表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

駆け出しの見習い魔術師 ◇祝祭の朝に

 それは、四年前のこと――。  


 十四歳、春の始まりの朝だった。


 エイラは、青灰色の瞳をゆっくり開くと、小さく伸びをした。  


 裸足で羊毛の敷物を踏みしめて立ち上がる。  



「ここから見る朝も、これが最後ね」


 独り言をつぶやいたその息で、水晶窓が白く曇る。

 薄い夜着の上から肩掛けを羽織り、古い木枠の窓を押し上げた。


 火照った頬を風が撫でていく。

 最後の朝に何一つ見逃さないように、瞳を凝らした。


 夜明け前の闇が薄れ、群青の空にひとすじの光がのびていく。  

 遠い山の際に紫の輪郭が燈り、その灯りで雲が薔薇色に染まり始めていた。


 春の甘い香りが、湿った朝風に交じって胸をくすぐる。


 ――子供の時間が、今日終わる。


 胸に迫る切なさを押しとどめながら、エイラは深呼吸した。  

 今日は、運命に従い塔に登る日だ。


 塔から選ばれた者には、十四の年になるまでに召喚状が届く。  エイラは十歳でそれを手にした。  金文字で記された一文――


『汝、十四の春に塔に登られたし』


 召喚に応じた者は、塔に登り、己の魂に呼応する『半身』を見出す儀式を行う習わしだ。


 ――獣か、鳥か、木か。あるいは虫か。


 その答えは、まだエイラにはわからない。  

 魂が半身と結びつき、初めて塔の魔術師としての歩みが始まるのだ。  


「今日は、いい風が吹いてる」

 淡い期待と不安が、胸の底で揺れていた。


 ****


 ミラナは、エイラが庭に出た気配を感じて静かに身を起こした。


 今日で、乳母としての役目が終わる。

 瑞々しい若葉のようにしなやかで――

 それでいて、どこか悟りきったような少女のまなざしを思い出す。


 王族に特有の、淡く灰がかった青みを帯びた瞳。


 夜明け前の空のような色。

 光の加減によっては銀にも見える――母親譲りだ。


 艶やかな漆黒の髪は父親譲り。


 エイラは髪を風に遊ばせるのが好きだった。

 けれど、艶が出るまで丁寧にとかして結い上げるのが、ミラナの密かな楽しみだった。


 ふと、あの雷鳴がとどろいた夜を思い出す。


 王家の使いが火急の報せを告げた晩――


 すすり泣く巫女たちに抱かれていたのは、ぐったりとした双子の赤子だった。

 一人は、ほとんど息をしていない。 もう一人も怨嗟に侵され、命の火が今にも消えそうだった。


 二人とも、何らかの強大な力によって、無垢な魂を深く傷つけられ、毒のような澱に蝕まれていたのだ。


 双子の母、セリヤは失神していた。

 誰もが、双子は朝までは持たないだろうと思った。


 だが、ミラナの胸を雷のような直感が打った。


 ――生かさなければならない。


 腕に鳥肌が立つ。

 原初の神にして、星と風の神の気配を強く感じたのだ。


 ミラナの半身は、最も古きオークの木。

 偉大なる癒し手にして、護りの象徴。


 原初の神ナアラの娘の化身である大梟の止まり木であり、

 生きとし生けるものを育む静かな木陰でもあった。


 半身が告げる――


『汝のつとめなり。癒せ、生かせ』と。

 ミラナは覚悟を決め、巫女から二人の赤子を受け取った。


 目を閉じ、呼吸を整える。


『――我は最も古き者。護りの者。

 我はこの樹下にて、すべての災厄を退ける。

 不屈の勇気をもって、我が陰に入るこの者らに祝福を与える』


 居合わせた者たちは、むせかえるほど濃密な緑の香りを嗅ぎ、葉擦れの音を耳にした。そして、赤子らはまばゆい緑の光の環につつまれた。


 ――奇跡は、確かに成されたのだった。


****


 ミラナは少女の背中を見つめる。


 あの赤子は、十四歳の春を迎えた。

 美しい娘に成長したが、まだ幼く、あどけなさも残る。


 けれど、その瞳はすでに――巣立つ準備ができているという覚悟がにじんでいた。


(手を放す日がこんなに、あっという間に来るなんて)

