第二章 楽園の調律(チューニング)
ネオ・エデンの上層、天を突く摩天楼の最上階。
ここは、島の上層でもごく限られた者しか足を踏み入れることができない。
白く、無機質なオフィス。
部屋の全周を覆う強化ガラスの向こうには、青々とした海が広がっていた。
喧騒も、鉄錆の臭いも、この高度までは届かない。
椅子に深く腰掛けた白衣の男は、空間に浮かび上がる幾何学的なホログラムを、手袋をはめた指先で弄んでいた。
その瞳は、眼下の街並みにも、目の前の海にも、等しく興味を抱いていないように見える。
その時、扉が荒々しくノックされた。
「......どうぞ」
現れた男は、その清潔な空間に似つかわしくない、使い古された軍用コートを羽織っていた。
「......おや、予約のお客様ですね。我がクリニックへようこそ」
白衣の医者は、その客を値踏みするように——いや、検品するように眺めた。
「今日は一体、どんな感覚を調律してほしいのですか?」
医者の視線が、客の瞳の奥、激しく震える虹彩へと注がれる。
客は、絞り出すような、ひどく掠れた声で答えた。
「俺は......別の島から来た。ある日、ここの噂を聞いて、超大陸と海を渡って、わざわざやってきたんだ」
客は自らのこめかみを、指が白くなるほど強く押さえつけた。
まるであふれ出す何かを、物理的に押し留めようとするかのように。
「俺は、かつて戦争を首謀したことがあった。それを......ずっと悔やんでいてな。目を閉じても、耳を塞いでも——あの時の叫び声が、消えないんだ」
客は医者の眼を、懇願するように見上げた。
「とにかくこの叫びを、消してくれ。一秒でもいい、静かになりたいんだ」
医者はディスプレイを指先でスワイプし、客の脳波をスキャンした。
空中に投影されたパルス状のグラフが、不規則に、狂ったように跳ね上がる。
「......死者の声、というやつですか」
医者はデスクの引き出しから、冷たく光る細い銀色のデバイスを取り出した。
それは——人の魂に触れるための器具だった。
「方法は、一つだけあります。その叫び声の周波数を特定し、脳の聴覚野から物理的に遮断する。明日からあなたは、静寂の中で穏やかな日常を楽しめる。......ただし、その叫びに関連する『後悔』という感情も、少しずつ摩耗して消えていくことになります」
客は、血の気の失せた唇を震わせ、吐き捨てるように言った。
「俺は......二度と、あの声を聞きたくない。どんな形であれ、御免だ」
「......決断が早い」
医者は表情ひとつ変えず、銀色のデバイスを起動させた。
青白い光が客の顔を照らし出す。
投影された脳内マップは、警告を告げる赤色で激しく明滅していた。
「承知いたしました。では、処置を開始します。あの日の地獄を、二度と再現できないよう——脳のシナプスを焼き切り、再構成しましょう」
医者は客のこめかみに、冷たいデバイスの端子を当てた。
「ですが、よろしいのですか? この調律が終われば、あなたは『自分が何に苦しんでいたのか』さえ、霧の向こう側の出来事のように感じることになります」
視線だけを、客へと向けた。
「悔やむべき対象を失ったとき、人はしばしば——自分が何者であるかさえ、見失うものですが......」
——男は何も答えない。
医者は指先でスイッチを入れた。
「では、目を閉じて。......はい、完了です」
一瞬、部屋の照明がわずかに暗くなったような錯覚が走った。
それまで客の耳の奥で、暴風のように吹き荒れ、神経を削り続けていたはずの叫びが——電源を切ったラジオのように、ふっと消え去った。
「......いかがですか? あんなに騒がしかった世界が、驚くほど静かになったでしょう」
デバイスが置かれると、客は呆然とした様子で辺りを見回す。
自分の手を眺め、それからゆっくりと呟いた。
「なんだか、不思議な感じだ。記憶はある......確かにあの戦場にいたことも、多くの命令を下したことも覚えている。なのに——ずっと耳に刺さっていた棘が、抜けたような気分だ」
客は深く、息を吸った。
「......いい心持ちだな。これで、祖国へ胸を張って帰ることができる」
「......胸を張って、祖国へ。そうですか。それは重畳だ」
医者は、わずかに口角を上げて微笑んで見せた。
だが、その微笑みは磨き抜かれたメスのように冷たかった。
「代金はあなたの口座から引き落としておきます。——良い一日を」
客は清々しい足取りで、オフィスのドアへと向かっていく。
医者はその背中を見送ることもなく、再び空中ディスプレイの操作に戻った。
窓の外では、青い海が輝いていた。




