1:朝の出勤と街の顔
朝の空気は、まだ夜の名残を少しだけ引きずっている。
長屋の廊下に、きしむ板の音が一つ。俺がそっと戸を引くと、冷えた空気がすぐに隙間から入り込んできた。石畳の路地は薄暗く、屋根と屋根の隙間から、ようやく青みがかった空が覗き始めたところだ。
「バルドさん、もう出るのかい」
一階の土間から、管理人の婆さんの声が上がる。腰を曲げたまま箒を動かしていて、いつものように埃と格闘している最中だ。
「ええ。朝のうちに血の跡を見ておかないと、乾くと落ちにくいですからね」
「まったく、朝から血の話はやめとくれよ」
口では文句を言いながらも、婆さんの声はどこか楽しそうだ。長屋の住人が生きて出入りしていることを、確認しているだけかもしれない。
その足元から、子どもが二人、階段を駆け降りてきた。まだ寝ぼけ眼の、小さな兄妹だ。
「バルドおじちゃん、今日もダンジョン?」
兄のほうが、毛糸の穴の空いた帽子を押さえながら見上げてくる。妹は兄の袖を掴んだまま、こくりと頷いた。
「今日もダンジョンだ。ほかに行くところもないしな」
俺は肩にかけた道具袋をぽんと叩いて見せる。
「魔物、いっぱい倒すの?」
「俺が倒すのは、魔物じゃなくて汚れだよ。お前ら、宿題やってから魔物ごっこしろ。血を撒き散らしたら、家でも俺の仕事が増える」
「えー……」
兄のほうがあからさまに嫌そうな顔をする。妹はくすくす笑って、「やだー、うちで血は出さないよ」と、妙に物騒な返事をした。
「物騒なこと言うんじゃないよ、まったく」
婆さんがぶつぶつ言いながら、子どもたちの頭を小突く。俺は軽く手を振り、路地に出た。
長屋の外は、もう少しだけ賑やかだった。
同じように仕事に出る労働者たちが、手に道具を提げたり、荷車を押したりして行き交っている。石畳の上には夜露が残っていて、靴の底がしっとりと湿る。
遠くのほうから、油に火を入れる匂いが流れてきた。露店だ。
ダンジョン入口へ向かう大通りは、この時間になると、屋台の骨組みに布をかける音や、桶を引きずる音で騒がしくなる。焼きパンの香り、薄いスープの湯気、油で揚げる何かの匂いが混ざり合って、鼻をくすぐった。
「お、バルド。今日も早いな」
馴染みの屋台の兄ちゃんが、鍋をかき回しながら手を上げてきた。粗末な木枠に鍋が一つ、その隣に黒パンの籠。いつもの景色だ。
「まあ、掃除は待ってくれませんから」
「違いない。ほら、今日のスープは芋だ。貴族様の厨房から皮だけもらってきたやつよ」
兄ちゃんが笑いながら、木の椀に薄いスープをよそってくれる。湯気に混じって、ほんのりと芋の匂いがする。具は、細かく刻んだ葉っぱが申し訳程度に浮いているだけだ。
「黒パン一つとスープ一杯で、銅貨三枚だ。値段は昨日と同じだぞ」
「……同じ、ねえ」
俺は小さく鼻で笑って、腰袋から銅貨を三枚つまみ出した。手のひらの上で、くすんだ色の円盤がかちりと音を立てる。
「これで銅貨三枚か。昔は二枚で腹いっぱいになれた気がするんだが」
「腹が減る歳になったんだろ。食う量が増えたんだよ」
「それならありがたい話ですがね」
軽口を叩きながら、銅貨を兄ちゃんの掌に乗せる。彼は慣れた手つきでそれを腰の袋にしまい、代わりに黒パンを一切れ渡してきた。
歯の立ちにくい固さだが、温かいスープで流し込めば、胃のほうは文句を言わない。椀を唇に当てると、安っぽい木の匂いと一緒に、ぬるい芋の味が喉を下っていく。
大通りの向こう側では、探索者らしい若い連中が、笑いながら歩いているのが見えた。腰には、まだ新しそうな剣や槍。肩には軽そうな荷物。顔は期待と不安でやたらと騒がしい。
ああいうのを見ていると、昔の自分を思い出す。
「今日も、ダンジョンは稼ぎ時だな」
自分に言い聞かせるように呟いて、スープを飲み干した。
稼ぎ時――とは言っても、俺の稼ぎはあいつらとは違う。魔物から魔石をもぎ取るわけでもなければ、派手な戦利品を持ち帰るわけでもない。
俺がもらうのは、月に銀貨五、六枚。今日のこの朝飯で、すでに銅貨三枚が消えた。
それでも――
冷えた指先が、椀の残りの温もりを名残惜しそうに握りしめているのを感じながら、俺は小さく肩をすくめた。
「じゃあ、行ってきます」
「おう、今日もダンジョンの中、きれいにしてこいよ。血の跡残しっぱなしにすると、客が減るからな」
「それは困りますね。俺の給金が、さらに薄くなる」
冗談半分に返して、空になった椀を屋台に戻した。
肩の道具袋の重みを確かめながら、ダンジョン入口へ続く坂道を歩き出す。
朝の街は、今日もよく働く連中の匂いでいっぱいだ。
その向こうで、石と血と魔素の匂いが、俺を待っている。




