ⅰ. 蕾花
全三話完結の短いお話です。
花屋敷でのゆっくりとした日常と、少女たちの関係を描いた物語です。
私はこの花屋敷を去ることに決めました。
花屋敷で過ごした一年は短くも濃密で、私の人生を大きく変えてくれました。
一日一日の出来事は、いつまでも胸の中に残り、決して忘れることはないでしょう。
またいつかお会いできたなら、その時はどうかお叱りください。
大変お世話になりました。
——ソフィ・ダリアルーノ
そう書き記した手紙と、屋敷で支給されたエプロンドレスをお嬢様の書斎に置いた。
その隣に、小さな手縫いの人形をそっと添える。
私を模して作ったものだ。
…ほんの少しだけ、指先が離れなかった。
けれど私は、それ以上何も考えないようにして、静かに手を離した。
そして、私は中庭へ向かった。
日中の賑わいが嘘のように、屋敷は静まり返っている。
私は今からこの花屋敷を抜け出す。
玄関から出れば、人の出入りを当主に知らせる魔法に感知されてしまう。だから中庭の隠し穴を使う。
息を殺し、忍ぶように中庭へ出た。
雲一つない空。月の光に照らされた庭園。
夜の花々も、月の光を受けて静かに咲いている。
「この屋敷で見る景色は、最後まで綺麗なのね」
誰に言うでもなく、色鮮やかな花壇に呟いた。
花壇を少し横にずらすと、穴が現れる。時間をかけて丁寧に掘った抜け道だ。
元はお嬢様が使用人から隠れるために掘った穴だったが、私が今日のために少しずつ掘り進めていたのだ。
抜け穴を通り、庭園の塀を越えて、屋敷の外へ出た。
これから山道を下り、街へ向かう。
そう決めて屋敷を後にした。
最後に屋敷を振り返ると、名残惜しさからか、視界が滲んだ。
——最後にお嬢様に会いたかった。
けれど、会ってしまえば、きっと私はここを離れられなくなる。
その気持ちを振り払うように、私は土のついた袖で雫を拭い、歩き出す。
木々に囲まれた薄暗い山道を下る。
使用人として仕える初日に登ってきた道だ。
先の暗闇の中に、あの時の自分の影を見た気がした。
まだ使用人として仕える覚悟もなく、右も左も分からなかった自分の影。
気づけば私は、屋敷での思い出を振り返っていた。
*
今日から、使用人として仕えることになった。
唯一の家族である母が病で倒れて入院し、営んでいた洋服屋は閉店した。
私はその手伝いをしていたのだが、さすがに生活が苦しくなったからだ。
昔から世話好きで、掃除や裁縫などもそつなくこなせることから、母が使用人の求人の紙を渡してきた。
紙に目を通す限り、仕事の内容は私にとって比較的楽なものだった。
それに、報酬も高かった。
屋敷に住み込んで朝から晩まで働く。
生活するには十分だ。
十六歳という年齢で使用人として働く人などそうそういないだろうが、他に当てもなさそうなので応募した。
勤め先は、ローゼン家という由緒ある富豪の家らしい。
当主様と一人娘、そして数人の使用人が暮らしているという。
しかし、あまりいい噂は聞かない。
なんでも当主様は妹の遺産を継ぎ、大金持ちへと成り上がった男らしい。
女手一つで育てられ、食べる飯にも困っていた私からすれば、あまりいい印象は持てなかった。
こんな山奥に屋敷を建てるなんて不思議な人だ。
求人紙によれば、生活に必要な物は屋敷で渡されるという。
なので荷物も少なく、険しい山道を歩くのは苦ではなかった。
草木を掻き分けると、開けた場所に屋敷が見えた。
山奥に似合わない、豪奢な洋館だった。
玄関まで着くと、当主であろう人が迎えてくれた。
「は、初めまして。きょ、今日からこのお屋敷に勤めさせていただく、ソフィ・ダリアルーノです。その……至らない点も多いかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いいたします……」
人と話すのは苦手だ。
使用人としての立ち振る舞いも分からず、不慣れな態度を丸出しにしてしまった。
「初めまして。ローゼン家当主のガベラ・ローゼンと申します。お待ちしておりました」
整った顔立ちをした男。優雅な立ち振る舞い。皺一つない服が、まるで貴族のような風格を纏っていた。
「険しい山道を登って来たわけですから、お疲れでしょう。屋敷を案内する前に、少しお茶でも。既に他の使用人に準備をさせていますので」
私が想像していた人物は、もっと人相が悪かったのだが、そんなことはなさそうだ。
「はい」
そう返事をして、私は洋館に足を踏み入れた。
当主の後ろ姿を追い、横幅の長い廊下を歩く。
廊下の端には一定の間隔で奇妙な彫刻が飾られている。
