13:ダンジョン都市と国の事情
バルドが出ていったあと、組合長イェルンはしばらく扉の方を見つめたまま、ふう、と長い息を吐いた。
机の上には、現場報告書の束と、もうひと山、別種の紙束が積み上がっている。
一方は血と泥の匂いのする紙。もう一方は、もっと始末の悪い匂い――上からの命令書だ。
「……やれやれ」
残った片腕で肩を回し、イェルンは椅子の背もたれに体を預けた。
窓の外には、ダンジョン都市の屋根が連なっている。
遠く、広場の中央にぽっかり口を開けたダンジョン入口。その周りには、いつ見ても人の群れが渦を巻いている。
あそこから上がってくる魔石と素材が、この街どころか、国全体の血流になって久しい。
魔石は、灯りと暖房と工場と、軍の魔導兵器の核に変わる。
魔物の皮と骨と臓器は、鎧にも薬にも贅沢品にも姿を変え、王都の貴族どもの食卓を飾る。
税という形で、金貨が王都へと流れていき、
その見返りに、紙切れと命令が、この地方都市へと降ってくる。
イェルンは机の上の、もう一つの紙束に目を落とした。
上質な羊皮紙に、きっちりとした書体で綴られた文字。
端には王都の紋章が蝋で封じられている。彼にとっては、あまり嬉しくない“飾り”だ。
『近時、当該都市ダンジョン第一~第三層において、魔素流動の異常報告多し――』
そこまでは、まだいい。
問題は、その先だ。
『――深層側における魔素の偏り、階層構造の不安定化の徴候と解される可能性あり』
「階層崩壊、ね……」
ぽつりと口の中で繰り返す。
紙の上では、軽い言葉だ。
だがそれが現実になったとき、どれだけのものが潰れるか、イェルンは知っている。
昔、まだ彼が前線に立っていた頃、北の小さなダンジョン都市で「小崩れ」が起きた。
深層で魔素が暴発し、下位の階層が一つ、まるごと潰れた。
その結果、地上の一角が陥没し、街の半分が消えた。
魔物が溢れ出すタイプの暴走とは違う。
階段と通路そのものがねじ切れ、魔石灯が一斉に吹き飛び、空気が変な方向に流れ始める。
当時の国は、それを「局地的災害」と呼んだ。
だが、渦中にいた者たちにとっては、立派な「国難」だった。
魔石の供給が途絶え、軍は武具の運用を絞られ、税収は落ち込み、より重い税が別の街に課された。
潰れた街の住民のことなど、遠い会議室では誰も数えなかった。
「……二度とごめんだな」
イェルンは低く呟いた。
あのとき、彼は片腕を失い、仲間を何人も置いてきた。
それでも命だけは何とか持ち帰り、気づけば「現場上がりの組合長」などという、中途半端な椅子に縛りつけられている。
国は、階層崩壊を恐れている。
だからこそ、ダンジョンを“安定させる”手段を、ずっと探しているのだ。
魔素を均す装置。
暴発を抑える祭具。
古代の遺物。
呼び名はいろいろあるが、要するに「安全装置」として使えそうなものなら、何でもかんでもかき集めようとしている。
王都から回ってくる書状の中には、そんな文言も混ざっていた。
『古文書に見られる“階層の楔”と呼ばれる遺物の所在調査を進められたし』
『魔素流路の安定化に寄与する術式、または遺物の噂あらば、速やかに報告のこと』
机の端には、別の一枚が置かれている。
封蝋に刻まれた紋章が、先ほどのものとは少し違う。
王家ではなく、軍務局のものだ。
『近日中に、王都より視察団を派遣する。ダンジョン運用状況、魔素流動の状態、並びに安全確保策につき、報告を受ける所存』
「視察、ねえ」
イェルンは鼻で笑った。
視察団が見たいのは、現場の汗や泥ではない。
整頓された報告書と、うまく隠された傷痕と、「問題は管理下にあります」という言葉だ。
だが、実際に魔素の揺らぎを嗅ぎ、壁のひびを撫で、広間の空気の重さを肺で確かめているのは、バルドのような掃除夫たちだ。
「……俺の鼻じゃ、もう足りんのさ」
ぽつりと漏らし、イェルンはバルドの報告書に視線を戻した。
“魔素の揺らぎ・強”
その一行は、彼の片目には赤インクで書かれているように見えた。
国は安全装置を探している。
王都からの命令書に書かれているのは、立派な言葉だ。
けれど、イェルンが本当に欲しいのは、もっと切実な、現場向けの何かだ。
階層が崩れる前に、異常の芽を見つけて叩けるような感覚。
魔素の流れが変わる瞬間を、嗅ぎ取れる“鼻”。
あるいは、それを補強してくれるような、誰かの特異体質。
「安全装置なんて、石や器具の形してるとは限らんだろうに」
頭の片隅に、血と埃にまみれた小さなポーターの顔が浮かぶ。
死に損ないが一人、しぶとく生き延びている――治療師の報告。
それを聞いたとき、イェルンは「運がいいガキだ」とだけ思った。
だが、バルドが拾ってきたものは、運だけで片づけられない匂いをまとっている気もしていた。
現場の鼻が当てになるなら、現場が拾ってきたものにも、何かしらの意味があるかもしれない。
「上は“楔”だの“祭具”だの探しているが……」
イェルンは窓の外のダンジョン入口に目を細めた。
「実際に階層を繋いでるのは、こういう街と、そこにぶら下がってる人間どもの方だ」
魔石がなければ国は痩せる。
だが、人がいなければ、魔石はただの冷たい石だ。
階層崩壊が起きたとき、真っ先に潰れるのは、入口に張り付いているこの街だ。
その後でようやく、王都の机の上にある数字が動き出す。
「……こっちは、机の上だけじゃなく、足元を見てなきゃならん」
イェルンはペンを取り、バルドの報告書の端に小さく印をつけた。
国の事情は国の事情として、現場の事情は現場で処理するしかない。
ダンジョン都市が、魔石と血と税金で回っている限り、
誰かがその“汚れ”を見張っていなければならない。
それが、元探索者で片腕を落とした老人と、膝を壊した掃除夫に回ってきた役割だというのなら――
「せいぜい、鼻を利かせてもらうさ」
誰にともなくそう呟いて、イェルンは王都からの書状の束を脇に避けた。
机の中央に残ったのは、血と泥の匂いが染みついた報告書の山だけだった。




