第五章 楽園の独唱曲(アリア)
世界は、あまりにも静かだった。
海上に浮かぶ一つの人工島。
そこは、今や海に浮かぶ巨大な緑の墓標となっていた。
鉄とコンクリートの骸を逞しい蔦が締め上げ、静かな風がその葉を揺らしている。
その最深部、降り積もった塵に埋もれたコールドスリープ・ポッドが、長い溜息をつくように微かな排気音を漏らした。
ハッチがゆっくりと滑り落ちる。
そこから這い出した男は、ただ呆然と、重力に逆らえない自らの手足を見つめていた。
数百年という空白を経て、強引に「生」へと引き戻された意識は、まだ深い霧の中にあった。
「……おはようございます。本日、XXXX年12月10日。生存者の確認、0名......訂正、1名」
天井の隅から響く、不自然に明るい合成音声。
現れたのは、錆びついた観測用ドローンだった。
ボディには、かすれた文字で「Polaris」と書かれていた。
ギギギと異音を立てて浮遊し、レンズの絞りをカシャカシャと動かして男を凝視する。
「ここは一体……?」
男はあたりを見回す。
似たようなスリープポッドが何台も並んでいたが、どれも沈黙を保っていた。
「おはようございます。『最後の人類』さん。」
男の掠れた声に、ポラリスは壁面の腐食したモニターへ、砂嵐混じりのログデータを投影した。
『……最終ログ。……再起動設定:無効。』
[二度と起こすな。]
「それが、あなたがこのポッドに残した唯一の言葉です。他の同型機はすべて沈黙しました。ですが、この一台だけが偶然の故障か、あるいは統計学的な奇跡によって機能を維持してしまった。……あなたは、死に損なったのですよ」
男には記憶がなかった。
自分が誰で、なぜこれほどまでの拒絶を未来へ叩きつけたのか。
ただ、死に損なったという重い事実だけが、冷たく肺に残った。
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「さて、最後の人類さん。寝起きで喉が渇いているでしょう。こちらへ。最下層なら、まだマシな雨水が飲めるかもしれません」
ポラリスは勝手な調子で浮遊し、暗い通路の先を照らし始めた。
男は、他にすることもないまま、そのふらふらと揺れる赤いセンサーの光を追って、重い足を引きずり出した。
色とりどりの部品が錆びついたまま棚に残る廃墟。
天を突いていたはずの摩天楼は、今や半ば崩れ落ちていた。
壁が剥がれ落ちた広間には、朽ちたシャンデリアが床に転がっている。
割れたグラスが散らばる酒場は、静寂だけが残っていた。
かつて人々が生きていた場所が、今は緑と沈黙に飲み込まれていた。
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ポラリスに導かれ、辿り着いたのは崩落した巨大な温室の跡だった。
ひん曲がった鉄骨の隙間から、野性味を帯びた草花が溢れ出し、枯れ木の下から、若木が目をのぞかせている。
「ここが、この島で一番景色のいい場所です。……おっと」
ポラリスが不規則な風に煽られ、低くバランスを崩した。
ドローンが茂みに突っ込み、カシャカシャと音を立てる。
男はわずかに眉をひそめ、それを助けようと、あるいは単に邪魔な枝を払おうと手を伸ばした。
指先に、カサリと乾いた布の感触が触れた。
「……?」
泥と埃にまみれ、色褪せた一本の紺色のリボン。
それはただのゴミのように見える。
だが男は無意識にそのリボンを掴み、枝から引き剥がした。
数百年分の汚れが、指の腹でザラリと鳴る。
男は、その汚れた布をゆっくりと掌の上で広げた。
こびりついた泥を、指でそっと払う。
すると——掌の上で、ホログラムの文字がぼんやりと浮かび上がった。
一文字、また一文字。
それが、網膜を通じて脳の奥へと送り込まれる。
『私はあの少女を見殺した、大罪人だ。』
ほかの人類に置いて行かれた、ただ一人の生き残り。
『——しかし、その命ゆえに、私は生きる』
男の頬を、何かが伝った。
自分はまだ、ここにいる。
やがて男は、紺色のリボンを自分の手首にゆっくりと巻きつけた。
二度と解けないほど、固く。
「……ポラリス。行くぞ」
「了解いたしました。……どちらへ?」
「......どこまでも、さ」
男は振り返ることなく、緑に飲み込まれた街へと足を踏み出した。
手首に巻いた紺色のリボンが、風を受けて力強くはためいている。
空はどこまでも青く、風は残酷なほどに心地よい。




