第一章 楽園の鎮魂歌(レクイエム)
風が吹くたびに、古いガラス戸ががたがたと鳴る。
スラムの奥まった路地に、ひっそりと息をひそめた店があった。
ラジオから流れる擦り切れた音楽と、無機質なアナウンサーの声。
カウンターの奥では、店主らしき老人がなにやら機械部品をいじっている。
ガラガラガラ......
不機嫌な声を上げて戸が開き、砂にまみれたコートの男が、嵐を引き連れるように入ってきた。
「こんな日に来るとは、珍しいな。......上層の観光客か?」
老人は手を止めずに男を一瞥した。
「......いや、違うか。その様子、ここの者でもなさそうだ」
入ってきた男が帽子を脱ぐと、砂まみれの顔があらわになった。
若い男である。
だがその瞳には光がなく、ただ明日を拒むような厭世の色だけが沈んでいた。
「......少し、ここにいさせてくれないか。砂嵐がひどい」
男はコートをはたき、短く息をついた。
「構わないさ。合成コーヒーくらいなら出せる」
老人は手慣れた様子で古いコーヒーマシンの電源を入れた。
やがて、焦げた木の実に似た香ばしい匂いが、埃臭い空気をゆっくりと塗り替えていく。
「......ほらよ」
男は差し出された無骨なマグカップを両手で包んだ。
力んでいた肩が、すこしずつほどけていく。
男の視線が、棚に並んだ色とりどりの部品の上をさまよった。
「......ここは、どんな店だ」
「記憶のジャンクショップさ」
老人はカウンターの端に腰かけ、慣れた手つきで一枚のチップを取り上げ、指先で転がした。
「一枚一枚に、誰かの人生の欠片が入っている。初恋の甘い痛み、悲しい別れ——まあ、色々だ。上層の金持ち連中は、退屈な毎日に飽き飽きして、こいつを脳にシンクロさせて時間を潰す。他人の人生を娯楽として消費するのが、連中の道楽らしくてな」
老人はつまんでいた青いチップを弾いた。
チィ、と冷たい金属音が鳴る。
しばらく間を置いてから、老人はゆっくりと口を開いた。
「ところで、なぜこんな最果てに来た。その顔は......ただの観光じゃなさそうだ」
「......旅を、していてね。もう、何年も」
男は黒い液体を見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「旅、ね」と老人は繰り返した。
「俺は年を取ってから、もう何十年も外に出ていない。よかったら、外の世界の話をしてくれないか。一つでいい——あんたの一番印象に残っている記憶を」
男はしばし沈黙した。
コーヒーマシンが、年老いた心臓のように低く駆動音を立てる。
——やがて男は、砂嵐が少し凪いだ窓の外を眺めながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「......これはもう、ずいぶんと前の話だ」
遠い地平を見るような目だった。
「若い頃、ひどい吹雪にあって山で遭難したんだ。夜通し歩いて、ようやく灯りが見えたと思ったら......一人の少女とその母親が、吹雪がやむまで俺を匿ってくれた。......なんの見返りもなしに」
男はマグカップを両手で包んだまま、少し黙った。
あの夜の温もりが、まだ手のひらに残っているような顔だった。
「......そいつは、この島じゃなかなか聞けない話だな」
老人はゆっくりと煙草に火をつけた。
「......それで?」
沈黙。
ラジオが音楽番組から報道番組へと切り替わる。
キャスターの当たり障りのない挨拶が終わったころ、ようやく男は重い唇を割った。
「あの日もまだ雪は降り続いていた......だが、それは唐突に起きたんだ」
男の指が、マグカップを強く握りしめた。
「窓の外が白く光って、一瞬、世界から音が消えた。......次の瞬間、とてつもない轟音と爆風が俺を襲った。熱と煙と、銃弾の雨——」
男は静かにつぶやいた。
「......戦争さ」
