↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

永遠とは夢幻(ゆめまぼろし)

掲載日:2026/08/08

町の外れに、百年以上営業している写真館があった。

看板には、かすれた金色の文字で「月影写真館」と書かれている。


主人の冬一郎は七十八歳だった。

妻の澄江を亡くして、今年で十二年になる。


写真館の壁には、何千人もの人生が並んでいた。

七五三の子供。

卒業式の学生。

結婚したばかりの夫婦。

赤ん坊を抱いた母親。

少し緊張した遺影写真。


冬一郎は、写真とは不思議なものだと思っていた。

人間は変わる。

町も変わる。

建物も壊れる。

けれど写真の中では、誰も歳を取らない。


澄江もそうだった。


店の奥、帳場の上に一枚だけ、若い頃の彼女の写真が飾ってある。

二十二歳の澄江は、今も二十二歳だった。


「ずるいな」

冬一郎は、ときどき写真に向かって言った。


「俺ばっかり、こんな爺さんになって」

もちろん返事はない。

けれど、笑っているようには見えた。


ある夏の日、一人の少女が写真館を訪れた。

高校生くらいだろう。


「写真を撮ってもらえますか」

「証明写真?」

「いえ。普通の写真です」


少女は少し考えてから言った。

「できれば、ずっと残るやつ」


冬一郎は笑った。

「写真は、ちゃんと保管すれば長く残るよ」

「百年くらい?」

「まあ、それくらいなら」


少女は窓の外を見た。

「千年は?」


冬一郎は笑うのをやめた。

「千年か」

「無理ですか」

「無理だろうなあ」


少女は少し残念そうな顔をした。


冬一郎はカメラを用意しながら尋ねた。

「どうして千年残したいんだい」


少女は椅子に座った。

「私がいたってことを、誰かに知ってほしいから」

「家族じゃ駄目なのかい」

「家族だって、いつかいなくなるでしょう」


それはそうだ。

冬一郎は答えられなかった。


少女は続けた。

「百年後には、私のこと知ってる人なんて誰もいない。千年後なんて、名前すら残ってない」

「有名人になれば残るかもしれんよ」

「有名人になりたいわけじゃないんです」

少女は笑った。


少し寂しそうな笑い方だった。

「ただ、消えるのが怖いんです」


冬一郎はファインダーをのぞいた。

その顔が、若い頃の自分によく似ている気がした。

冬一郎も若い頃、同じことを考えていた。

自分が死んでも、この店だけは残したい。

写真を残したい。

名前を残したい。

だから店を守った。

父から継いだ古い写真館を建て替えず、看板も替えなかった。


けれど、気がつけば町にはマンションが増え、古い商店は消え、写真はスマートフォンで撮るものになった。

自分の息子は東京で暮らしていて、この店を継ぐつもりはない。

月影写真館も、冬一郎の代で終わる。

百年以上続いたものでも、終わるときは終わるのだ。


「撮るよ」

冬一郎が言った。

少女は背筋を伸ばした。


「笑ったほうがいいですか」

「好きな顔でいい」


少女は少し迷った。

そして、ほんの少しだけ笑った。

シャッターを切った。


その瞬間、夏の日差しが窓から差し込んだ。

白い光が、少女の髪を照らした。

冬一郎は、なぜだか胸が痛くなった。


数日後、少女は写真を受け取りに来た。

出来上がった写真をしばらく眺めていた。

「これ、千年は残らないんですよね」

「たぶんな」

「じゃあ、何年くらいですか」


冬一郎は少し考えた。

「分からん」


少女が顔を上げた。


「写真って、不思議なもんでね」

冬一郎は言った。

「紙が残ってても、誰が写ってるか分からなくなることがある。名前が書いてあっても、その名前を知ってる人がいなくなる」

「じゃあ、意味ないですね」

「そうかもしれん」


冬一郎は笑った。

「でもな」


少女は黙って待った。

「残らないから、撮るんじゃないかな」


少女は首をかしげた。

冬一郎自身も、自分が何を言っているのか、よく分からなかった。


ただ、その言葉だけは妙にしっくりきた。


少女が帰ったあと、冬一郎は店の奥から古い箱を出した。

澄江の写真がたくさん入っていた。

旅行先で笑っている澄江。

料理をしている澄江。

子供を抱いている澄江。

病院の庭で、痩せた身体を椅子に預けている澄江。


最後の写真は、亡くなる三日前だった。

澄江は写真が嫌いになっていた。

「こんなお婆ちゃん、残したってしょうがないでしょう」

そう言った。


冬一郎は、それでも撮った。

今見ると、やはり撮っておいてよかったと思う。

若い澄江だけではない。

皺だらけの澄江も、澄江だった。

冬一郎は店の表に出た。


夕方だった。


向かいにあった駄菓子屋は、もうない。

昔、子供たちが走り回っていた路地には、車が並んでいる。

空だけが昔と同じような色をしていた。


冬一郎は思った。

永遠なんて、本当はないのだろう。

人も。

町も。

写真も。


思い出さえ、いつか消える。

何百年、何千年と残るものがあったとしても、それだっていつか終わる。

永遠とは、きっと夢幻なのだ。


それでも翌朝、冬一郎はいつもの時間に店を開けた。

看板を出し、窓を拭き、カメラの埃を払った。


昼過ぎ、若い夫婦が赤ん坊を抱いて入ってきた。

「家族写真をお願いできますか」

「もちろん」


冬一郎は椅子を並べた。

母親が赤ん坊を抱き、父親がその横に座った。

赤ん坊は泣いた。


三人で笑った。

冬一郎も笑った。

「じゃあ、撮りますよ」


ファインダーの中に、三人の一瞬があった。

この子も歳を取る。

両親も歳を取る。

この写真館も、いつかなくなる。

この写真も、いつか誰にも見られなくなるかもしれない。


それでも。

冬一郎は静かにシャッターを切った。


小さな音がした。


それは永遠には届かない。

けれど確かに、この瞬間には届いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。