ⅱ.灯花
使用人としての日々は、思っていたよりも忙しく、賑やかだった。
朝は早い。屋敷の掃除、食事の準備、庭の手入れ。
最初の数日は慣れず、失敗ばかりだった。
「ソフィ、そこはもっと丁寧に拭くのよ」
「花は根を傷つけないようにね」
他の使用人たちは厳しかったが、同時に優しくもあった。分からないことを尋ねれば、嫌な顔一つせず教えてくれる。
気づけば私は、少しずつこの屋敷に馴染んでいた。
……ただ一人を除いて。
「ソフィ、そちらはもう終わりまして?」
神出鬼没。
背後から聞こえる声に振り返る。
「お嬢様……まだ少しかかります」
「遅いですわね。では、私が手伝って差し上げます」
「い、いえ結構です」
「遠慮なさらずに」
そう言って、お嬢様は花壇に手を伸ばし――
「《氷花よ、舞え》」
「お嬢様!?」
ふわり、と小さな氷の花びらが舞い上がる。
花壇の上に降り積もり、きらきらと輝いた。
「……あら?」
「……驚かさないでください」
「少し飾りつけをしようと思っただけですわ」
満足げに頷くお嬢様に、思わずため息が漏れる。
どうやらこの方は、じっとしていられない性分らしい。
そんな日々が続いた。
「ん?」
ある日、私はお嬢様のドレスのほつれを見つけた。
目立たない場所ではあったが、そのままにしておくのは気が引けた。
針と糸を取り出し、丁寧に縫い直していく。毎日洋服を仕立てていた母から見て盗んだ、私の特技だ。
布の質は上等で、少し手を入れるだけでも見違えるように整った。
「……それ、あなたがやったの?」
背後から声がして、振り返る。お嬢様は目を大きく見開き、戸惑っていた。
「お嬢様。勝手に手を入れてしまいましたが……問題ございましたでしょうか」
「いいえ、とても綺麗ですわね!」
お嬢様はドレスの裾を軽く持ち上げ、縫い目を眺める。
「ソフィは手先がとても器用ですのね!」
「いえ、その……」
こんなふうに面と向かって褒められることには、慣れていない。
胸の奥が、少しだけ騒がしくなる。
「ありがとうですわ、ソフィ!」
そう言って、くるりとスカートを翻す。
その動きは軽やかで、どこか楽しげだった。
――その日の夕方。
「お父様!」
廊下の向こうから、弾むような声が聞こえてくる。
「これ、ソフィが直してくれたのですわ」
「ほう……」
当主様はドレスに目を落とし、ゆっくりと頷いた。
「確かに、見事なものですね。目立たぬよう、丁寧に仕上げてある」
「でしょう?」
お嬢様は、どこか誇らしげに胸を張る。
「わたくしの使用人、なかなか優秀ですのよ」
まるで自分のことのように言うその声に、思わず足が止まった。
「それは頼もしい。今後も任せられそうですね」
「ええ、もちろんですわ」
そのやり取りを少し離れた場所で聞きながら、私は小さく息を吐いた。
少しだけ、嬉しかった。
それがどういう感情なのか、考えないようにした。
「ソフィ、少しよろしいかしら」
ある日の午後。お嬢様は、どこか悪戯を企んでいるような顔で私を呼び止めた。
「はい、お嬢様」
「今からお父様に、少しだけ驚いていただこうと思いますの」
「……あまり良い予感がしませんが」
「大丈夫ですわ。ほんの少しですもの」
その『ほんの少し』が信用ならない。
廊下の角から、当主様の書斎を覗き込む。
中では当主様が書類に目を通していた。
「ここで、こうですわ」
お嬢様が小さく詠唱する。
「|《氷花よ、結べ》」
――次の瞬間。
書斎の扉の取手に、見えないほど細い氷の蔓つるが絡みつく。
「……?」
当主様が扉に手をかける。
開かない。数度引くも、開かない。
「……これは、困りましたね」
静かに呟く当主様の声。
「ぷぷっ!」
その様子を見て、お嬢様は肩を震わせて笑っている。
「さあ、参りましょ!」
「えっ、ちょっ……」
お嬢様は私の手を引き、一緒に駆け出した。
そのまま中庭へと連れて行かれた。
花壇の裏、お嬢様が隠れるために掘っていた穴に、二人で身を潜める。
土の匂いと、ひんやりとした空気。
華奢な身体なら、ぎりぎり収まるほどの狭さだった。
「見つかったらどうするんですか!」
「ふふっ、その時はその時ですわ」
全く答えになっていない。
しかし、
「……ふふ」
楽しそうに笑うお嬢様の顔を見ていると、どうでもよくなってしまう。
「ソフィも、なかなか悪い顔をなさいますのね」
「していません」
そう否定しながらも、私の口元は少し緩んでいる。
こんな時間が、嫌いではないと思った。
