プロローグ
村の朝は、いつものように霧に包まれ、静けさに浸っていた。
家々の煙突からはかすかな白煙が立ちのぼり、湿った土の匂いが漂う。
その静けさは、巫女の震える指が空に小さな点を刺した瞬間、一変した。
年老いた巫女のしゃがれた声が、世の終わりを告げる。
「血の雨が降る――!この村は全滅するのじゃ!!」
かすかな点は黒く膨れ上がり、やがて空を覆うほどの魔獣の群れが、咆哮とともに村へと襲いかかってきた。
怯えて悲鳴を上げ、逃げまどう群衆の中を、一人の魔術師が草色のマントを揺らしながら歩み出た。
その名はエイラ・ヴァレント。
胸には塔の徽章が光り、黒く艶やかな髪が風に揺れ、青灰色の瞳は冷静な光を湛えている。
白磁のような頬に端正な微笑みを浮かべた彼女は、村人たちに向かって優しく言った。
「大丈夫よ。今日のお天気は晴天だから」
エイラは地面を軽やかに蹴り上げ、その身を白銀の大梟へと変じた。
大梟は瞬く間に魔獣の群れを見下ろすほど高く舞い上がった。
村人たちが驚いて空を見上げる。
村の端では、塔の魔術師ルダが、空を仰ぎ見ていた。
白く輝く鳥の影が、神々しく朝日に映えるのを目を細めて確認すると、
彼は隣に立つ少年――見習いのテオに素早く指示を飛ばした。
「防壁を展開しろ。エイラが攻撃するから、魔獣が落下しないよう、転移型の防壁だ。処理が追いつかない時は、言え」
「わかりました!」
テオの声は緊張に震えていたが、その手が天に向かって差し伸べられると、その指先から淡い光が広がり、村を包むように魔法の防壁が展開された。
その様を見届けた大梟が、空を切り裂くように羽根を広げた。
刃のような羽根が雨のように降り注ぎ、鋭く魔獣を貫いて、地上へと落とす。
だが、テオの防壁がそれを柔らかく受け止め、ルダの指定した円の中へと魔獣の骸を転移させていく。
「うまいぞ、成長したな」
ルダの言葉に、テオは僅かに微笑んだ。
彼の額には汗が滲んでいたが、その瞳は自信に満ちていた。
エイラもまた、空からその様子を見て、心の中でほほ笑んだ。
(テオ、力を使いこなせているわ)
かつては不安定だった魔力の出力も、今は安定し、半身を得たことで彼の魔法は格段に強くなっていた。
(降りたらたくさん褒めてあげなくちゃ)
戦いが終わると、エイラは清浄魔法で村に満ちた瘴気を祓った。
「塔の魔術師様!!」
「助かったぞ!」
歓声があがり、押し殺していた嗚咽が、あちこちから洩れた。
子どもが母の胸で声をあげて泣き出し、大人たちもそっと涙を拭った。
年老いた巫女は家の前の長椅子でうつらうつらと居眠りを始めていた。
エイラは麦畑の中に静かに降り立った。
黄金色の麦が風に揺れ、彼女の足元を優しく撫でる。
そこへ、ルダとテオが姿を現した。
ルダは逞しい体を包む外套を翻し、一方、テオはまだ戦いの興奮と余韻を残したまま、エイラを見つめていた
「ルダ、テオ、お久しぶりです」
エイラは微笑みながら、二人に視線を向けた。
テオに向ける眼差しは柔らかく、慈愛に満ちていた。
「すごく成長してる。見違えたわ」
「ありがとう」
テオが頬を緩める様をみて、エイラはくすりと笑った。
「また、訓練付き合ってあげる」
ルダはそんな二人のやり取りを見て、テオの頭を軽く撫でた。
「教えれば教えるほど伸びる――エイラは、二か月ぶりか」
「ええ。マルクレールやタレイを拠点にして、古伝を集め、北辺の遺跡の碑文回収に行ってきました」
エイラの声には、旅の疲れと同時に充実した日々の余韻が滲む。
ルダは彼女の話に耳を傾け、懐かしそうに微笑んだ。
「私たちは旅修行だ。エイラは塔に帰るのか?」
「ええ。シルと約束があって、発ちます。ご一緒できて楽しかった!」
エイラはそう言って、二人に向けて手を振った。
それから再び地面をけり、白銀の大梟に変じると、ゆっくり大きな弧を描いて飛び去って行った。
