3:第一層の“汚れ仕事”
ダンジョンの入口は、今日も口を開けていた。
巨大な石門の向こうは、うっすらと青白い光に満たされた通路だ。
魔石灯のおかげで真っ暗というわけじゃないが、その光は昼のそれとは違う。色を一枚削ったような、冷たい明るさ。
門番に組合証を見せて通り抜けると、ひんやりした空気が全身を撫でていった。地上より二つ三つ季節が後ろにずれているような温度だ。
「……相変わらず、いい匂いだな」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、ゆっくりと第一層へ足を踏み入れる。
通路の石床には、すでに“今日の分”がいくつか転がっていた。
壁際に押し付けられたゴブリンの死体。
頭蓋を割られた狼型の魔物。
その間に、妙に人間の形をしている影が一つ。
浅層だって、運が悪ければ人が死ぬ。
腰の麻袋から白い布を取り出して、まずは人間のほうに近づいた。
仰向けになっている男の顔には、まだ昼寝の途中みたいな表情が残っている。でも胸元の穴を見れば、その寝覚めは二度と来ないことが分かる。
「……鉄級か」
左手首の腕輪に刻まれた、黒ずんだ鉄の色を確認する。
腰の剣は、よく手入れされている。靴もまだ新しい。
浅層で少し慣れて、「そろそろ行ける」と思った頃か。
「名前は……」
胸元から、濡れたギルドプレートを引き出す。
刻まれた文字を読み、声に出さず口の中でなぞる。
プレートを布でざっと拭ってから、専用の小袋にしまった。
「身につけてた武具は、遺品扱いだな」
腰のポーチと、指にはまった安物の指輪も外す。
壊れた革の鎧は、さすがに持っていっても喜ばれないだろう。これは後でまとめて処分だ。
遺品をひとまとめにして、タグ札に名前と階層、発見時刻を書き込む。
もう一枚、遺体用の札にも同じ内容を記入する。
仕事の手は、もう何度も繰り返した動きを勝手に行っていた。
男の目を指先でそっと閉じてから、白布を顔にかける。
全身を布で包み込んで、麻袋の上に寝かせた。
「すまんな。もう少しうまく立ち回れてりゃ、俺の出番も遅かったんだが」
返事が返ってくることはない。
代わりに、鼻先をくすぐる匂いが少しだけ強くなった。
血と鉄と、冷たい石。それに、もう一つ。
男の胸の傷口から、薄く光が漏れている。
……いや、光じゃない。
光になる前の、なりかけの何か。
床にこぼれた血の周りで、青とも白ともつかない靄が、たゆたうように漂っていた。
魔物を倒したときに生じる魔素。
それは普通、討伐した者の身体に吸われていく。
だが、これはその“吸われきらなかった残りかす”だ。
俺は刷毛を取り出して、その血溜まりの縁にそっと当てた。
ごし、と石をこする音。
こびりついた赤黒い色が、じわりと溶けて広がる。
その瞬間、靄のほうがふっと形を変えた。
霧のかけらが、俺の手元に寄ってくる。
血の匂いと一緒に、冷たい何かが頬を撫でた。
「……いただきます」
小さく呟いてから、俺は息を吸い込んだ。
喉の奥が、ぴり、と痺れる。
細かい砂みたいなものが、気管を通って肺に落ちていく感触。
それが血流に乗って、ぐるりと全身を一周する。
砕けたことのある右膝のあたりで、一瞬だけ熱が弾けた。
「ふむ」
立ち上がるとき、いつもより少しだけ体が軽い気がする。
まあ、気のせいかもしれない。
この仕事を始めてから、何度そんなことを思ったか、もう覚えていない。
刷毛で血をこすり取り、特殊布で残りを丁寧に拭き上げると、石床は元の灰色を取り戻した。
魔素の靄も、もうそこにはない。
通路を進むと、今度は壁際に潰れたゴブリンの死体があった。
緑色の体液が飛び散り、鼻をつんと刺す臭いを放っている。
「こっちは魔石だけ、かな」
短剣で胸を割き、小さな魔石を取り出す。
輝きは弱い。換金しても、せいぜい銅貨数枚だろう。
魔石を袋にしまい、残った肉片と骨はひとまとめにして端に寄せる。
あとでまとめて焼却処分だ。魔素が残りすぎると、こういうのから変なものが生える。
床の汚れを拭いていると、さっきと同じ、薄い光の霧がまた立ち上る。
今度はそれほど量は多くない。
吸い込んだところで、膝の様子が劇的に変わるわけでもない。
それでも、俺は癖のように息を吸った。
喉の奥が、また少しだけ痺れる。
皮膚の内側を、冷たい水が一筋流れた気がした。
「……よし」
声に出して、自分に区切りをつける。
目の前の通路は、もうほとんど“何もなかった”顔をしている。
少し進めば、また別の血の跡と別の死体が待っているだろう。
そのたびに名前を読み、布をかけ、血を拭き、こぼれた魔素を少しずつ飲み込む。
若いころの俺が見たら、どう思うだろうな。
魔物の前に立ち、剣を振るう側ではなく、
その後ろで、黙って汚れを片づける側にいる今の自分を。
通路の奥から、かすかな叫び声と、金属のぶつかる音が聞こえてきた。
別のパーティが、今日の分の「汚れ」を作っているらしい。
「忙しいことだ」
刷毛と布を握り直しながら、俺は第一層西側通路の奥へと歩を進めた。




