永遠とは夢幻(ゆめまぼろし)
町の外れに、百年以上営業している写真館があった。
看板には、かすれた金色の文字で「月影写真館」と書かれている。
主人の冬一郎は七十八歳だった。
妻の澄江を亡くして、今年で十二年になる。
写真館の壁には、何千人もの人生が並んでいた。
七五三の子供。
卒業式の学生。
結婚したばかりの夫婦。
赤ん坊を抱いた母親。
少し緊張した遺影写真。
冬一郎は、写真とは不思議なものだと思っていた。
人間は変わる。
町も変わる。
建物も壊れる。
けれど写真の中では、誰も歳を取らない。
澄江もそうだった。
店の奥、帳場の上に一枚だけ、若い頃の彼女の写真が飾ってある。
二十二歳の澄江は、今も二十二歳だった。
「ずるいな」
冬一郎は、ときどき写真に向かって言った。
「俺ばっかり、こんな爺さんになって」
もちろん返事はない。
けれど、笑っているようには見えた。
ある夏の日、一人の少女が写真館を訪れた。
高校生くらいだろう。
「写真を撮ってもらえますか」
「証明写真?」
「いえ。普通の写真です」
少女は少し考えてから言った。
「できれば、ずっと残るやつ」
冬一郎は笑った。
「写真は、ちゃんと保管すれば長く残るよ」
「百年くらい?」
「まあ、それくらいなら」
少女は窓の外を見た。
「千年は?」
冬一郎は笑うのをやめた。
「千年か」
「無理ですか」
「無理だろうなあ」
少女は少し残念そうな顔をした。
冬一郎はカメラを用意しながら尋ねた。
「どうして千年残したいんだい」
少女は椅子に座った。
「私がいたってことを、誰かに知ってほしいから」
「家族じゃ駄目なのかい」
「家族だって、いつかいなくなるでしょう」
それはそうだ。
冬一郎は答えられなかった。
少女は続けた。
「百年後には、私のこと知ってる人なんて誰もいない。千年後なんて、名前すら残ってない」
「有名人になれば残るかもしれんよ」
「有名人になりたいわけじゃないんです」
少女は笑った。
少し寂しそうな笑い方だった。
「ただ、消えるのが怖いんです」
冬一郎はファインダーをのぞいた。
その顔が、若い頃の自分によく似ている気がした。
冬一郎も若い頃、同じことを考えていた。
自分が死んでも、この店だけは残したい。
写真を残したい。
名前を残したい。
だから店を守った。
父から継いだ古い写真館を建て替えず、看板も替えなかった。
けれど、気がつけば町にはマンションが増え、古い商店は消え、写真はスマートフォンで撮るものになった。
自分の息子は東京で暮らしていて、この店を継ぐつもりはない。
月影写真館も、冬一郎の代で終わる。
百年以上続いたものでも、終わるときは終わるのだ。
「撮るよ」
冬一郎が言った。
少女は背筋を伸ばした。
「笑ったほうがいいですか」
「好きな顔でいい」
少女は少し迷った。
そして、ほんの少しだけ笑った。
シャッターを切った。
その瞬間、夏の日差しが窓から差し込んだ。
白い光が、少女の髪を照らした。
冬一郎は、なぜだか胸が痛くなった。
数日後、少女は写真を受け取りに来た。
出来上がった写真をしばらく眺めていた。
「これ、千年は残らないんですよね」
「たぶんな」
「じゃあ、何年くらいですか」
冬一郎は少し考えた。
「分からん」
少女が顔を上げた。
「写真って、不思議なもんでね」
冬一郎は言った。
「紙が残ってても、誰が写ってるか分からなくなることがある。名前が書いてあっても、その名前を知ってる人がいなくなる」
「じゃあ、意味ないですね」
「そうかもしれん」
冬一郎は笑った。
「でもな」
少女は黙って待った。
「残らないから、撮るんじゃないかな」
少女は首をかしげた。
冬一郎自身も、自分が何を言っているのか、よく分からなかった。
ただ、その言葉だけは妙にしっくりきた。
少女が帰ったあと、冬一郎は店の奥から古い箱を出した。
澄江の写真がたくさん入っていた。
旅行先で笑っている澄江。
料理をしている澄江。
子供を抱いている澄江。
病院の庭で、痩せた身体を椅子に預けている澄江。
最後の写真は、亡くなる三日前だった。
澄江は写真が嫌いになっていた。
「こんなお婆ちゃん、残したってしょうがないでしょう」
そう言った。
冬一郎は、それでも撮った。
今見ると、やはり撮っておいてよかったと思う。
若い澄江だけではない。
皺だらけの澄江も、澄江だった。
冬一郎は店の表に出た。
夕方だった。
向かいにあった駄菓子屋は、もうない。
昔、子供たちが走り回っていた路地には、車が並んでいる。
空だけが昔と同じような色をしていた。
冬一郎は思った。
永遠なんて、本当はないのだろう。
人も。
町も。
写真も。
思い出さえ、いつか消える。
何百年、何千年と残るものがあったとしても、それだっていつか終わる。
永遠とは、きっと夢幻なのだ。
それでも翌朝、冬一郎はいつもの時間に店を開けた。
看板を出し、窓を拭き、カメラの埃を払った。
昼過ぎ、若い夫婦が赤ん坊を抱いて入ってきた。
「家族写真をお願いできますか」
「もちろん」
冬一郎は椅子を並べた。
母親が赤ん坊を抱き、父親がその横に座った。
赤ん坊は泣いた。
三人で笑った。
冬一郎も笑った。
「じゃあ、撮りますよ」
ファインダーの中に、三人の一瞬があった。
この子も歳を取る。
両親も歳を取る。
この写真館も、いつかなくなる。
この写真も、いつか誰にも見られなくなるかもしれない。
それでも。
冬一郎は静かにシャッターを切った。
小さな音がした。
それは永遠には届かない。
けれど確かに、この瞬間には届いていた。




