♯Numberless “常識で測れないぼくは子供”
――ぼくは蹴られていた。
塾が入っているビルの、屋上へ続く踊り場で。
数人の生徒が群がり、ぼくを円の中心にして次々と腹を蹴っていく。
土曜の昼前は自習時間に充てられていて、夜より却って人が少ない。
ちょっと言い掛かりをつけてこんな暗がりに連れ込む奴ら――
昼間は親や教師に優等生の仮面を被った奴らにとって、ひ弱な体型のぼくは格好の餌食なのだ。
「にしても、ボールみたいによく跳ねんなあコイツ」
「助けてって喚いてみろよ。 言いたきゃ言えよホラァ」
リミッターが外れていく。
胸の内から、鬱積したものが溢れていこうとする。
必死に抑えた。こいつらは不味い。こいつらは下衆だ。肉以下の塊、腐れきった臓物の集まりだ。
まだその時ではない。まだその時ではない。
「クズなヤツは! 一生! クズなままなんだよ!
オマエがココで息してんのもメシ食ってんのも全部ムダでジャマで地球に優しくねぇんだよ!
エコロジストになってみろよ! あ? こう言わなきゃ解んねぇか?
――消えちまえよ。 オマエみてぇなクズは、1ナノも残さず消えちまえ!!」
顔には傷を作らせない奴が、珍しくシャウトして、頬にがつんと一発入れてきた後だった。
がたん、と物音がして、見張り役の生徒が動揺する声を出した。
「お、おい、タカちゃん、あっちから誰か人が……」
「構わねぇよ どうせ大学生の講師だろ!?あんなヤツら親に言えばすぐクビにできるって――」
言い終わるが早いか否か、暗がりの踊り場に足音響かせてやって来たのは、男女の二人組。
「残念でした! あたしたちは生徒だからクビになんかできないわよっ」
「……小学生のケンカに入る意味あるんすかあ」
「あ・さ・が・や・くんっ」
「はいはいわかったっすよわかりました。 というわけで、とっとと退散しやがっちゃってください」
声からして勝気そうな女子と、乗り気じゃないカルいお調子者の男子の声。
朦朧とした意識の中で、逃げ出すあいつらの姿が見えた。
それから、ぐったりしたぼくを見て 慌てた誰か、差し伸べられた手――
「ちょっ、ちょっと大丈夫!?」
――ああ。これは肉だ。
目の前にいる生物は、ぼくと違って柔らかい肉がついている。
その健康そうな肌を切り開いたら、渦巻いた薄桃色のモツが並んでいるんだろう。
想像する。服ごと切り開くぼく。一閃切り裂いた傷口に手を突っ込むぼく。
押し開き、その中にあるものを掴んで、引き摺り出して、異臭を嗅ぎ分け、滴り落ちるのを眺めた後にしゃぶるぼく。
……最高だ。どんなにかぼくは恍惚と至福に酔い痴れることができるだろう。
「ねぇ阿佐ヶ谷くん、このコ笑ってる……」
よかった。安心したんだね――つゆ知らずの安堵の声が、ぼくの耳に残った。
ディグノシス ♯Numberless “常識で測れないぼくは子供”
「おーい。そこのクズ呼ばわりされてた小学生。生きてんすかあ」
煙い。嫌悪を抱く噎せる薫りに、嫌でも目を開けざるを得なかった。
ぼんやりした景色に焦点が合っていく。煙いと思ったのは、頭上で煙草を吸われていたからだった。
ガキ呼ばわりしても、アンタだって二つぐらいしか変わんない中坊だろ……
居残った不良男子学生に言ってやりたいけれど、ぼんやりしていて口がうまく回らない。
「市原サンに感謝するんすね。用があったみたいだったから、帰らせましたけど」
声を張り上げていたさっきの女子らしき名を呼ぶと、相手はどっかりとその場に足を投げ出して座った。
頭の中で事の顛末を結論付ける。ほんの僅かな時間、ぼくは気絶してしまっていたのだろう。
「あ、コレ吸ってんのは内密に。市原サンとは塾だけの付き合いだもんで、こんなトコ見せたらヒかれるっしょ」
けらけらとおどけてみせる。遠慮もなしに煙を吐き出すものだから、副流煙がもろに染み込んでいきそうな気がした。
煙は嫌いだ。そんなに煙に巻かれたいのなら、練炭と一緒に焚けばいい。
思わずぼくは仏頂面になる。目が覚めた以上、居合わせる必要もないと感じ、立ち上がった。
「――次は市原サンを脳内で肉にするつもりっすか?」
唐突に。ぼくの背中に向かって、そいつは宣った。
「あんな標的見るようなカオで笑われちゃ……バレバレっすよ。脳内で人を手に掛けるような類友だって」
次第に。振り返ってしまった身体が、小刻みに揺れた。
図星なことを言われたからじゃない――奴の顔をはっきり見てしまったからだ。
類友、そんな表現でぼくを評した奴は、目だけで威圧する歪な表情をしていた。
「どっかで変なのに会ってたらゼヒ教えてほしいんすけど。
黒い服に黒い髪に黒い目、肌は白い……13、14くらいの細い成りで」
相手は煙草を挟んだ指を軽く揺らして、灰を飛ばす。
――火の粉の灰が、風に乗ってぼくの皮膚に張り付いた。
熱い。それなのに、寒気がする。なんだ? この目の前の威圧感は。
「『名乗る価値もないもの』。勝手にそう言い出した『彼』のことっすよ……」
知らない。「彼」? 『名乗る価値もないもの』?
なにを言ってるのだろう……ぼくはただ、脳内で愉しんでるだけじゃないか。
なにを言わんとしてるのだろう……目の前の、こいつは!
ぼくは、カタカタと震えながら、首を横に振った。精一杯の意思表示だった。
不良男子は、目を丸くする。そして、煙草を爪弾いて、階段に放った。
「なァんだあ――違ったんすか。脳内妄想の激しい輩だから、もしかしてと思ったのになあ」
カタカタと震えていたのは、肩を上下させて笑う相手も同じだった。
笑いを、抑えている素振りだった。
「ならもう帰っていいっすよ。……そうだ、もし今後そいつに出会うことがあるんなら、コッチの名前でも出しておいてもらえます?」
喉が灼けるように痛くて、剥がれない。搾り出すような肯定の声が、自分の口から洩れた。
「阿佐ヶ谷 朋生。ツキが二つ生まれる、そう書いて――トモウ」
ぼくは、走りだした。螺子が飛んでキレた嬌声など無視して、階段を駆け下りた。
灰を貼りつかせていた頬の痕が――少しだけ痛んだ。
どうやって家までたどり着いたのかは、覚えていない。