壁に飾られた絵画の女性が、歓迎するようにこちらを見ている。
「素晴らしい芸術品の数々でしょう。貴女にもこの絵画の良さが分かるでしょうか?」
…試されているのだろうか。
使用人としての技量を、測られているような気がした。
金持ちの生きる世界とは真逆の道を歩んできた私に、芸術など全く理解できない。
しかし、使用人としての仕事にはまず形から入るべきだと思い、ここは頷いておこう。
「ええ、この絵画は色使いから構図まで計算されて描かれていますね。それに、この女性は赤子を抱いているのに婚約指輪をしていません。つまり、拾った赤子を育てているのでしょう」
こういう時にそれらしい言葉を並べるのは得意だ。だが、少々早口で語ってしまった。
「ははっ。芸術を見慣れていない方にしては、随分と鋭い視点ですね。絵画を説明するには十分な言葉です」
「えっ…」
見透かされたような気がして、言葉に詰まる。
「さて、中庭に着きました」
そんな私のことなど気にも留めず、当主様は足を止めた。
当主様の背丈よりも大きな扉を開けると、陽の光が差し込んできた。
眩しい光に目が慣れると、色鮮やかな花園が姿を現した。
この辺では見られない花から、見たことのない花までが並んでいる。それらを際立たせる緑も美しかった。
「では、こちらへ」
パラソルが日陰を作る白いガーデンチェアに案内され、テーブルに置かれたマグカップに紅茶が注がれる。
「とても空気が美味しい所でしょう。屋敷のものは皆、この中庭を気に入っています」
「そうですね。私もとても居心地が良いと感じています」
まるで自分がどこか異国の姫であるかのような、そんな錯覚さえ覚える場所だった。
「十六歳という若さで使用人として働くなんて、立派ですね。私の娘にも見習ってほしいものです」
当主様は、爽やかな笑みを浮かべた。
先の廊下での会話で、少し距離が縮まったのだろうか。
当主様は滑らかな口調のまま、どこか親しみを含んだ話し方になっていた。
一方で、私はいまだに緊張している。
「と、とんでもございません。他に当てもなかったもので…。
ところで、娘さんはどちらに?」
甘くまろやかな紅茶を一口飲む。
マグカップを置いた、その瞬間だった。
「《氷花よ、散れ》」
ガシャン、と噴水の方から大きな音がした。
「——!」
思わず顔を上げる。
対面して椅子に腰を掛けていた当主様は、苦笑いをした。
「うちの娘は元気でね。きっとまた魔術の練習をして、何か壊してしまったのでしょう」
「さ、左様でございますか」
想定外だ。
一人娘がいることは知っていたが、まさか所構わず魔術を放つおてんば娘だとは。
それに、当主様は驚くどころか見慣れているような態度だ。
つまり、きっといつものことなのだろう。
「言いづらくなってしまったのですが、貴女には主にこの中庭の手入れと娘の世話を任せたいのですが…。 よろしいでしょうか」
「え、はい…」
よりによって中庭か、と落ち込む。
その娘の相手まですることになるのか。
面倒事に巻き込まれる予感しかしない。
しかし、金のためだ。
たとえこの先身を削ることになっても耐えよう。
そう思っていると、噴水の向こう側、壊れた彫刻の影から、ひょいと一人の少女が顔を出した。
「……あら?」
少女は首を傾げると、こちらへ駆け寄ってくる。
足取りは軽く、まるで何事もなかったかのようだった。
私よりも少し年下だろうか。その歳で魔術を使うとは末恐ろしい子供である。
白いレースが静かに縁取られた、深い紺色のワンピースを着た少女。
長い黒髪が陽の光を受けて揺れ、赤い瞳がこちらを真っ直ぐに捉えていた。
その姿は、まるで人形のように整っていた。
──綺麗だと思った。
「あなたが新しい方ですの?」
気づけば、目の前に立っていた。
……距離が近い。
「……ソフィ・ダリアルーノと申します」
そう答えると、少女はふっと微笑んだ。
「リューカ・ローゼンですの。よろしくお願いいたしますわ」
スカートの裾をつまみ、どこか遊ぶように軽くお辞儀をする。
少女は、そのまま続けた。
「なんだか、これから楽しくなりそうですわね」
その笑顔はどこか悪戯いたずらっぽく、愉しげに揺れていた。
「うまくやっていけそうでしょうか?」
当主様は、それを見守るように、穏やかに笑っていた。
「……頑張ります」
こうして、私の使用人生活が始まった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
うまく言葉にできているか分かりませんが、この物語の空気を少しでも感じてもらえていたら嬉しいです。




