった片割れ如きが」
庇った身体が血を流す。紅い。人の仔らの私は、こんなにも昏く赫い血を流すのだ。
木の葉が公園の街燈の光を時折遮る。それに伴い、コンクリートの影も点滅を繰り返した。
嘲笑されるのには慣れたはずだ。
侮蔑に幾ばくかの憐憫と感興が入り混じっていると気付いたから。
けれど何だろう――追い詰められている今は、自分が言われているわけではないのに。
身が震える。
胸を抉られるような焦燥がある。
「一つ覚えとけ。誰が主か。約定はまだイきている」
やめて、と私は懇願する。
お願い。 もしあなたに少しでも痛みが解るのなら。
連れて行かないで。受け入れてくれた存在を、無き物にしないで。
……奪わないで――――
ディグノシス ♯09
私の腕の中には、「彼」が居る。
彼は力を失った獣のように、ひゅうひゅうと息を吐いていた。
傷口から垂れた私の血が、彼の頬にかかる。こってりとした粘液は緩やかな軌跡を描き 伝い落ちた。
――僕らを解しては、不可ない。
あのとき紡がれた一言を反芻していた。「彼」が残した顰だった。
ああ言って姿を消したのは、次に誰が狙われるか知っていたからか。
こうやって連れ戻しにくる存在を、知っていたからか。
けれど、これが棘というのならば、私は抜かない。
知ってしまったからだ。
痛みの先にあるものを。抉られた後に、彼によって埋め込まれたものを。
だから。……もう一度言って。主の希はと、訊ねて。
そうしたら私は、答えてしまえる。
私はあなたを締め上げて、苦痛に歪めて、それから――自分のものにしたいだけなの と。
「――大丈夫」
突如後ろから靴音がして、顔を上げた。
「君の大事なひとはおれたちが守るから。もう、泣かなくていいよ」
きっぱりとした物言いだった。
ぼんやりとした明かりに、ラフな格好の少年が浮かび上がる。追い詰められてへたり込んだ 此方ではなく、遠くを真っ直ぐに見据えていた。
……誰?
「たいしたものね……それで欺いたつもりなの、ねぇ」
もう一人、奥から誰かが厳粛に呼び掛ける。落ち着いているが、怒りを押し含んだ声色。
少年と少女の二人は街燈下に視点を合わせていた。……距離にして10数メートル。
佇んでいたのは 蛍光灯のように目を刺激するほどの真白な外套。それから紫煙を燻らせ夜空に立ち昇らせている「月」が潜み――喪服のような衣装を身に纏った「彼女」が浮いている。
彼を連れ戻しに来たという男たちと、少年少女は対峙していた。
「あァ? 今頃お出ましか。遅かったな」
白衣の男は 少年と少女を見てせせら笑う。
知り合いなのか。……この少年少女も男と同じ、彼を連れ戻しに来たのではないのか。
目の前に現れた者らが対峙する中、私は彼をしっかりと抱いたまま 退かなかった。
「よくもぬけぬけと言ってくれるわ……解ってるのでしょう」
大人びた少女が、男に向かって一歩前に出る。
「――ミス・パーカー。貴方を滅する」
そして少年少女は木々のざわめきに呼応し、二手に分かれ、闇夜に紛れ、咆哮した。