6:小さな“異常”の伏線
午後のダンジョンは、朝より少し温度が上がる気がする。
人と魔物が動き回った分、空気がよどんでいるのかもしれない。
第二層へ降りる階段を下りながら、俺は膝の様子を確かめるように一段ずつ踏みしめた。
第二層は、第一層よりも少しだけ暗い。
魔石灯の数は変わらないが、壁の色が濃いせいか光を吸い込んでしまう。
通路の幅も、人二人が並んだら窮屈な程度で、圧迫感がある。
いつも通り、通路の端から順に見て回る。
午前中のうちに一度掃除されている場所もあれば、ついさっき新しい傷を刻まれたらしい壁もある。
「ここは、まあ……」
擦り傷程度の血の跡を見つけては、刷毛でこすり、布で拭き取る。
立ち上る魔素は少なめで、喉の奥がほんのり痺れるくらいだ。
そうして、第二層の西側をひと通り終えたところでだった。
「……ん?」
通路の角を曲がった瞬間、鼻の内側がきゅっと縮むような感覚が走った。
血の匂いだ。
だが、さっきまで見ていた冷えた血とは違う。
もっと、生々しくて、焦げ臭い。
歩みを止めて、ゆっくりと前に進む。
通路の床には、血の跡はほとんどない。
かろうじて、靴の裏で薄く伸ばされた線が何本かあるだけだ。
死体も、魔物の残骸も見当たらない。
なのに、匂いだけが、やけに濃い。
「……どこだ」
壁に手をつきながら、周囲の空気を確かめる。
鼻から吸う息が重い。
肺に入った途端、粉を吸い込んだみたいにむせそうになる。
灯りの位置を変えて、壁をじっと見る。
一見ただの石だが――目を凝らすと、そこに細い線が走っているのが分かった。
亀裂のような、傷のような。
石の目とは違う、不自然な線。
その隙間から、ごくごく薄い光が滲んでいた。
青とも白とも言えない、嫌な色の光だ。
「……おいおい」
思わず、誰もいない通路に向かって呟く。
あの色は、見覚えがあった。
中層で無茶をしたとき、魔素が濃くなりすぎた場所にだけ現れた、
あの“やりすぎた後”の色。
壁に耳を近づける。
石の向こうで、何かが細く、軋むような音を立てていた。
魔素が動く音なんて、本来聞こえるはずがない。
けれど俺の肌は、ぞわり、と総毛立っている。
「ここは、気持ち悪いな」
誰かに聞かせるつもりもなく、口から言葉が零れた。
亀裂の周りの空気が、薄く揺らめいている。
熱いのか冷たいのか判然としない流れが、頬を撫で、髪の先を引っ張っていく。
足元を見ると、壁際の石床に、かすかに黒ずんだ跡があった。
血……というより、焼け焦げた何かの痕。
そこに、うっすらと霧が立っていた。
今まで何度も見てきた“端数の魔素”より、さらに細かく、重たい霧。
床から離れようとせず、じっとそこにとどまっている。
俺は刷毛を取り出し、その黒ずんだ部分にそっと触れた。
こすった瞬間、霧がふっと形を変えた。
石の割れ目から染み出す湯気のように、じわじわと立ち上ってくる。
「……いただきます」
いつもの癖で、そう呟いてから息を吸い込む。
喉の奥が、いつもとは比べものにならないほど強く刺された。
冷たい針の束を一気に飲み込んだような感覚。
それが肺を通り抜け、胸の中でぐっと広がる。
膝だけじゃない。
肘、肩、背骨の節々が、じん、と痺れる。
「っ、は……」
思わず息を吐き出した。
吐いた息も、ほんの一瞬、白く見えた気がする。
これは、よくない。
体の奥では、確かに力が増していく感覚がある。
だが、それと同じくらい、嫌な汗が背中にじわりと滲んでいく。
「……ここは、このくらいにしとくか」
これ以上、端数を吸い込めば、膝は軽くなるかもしれない。
その代わり、どこか別のところが壊れそうな予感がした。
亀裂から滲む光は、まだ消えていない。
表面を布で拭いても、石の奥からじわじわと染み出してくる。
俺は腰袋から、小さな板切れを取り出した。
現場用のメモ板だ。油紙を張った表面に、炭筆でさらさらと書き込む。
「第二層西側、通路十七番……壁面、亀裂状発光。血と焦げた匂い、強。魔素の揺らぎ……」
そこで少し考えて、最後の部分を太くなぞった。
「“強”っと」
魔素の揺らぎ・強。
組合の報告書で使う言い回しだ。
年に一度書くかどうかという、あまり見たくない言葉でもある。
メモを取り終え、もう一度周囲を見回す。
通路は静かで、魔物の気配はない。
今、この異常に気づいているのは、おそらく俺だけだ。
「さて……あとは、上に投げるしかないな」
亀裂に最後の一瞥をくれてから、俺は通路を離れた。
ああいう場所には、長居しないに限る。
◇
仕事を終えて組合に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
道具を片づけ、簡単に体を拭いてから、報告書用の机に向かう。
現場メモを見ながら、決められた書式に従って、今日の掃除箇所と遺体の数、拾得物、異常箇所を書き連ねていく。
「第二層西側通路十七番、壁面亀裂状発光。魔素の揺らぎ・強。臭気、血および焦げ……」
炭筆の先が油紙を滑る音だけが、小さな部屋に響いた。
書き終えた報告書の束をまとめ、紐で括る。
それを抱えて、組合長室の前まで行くと、扉は半分だけ開いていた。
「失礼します。今日の分です」
「ああ、そこに置いとけ」
中からくぐもった声が返ってくる。
俺は机の端に報告書の束を置き、そのまま退がろうとした。
が、ふと視線が机の上の紙束に吸い寄せられた。
組合長は、ちょうど別の報告書に目を通していたところだった。
片目で文字を追い、指先で何度か同じ行をなぞる。
皺だらけの指が、ある一文のところで止まった。
「……第二層西側、揺らぎ・強……?」
低く呟く声。
次の瞬間、組合長の眉間に、ぎゅっと皺が寄った。
それだけだ。
顔色が変わったわけでも、大声を上げたわけでもない。
ただ、長年現場を見てきた人間の、「嫌な予感」の筋肉だけが動いた。
「どうかしましたか」
思わず声を掛けると、組合長は俺のほうをちらりと見て、小さく首を振った。
「いや。お前の報告は、いつも通り正確だなと思っただけだ」
「それなら、何よりです」
「……明日も、第二層を見るついでに、その辺りを通っておけ。無理のない範囲でな」
その「無理のない範囲でな」が、余計に引っかかる。
だが俺は、それ以上は聞き返さなかった。
「了解しました」
短く答えて部屋を出る。
扉が背中で閉まる音が、やけに重たく響いた。
廊下に出ると、窓の外の空は赤く焼けていた。
ダンジョンの口は、夕方になっても、相変わらず黙って口を開けている。
第二層西側通路十七番。
あの亀裂と、滲む光と、喉を刺した魔素の味が、舌の奥にしつこく残っていた。
「……気のせいなら、それでいいんだがな」
誰にともなく呟いて、俺は長屋へ戻るための階段を下り始めた。