しばらくして、屋敷の方から当主様の声が聞こえてくる。
「リューカ、どこへ隠れたんですかー? はぁ……またですか」
呆れたようで、どこか穏やかな声だった。
「ほら、やはり怒られますよ」
「いいのですわ。怒られるのも含めて楽しいのですから」
その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。
この人は、本当に楽しそうに生きている。
それが少しだけ、羨ましいと思ってしまった。
「では次は、ソフィの番ですわ」
「……はい?」
「魔術、試してみなさいな」
「無理です」
即答。
「やってみなければ分かりませんわ」
そう言って、お嬢様は楽しそうに私の前に立つ。
「こうして、言葉に力を乗せて唱えるのですわ」
手本を見せるように、小さく詠唱する。
空気がぴんと張り詰め、ほんの一瞬冷たい気配が走る。
「さあ」
促されて、私は仕方なく手を前に出した。
「……《氷花》」
……何も起きない。
「……あら?」
お嬢様が首を傾げる。
「もう一度ですわ」
「……《氷花》」
やはり何も起きない。
沈黙。
「センスの欠片もないですわね」
「はい、自覚しております」
即座に返すと、お嬢様はくすりと笑った。
「でも、その代わりに縫い物が得意なのでしょう?」
「ええ……まあ」
「では、それで十分ですわ」
そう言って、当たり前のように頷く。
「ソフィは、ソフィのままでいいのですわよ」
その言葉が、胸の奥に静かに残った。
…私は、私のままでいいんだ。
「ソフィ、まだですの?」
「お嬢様は先にお召し上がりください」
「嫌ですわ。一緒に食べますもの」
「いえ、それは……」
「では、これを」
そう言って差し出されたのは、皿に山盛りの料理だった。
「……多すぎでは?」
「問題ありませんわ。私はよく食べますので」
実際、お嬢様は驚くほどよく食べた。
いったい、その細い体のどこに入るのだろうか。
「美味しいですわね」
そう言って笑う姿は、幼い少女のように無邪気で、可愛らしいと思った。
つられて、私も少しだけ口元が緩んだ。
食事を終える頃には、外はすっかり夜になっていた。
「ソフィ、少しよろしいかしら」
食後、お嬢様はそう言って席を立つ。
「夜の庭を、お見せしたいのです」
中庭に出ると、私はお嬢様と並んで夜空を見上げていた。
「昼も綺麗ですが、夜はまた違いますわ」
月の光に照らされた花々は、昼とは違う顔を見せていた。
「静かで落ち着きますわね」
お嬢様はそう言って、目を細める。
「……私も、嫌いではありません」
そう答えると、お嬢様は少し嬉しそうに笑った。
けれど、その笑顔にはいつもの明るさはなく、どこか遠くを見ているようだった。
気づけばその横顔から目が離せなかった。
そして、その日は屋敷にとって特別な夜だった。
庭園の中央に焚き火が灯され、使用人たちが静かに集まる。
当主様も、お嬢様も、皆が揃っていた。
「本日は、亡き妻の命日です」
当主様の声が、静かに響く。
「お父様の故郷に伝わる風習なのですわ」
落ち着いた話し方で、お嬢様は言う。
「故郷のですか」
思わず、そう呟く。
儀式のような静けさと、整った形式だ。
「ええ。この日だけは、こうして皆でお母様を偲ぶのですわ」
皆が、焚き火を囲うように手を繋ぐ。
火の揺らめきの中で、聖歌が歌われる。
穏やかで、どこか寂しげな、死者を弔う旋律だった。
私はただ、その光景を見つめていた。
やがて式が終わり、人々が去っていく。
残ったのは私と、お嬢様だけだった。
「わたくし…お母様のこと、覚えていませんの」
ぽつりと、お嬢様が呟いた。
「えっ?」
「小さい頃に亡くなったので」
しばし黙り込む。こういう時、どう返せばいいのだろう。
口を開きかけて、やめる。
言葉が、見つからない。
焚き火の残り火が、静かに揺れている。
「でも、こうして思い出す時間は嫌いではありませんわ」
焚火の炎を見つめる横顔は、どこか寂しげだった。
気づけば、手が伸びかけていた。
けれど、触れていい理由が、どこにもなかった。
私は、そっと手を引っ込める。
何も言えないまま、ただ見ていることしかできなかった。
「ソフィは、どうしてここへ来たのですの?」
そう問われて、少しだけ迷った。
けれど、この人になら話してもいいと思った。
「私には、母しかいませんでした」
夜の庭園で、私はゆっくりと語り始めた。
自分の過去を。そして、これからのことも。




