プロローグ:折れた膝と、こぼれた魔素
膝が砕けた音は、意外とあっさりしたものだった。
「――っ、ぐ」
鈍い衝撃が腰のあたりまで突き抜けて、視界が一瞬、白く弾ける。
中層第八階層。岩肌むき出しの広間の、ちょうど真ん中あたり。
俺は、棍棒を振り下ろしてきたオーガの脚の下に、盛大に踏み潰されていた。
「バルド! 下がれって言っただろうが!」
「前、抑えないと押し切られる!」
誰の叫びだったか、今となっては曖昧だ。
でも、あのときの俺は、ちゃんと聞こえていたはずだ。
聞こえていて、それでも一歩前に出た。
ここで一つ大物を仕留めれば、パーティの中での立場が変わる。
銅級の中でも「名前を覚えてもらえる側」に行ける。
そんな浅ましい計算が、頭のどこかにあった。
結果が、これだ。
潰れた膝から、熱いものがどくどくと流れ出していくのが分かる。
石床に広がる血溜まりの色が、妙にはっきりと目に入る。
腰から下に力が入らない。足を動かそうとしても、ぴくりとも言うことを聞かない。
「くそ……動け……!」
すぐそばを、オーガの棍棒が唸りを上げて通り過ぎる。
盾持ちのガレスが受け止めて、腕ごと後ろに吹っ飛んだ。
骨の折れる音。鈍い悲鳴。治癒術師の短い詠唱が、乱れた息にかき消される。
俺はただ、その光景を床から見上げていた。
いつも通りの中層攻略のはずだった。
魔物の出方も、地形も、大体は分かっていた。
俺たちは何度もこの階層を回って、小銭を稼いできたんだ。
それなのに、少し欲をかいた。
「もう一段上に行けるはずだ」と、勝手に思い込んだ。
オーガの胸に刻まれた傷から、どろりと黒い血が流れ落ちる。
その周りに、淡い光が揺れているのが見えた。
「あれ……?」
魔素だ、と認識するのに、少し時間がかかった。
魔物を倒したときに立ち上る、あの光の粒。
普通は討伐者の身体に吸い込まれて、経験値だの何だのになる、と教本には書いてある。
けれどそのとき俺の目に映っていたのは、いつもと少し違う光景だった。
光のほとんどは、前衛の一人――まだ立っていた戦士の胸元へと流れ込んでいく。
それは見慣れた光景だ。
問題は、その“残り”だった。
吸われなかった魔素の細かい欠片が、血と一緒に石床に垂れ、
霧のようにふわふわと漂っている。
本来なら、すぐに薄れて空気に溶けていくはずのそれが――
「……おい、なんだよ」
俺の方に、寄ってきていた。
息を吸うたび、喉の奥がひりひりする。
血と鉄の匂いに混じって、冷たい石の粉みたいな味が舌に乗る。
肌が泡立つような感覚。
寒いのか熱いのか分からない痺れが、砕けた膝から腰、背骨のあたりを這い上がってくる。
「な、んだ……これ」
声が掠れた。
目の端で、仲間が一人、膝から崩れ落ちるのが見える。
胸を貫かれた槍使いが、その場に倒れて動かなくなる。
彼の周りにも、細かな光の粒が生まれては、行き場を失ったように、ふわりと漂っていた。
それらが、まるで水たまりに吸い込まれる墨汁みたいに、
じわじわと俺の方へ滲んでくる。
「やめろって……俺は、そんな……」
そう言いかけて、そこで気づく。
俺は、息を止められない。
肺が勝手に空気を求める。
喉が勝手にそれを飲み込む。
吸い込んだ空気と一緒に、その光の欠片まで、体の中に流れ込んでくる。
焼けた鉄を押し当てられたような痛みが、膝の中でぶり返した。
でも、その痛みのすぐ隣で、妙な温かさが芽生えている。
折れた骨の周りに、何か粘つくものがまとわりついて、
じくじくと熱を持ち始めるような感覚。
気味が悪い。
気味が悪いのに、どこかで「助かった」と思っている自分もいた。
これはきっと、死にかけてるからだ。
意識がぼやけて、変な幻を見ているだけだ。
そう言い聞かせたかった。
「バルド、下がれって……言ったろ……」
耳元で、かすれた声がした。
顔を向けると、治癒術師の女が肩で息をしていた。
白かったローブは、もうどこが元の色か分からないくらい血で染まっている。
彼女の手は俺の膝に触れていたが、
治癒の光は、もうほとんど灯っていなかった。
「悪い……調子に乗った」
それだけ言うのがやっとだった。
口の中に温い血の味が広がる。
視界の端で、オーガの巨体がぐらりと揺れて、ようやく崩れ落ちる。
勝った、のかもしれない。
だが、勝利の実感よりも先に、別のものが胸に沈んできていた。
――やっぱり、俺には向いてなかったんだな。
もっと強い奴なら、もっと頭のいい奴なら、こんな危ない賭け方はしなかった。
仲間を庇わせて、自分だけ前に出るなんて真似も、しなかった。
俺は、自分の足元も見えないくせに、前に出たがっただけだ。
砕けた膝の痛みと、光の欠片が染み込んでくる奇妙な温度と、
仲間の断末魔と、治癒術師の震える息遣いが、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
それでも、頭のどこかは妙に冷静で。
(ああ、これで終わりだな)
そう思った。
この膝じゃ、もうまともに前線には立てない。
治ったとしても、昔みたいに走り回ることはできないだろう。
俺には、才能がなかった。
前に立って、皆を引っ張る探索者になる才能も。
この場で、誰一人死なせずに帰るだけの腕も。
だったら――
滲んでいく視界の中で、床に広がる血と光を眺めながら、俺は思う。
だったら俺は、前に立つ側じゃなくていい。
派手に剣を振るう奴らの陰で、こぼれたものを片づける側でいい。
俺には、そのくらいがちょうどいい。
そう決めたあの日のことを、今でも膝の疼きが思い出させてくる。
血の匂いと、石の粉っぽい味と、肌に染み込んでくる薄い光の感触。
あのとき俺の中に入り込んだ“何か”が、結局なんだったのか。
若かった俺は、深く考えようともしなかった。
――ただ一つ、「俺の人生はここで一度折れた」とだけ、はっきり覚えている。
折れた膝と、こぼれた魔素。
それが、ダンジョン掃除夫になった俺の、最初の汚れ仕事だった。