「黒煙と火柱が空を塞いだ。人々が逃げ惑い、兵士たちが土足で踏み込んできた......少女は俺の手を引いて、森の奥へ駆け込んだ」
「......」
「どれだけ走ったか、わからない。気がつけば、俺たちはうっそうとした木々に囲まれて立っていた」
男の視線が、どこか遠くへ漂った。
「そこで彼女は、俺の手を離した。——『逃げて』と」
男の声が、わずかに掠れた。
「命が惜しくないのか、と俺は言った。だが彼女は——『お母さんを、探さなきゃ』と言って、走り去ってしまった」
しばらく、男は何も言わなかった。
マグカップの中の黒い液体を、ただ見つめていた。
「俺は......追えなかった。軍用車が目の前を横切って、怒号が耳を引き裂いて——気がついたら、ただ走っていた。泥か血か、自分でもわからないものを顔に貼り付けたまま」
男の指が、テーブルの上で微かに震えていた。
「背後で、一発の銃声が聞こえた気がしたんだ......」
それだけ言って、男は口を閉じた。
その先の言葉は——出なかった。
「......すまない、こんな話、聞きたくなかったよな」
店主は黙って、もう一杯のコーヒーを注いだ。
「謝るな。みんな、語りきれないものを抱えてここへ来る」
店主はゆっくりと立ち上がった。
「この下層の最深部に、『庭』と呼ばれる場所がある。......今のあんたなら、そこへ行けば少しは息がしやすくなるかもしれない」
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異臭のするダストシュートの脇を抜け、軋む昇降機が地下へ沈んでいく。
そこには、ホログラムの太陽光が虚しく降り注ぐ、巨大な温室の成れの果てがあった。
枯死した樹木の枝に、色とりどりの電子リボンが結びつけられ、微風に揺れている。
男はそのひとつに触れた。
薄い光の膜に、文字が浮かぶ。
——また会える日まで
別のリボンには
——ごめん、と言えなかった
「誰に届くわけでもない。だがここに残せば、この街のデータの一部として永遠に漂い続ける。あんたがその少女に言えなかった言葉があるなら、入力してみな」
男は、発光する端末の前に立った。
しばらく、指が空中で止まっていた。
やがて彼が打ち込んだのは、
『私はあの少女を見殺した、大罪人だ』
リボンが、血のような鈍い赤色に染まった。
「手厳しいな。だがな——ここにあるのは全部そんな言葉だ」
店主は、枝の奥に下がった一つのリボンをそっと手に取った。
ひときわ古く、色の褪せたリボンだった。
『生きて。それだけで、私の勝ちだから』
誰が残した言葉かは、わからない。
「......守られた相手が自分を責めて生きることを——守った側は、一番嫌がる」
温室の隅でスプリンクラーが水を撒く音がする。
人工の雨が、朽ちた葉の上に静かに落ちていく。
どれだけの時間が経っただろうか。
やがて男は、ゆっくりとコンソールに触れた。
「......書き換えることはできるか」
「ああ。過去を上書きするのも、痛みを抱えたまま別の言葉を付け足すのも——今のあんたの自由だ」
男は、震える指で言葉の末尾に刻んだ。
『私はあの少女を見殺した、大罪人だ。——しかし、その命ゆえに、私は生きる』
その瞬間、真っ赤だった電子リボンは、静かに——夜明け前の空のような、深い紺色へと変わっていった。
「......『その命ゆえに、私は生きる』、か。いい顔になったな、あんた」
店主はポケットから使い古された真鍮のコインを取り出し、男の手のひらに握らせた。
「金としてはもう使えない。ただの、俺なりのお守りだ」
男は、紺碧に染まったリボンを一度だけ振り返った。
そして、出口へと向かっていった。
その足取りは、来た時とは違う。
一歩一歩、泥を噛むように——それでも確かに、前へと向かう歩みである。
店主はその後ろ姿を見送り、静かに店へ引き返した。
「......悪くない記憶だった」
そうつぶやいた後、ラジオの電源を切った。
街の上空では、偽物の太陽が今日も静かに輝いている。




