第三章 楽園の円舞曲(ワルツ)
夜会の幕が上がる。
広間を満たす優雅な弦楽と、水晶のシャンデリアが零す光。
人々は互いの手を取り、笑い、踊っていた。
壮年の男が、広間の端でグラスを傾けていた。
つややかな黒髪に混じった白髪が、シャンデリアの光を反射する。
胸元に一つだけ光る勲章が、その男の立場を静かに物語っていた。
「これはこれは。今夜もご盛況のようで」
声をかけてきたのは、同じくらいの年頃の男だった。
細い金縁の眼鏡をかけ、仕立ての良いスーツに身を包み、薄い笑みを口元に張り付けたまま近づいてくる。
「おかげさまで。——あなたの方こそ、最近は随分と忙しそうですね」
「忙しい? とんでもない。穏やかな日々ですよ」
二人は乾杯した。
グラスの触れ合う音が、音楽にまぎれて消える。
「ご令嬢はお元気ですか?」
「ええ。——ほら、あそこで踊っているでしょう?」
広間の中央で、華やかなドレスをまとった女性が、若い男と踊っていた。
「ところで、ご子息はお変わりありませんか?」
「ええ、おかげさまで。——先日も、お嬢様のことをよく話していましてね」
眼鏡の男は、軽く眼鏡を押し上げながら微笑んだ。
「それは何より。——両家にとって、悪い話ではありませんからね」
「まったく」
二人は再び、グラスを傾けた。
「侵入者だ!」
怒号が広間に響き渡った。
音楽が途切れ、人々の動きが止まる。
場違いな、擦り切れた服の男が、複数の警備に取り押さえられていた。
「また......ですか」
周囲からは、小さなため息や、迷惑そうな囁きが漏れた。
ドレスの裾を引き寄せる女性の姿もある。
白髪の男が、新しいグラスを受け取りながら言った。
「下層の者たちが何をしたところで、中央統制のAIは倒せない......そうでしょう?」
「はは、たしかにそうですな。——AIに任せておけば、何も心配はいらない」
二人は踊りの輪へと戻っていった。
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「まったく、これだから下層の奴は......!」
警備が男の腕を掴んだ。
「放せ......!放すんだ......!」
——臭い、近づけないで。
——警備はなにをしているんだ、まったく。
——せっかくの夜会が台無しですわ。
——下層の者がここへ来るなんて、非常識にもほどがある。
冷たい視線と罵声が、四方から降り注ぐ。
「さっさと歩け」
警備が男の腕を締め上げながら、低く吐き捨てた。
「次に上層へ来てみろ。今度はただでは済まさんぞ」
男はよろめきながら歩かされていく。
冷たい夜気が、男の頬を打った。
ネオンの光が、濡れた路面に滲んでいる。
「くそっ......楽園だと?どこが楽園だ」
煌びやかなショーウィンドウ、磨き抜かれた石畳、柔らかな街灯の光。
どこを見ても、眩しいほど整えられた世界が広がっていた。
だがその光の一粒も、男には届かなかった。
「......おい、見ろよ。あれ」
通りを歩いていた一人の男が、連れの腕を軽く叩いた。
「下層の奴じゃないか。みっともない」
連れは一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。
「ほっとけよ。AIが処理するだろう」
通りを走る車からも、立ち並ぶビルからも、男を指さす者、あざけ笑う者、物を見るような目で眺める者——無数の視線が降り注いだ。
男の視界に、赤と青の鮮やかな光が映り込んだ。
顔を上げると、無機質な光学レンズが、男をじっと捉えていた。
胸部に刻まれた「POLICE」の文字が、ネオンの光を反射している。
「警告。登録外ノ人物ヲ確認。身分証ヲ提示シテクダサイ」
無機質な声。
「......ちっ」
男は踵を返し、走り出した。
背後から鳴り響くサイレンの音と、路面を打ち付ける金属の音。
二つの音が、じりじりと近づいてくる。
「こっちだ!」
不意に、路地の暗がりから伸びた手が、男を引きずり込んだ。
男を追っていたロボットが、路地の前で立ち止まった。
光学レンズが、暗がりをしばらく照らす。
やがて、静かに踵を返した。