 ミラナはそっと涙をぬぐい、朝露に濡れた石畳を踏みしめた。


 その気配に気付いたのか、エイラはゆっくりと振り返った。


 朝の冷気のせいか、白磁のような滑らかな頬には、ほんのり赤みが差している。


「エイラ」


 呼ばれた少女は小さくうなずき、招かれるままに家の中へ入った。


 別れまでには、まだ数刻の猶予が残されていた。

 ミラナは肩に乗せられた娘の手を、優しく握った。



 「エイラ、髪をもう少し整えたほうがいいよ。今日は特別な日なんだから」

 ミラナは湯気を立てる粥鍋の前に立ちながら言った。


 動揺を悟らせないようにしていたが、その手は、ほんの少し震えていた。

 エイラは静かに振り返り、目を細めて微笑む。


「大丈夫。宴に行くわけじゃないもの。それに風がすぐ、ぐしゃぐしゃにするよ」

「――まったく。そういうところはセリヤ様にそっくりさ」


 そう言って、しばし背を向けた。


「なんだが、緊張して食欲がないの」

 エイラがぽつりと言うと、ミラナは振り返って彼女を食卓に着かせた。


「きっと、塔に上がったら、夕食まで何も食べられないんだから、お粥ぐらいはちゃんとお食べ」

 そして、エイラの頭を優しくなで、粥椀を目の前においた。


「熱いからね、やけどしないように」


「ありがとう」


 エイラは丁寧に頭を下げた。


 食事を終えると、彼女は両手を重ねて胸に押し当てる。

「父様や母様も、こんな風に胸がどきどきされたのかしら」


 半身を求める高ぶりを抑え込みながら、ぽつりとつぶやく。


 ミラナは答えなかった。

 代わりに、娘を後ろからそっと抱きしめた。


 その温もりは、胸をつくほど優しくて――

 それを決して忘れないように、エイラは目を閉じた。


 家の門を出るとき、ミラナは小さな包みを手渡した。

 包みには、長く守ってきた二つの品が入っていた。


 ――母セリヤの指輪。青灰色の宝石がはめ込まれた指輪。


 ――父カエランの徽章。白鳥の印が刻まれた小さな銀の護り。


「あなたは、王家の血筋、そして風と星の神ナアラの末裔。その誇りを大切に――さあ、これを持ってお行き。両親はいつでも心の中に生きているよ」


 それから、痛みに耐えるように微笑んでミラナは言った。

「あなたに、よい風が吹きますように。星のみちびきがありますように」


 エイラは言葉もなく、深く一礼した。

 そして、記憶よりも一回り小さく縮んだように見えるその人を、両手でしっかり抱きしめた。


 ミラナはエイラの乳母であり、魔術の師匠だった。

 胸の奥には、未来へ踏み出したい気持ちと、いつまでもこの温もりに縋りついていたい気持ちが渦巻いていた。


 「今まで、たくさんのものを私に与えてくれて、ありがとう。……大好き」


 二人はしっかり抱き合って、ゆっくり身を離した。


 門を出てしばらく歩き、ミラナの姿が家の中に入るのを確かめてから、少女は丘の上を見上げた。


 そこに塔は建っていた。

 朝霧の向こうに、天をつくようにそびえていた。

 幾世代もの時を超えて、人々を見守ってきた石の尖塔。


 一度、深く息を吸い込む。


 朝の空気は澄んでいて、やはり少しだけ冷たかった。

 陽光が斜めに差しこみ、空には一羽の鳥が静かに円を描いている。


 まるで、ミラナという止まり木から飛び立つ、彼女の旅立ちを見届けるかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