ルダは、目を細めて呟く。
「あいつは根っからの、風の者だな」
――十八年前――
夜の淵よりも、なお深く――。
どんな記憶よりも古く、絶対的な静寂に満ちた地。
風が草原を渡り、木々は瑞々しく枝を広げ、鳥や獣が囁き交わす。
そこは、時の止まった狭間だった。
広大なその場所に、粗末ながらも丹念に手入れされた小屋がひとつ。
小屋には、七人の魔女が住んでいた。
彼女たちがどこから来たのか、どこへ向かうのか――誰も知らない。
その問いを口にする者も、ここにはいない。
魔女たちはあわいと呼ばれる、生者の国と黄泉の国の境を見守る番人だった。
その長は、痩せて背の高い女。名を、イラヤという。
彼女は気の遠くなるほど昔から、旅人たちの魂を見守る番人だった。
還る魂、あるいは芽吹いた魂が、生の国へと送り出されるのを、静かに見届ける。
そして、死に戻った魂にあわいでつかの間の休息をあたえ、黄泉の国へと送り出す。
その巡る円環が乱れぬよう、永劫の時を絶え間なく紡ぎ続けてきた。
――けれど、その夜だけは違っていた。
風もなく、静まり返った宵闇に、不意に不吉な異音が響いた。
イラヤは、ひどくねじくれた杖を手に、小屋を出る。
今宵は新月、他の魔女たちは、みな思い思いの場所で過ごす日だった。
この音は、イラヤの知るどんな響きとも違っていた。
柔らかく、絹を引き裂くような――人の世のものとは思えぬ音。
音の源は、黄泉の川べりに生えた大きな菩提樹ぼだいじゅの方角だった。 イラヤはそちらへ歩み、ゆっくりと顔を上げる。
二股に分かれた枝に、白銀はくぎんの翼をもつ大梟おおふくろうが、音もなく舞い降りていた。 その爪に抱かれていたのは――ひとりの女の魂。
だが、その魂は――
ふたつに裂かれていた。 それだけではない。
子供がいたずらに泥団子を壊したかのように、見るも無残に崩れていた。
イラヤは、息を呑む。
あまりの出来事に言葉を失い、ただ見据えるしかなかった。
魂の傷は深く、生々しい熱を帯びている。
まるで、強引に手を突っ込まれ、無理やり引き裂かれたかのよう。
それは、この世の理を否定する惨ごさだった。 許されざる暴挙。
――なぜ。 なぜ、このようなことが。
イラヤの胸の奥に、氷の刃が撫でるような微かな戦慄せんりつが走った。
永遠の守り人であるはずの彼女の心をも揺らすほどに。
「イフェル」
その名を口にした瞬間、イラヤの肌に粟が立った。
原初の神ナアラに恋焦がれた愛の女神イフェルは、イラヤの系譜にとって宿敵のような存在だった。
風と星、旅人の神ナアラが、人の娘アリアナと結ばれた――その瞬間から、イフェルの狂おしい執着は始まったのだ。
幾千年の狂おしい執着の果てに、女神はついに禁を犯し、魂へ干渉したのだ。
「ナアラよ……」
イラヤは思わず、闇に向かってつぶやいた。
かつて神性を脱ぎ捨て、ただの旅人として人の世を歩いた原初の男神。
ナアラとアリアナの間に生まれた娘の魂が、あの日、黄泉へと還る姿を――イラヤは確かに見届けていた。
再生と癒しの眠りから目覚め、大梟に護られ、今宵、生者の国へ向かうはずだったその魂が行く道を、イフェルが遮ぎったばかりか、台無しにしてしまった。
「忌まわしい……なんとむごいことを……」
(さて、どうしたものか)
イラヤは小さくうなった。
生の国に送るには、あまりにも傷つき、 死に戻すには、あまりにも哀れ。
両の手で、そっとその光を掬う。
ひとつは清らかで、芯が強く。
もうひとつは静かで、けれど濁りを帯びている。
ここ、あわいでは、新しき神々ですら干渉することができない。
一方で、どんなことでもイラヤが決めなくてはならなかった。
イラヤは腕の中の二つの魂を見つめた。
魂はいずれも震えていた。
けれど、生きたいという強い炎が、確かに揺らめいている。
しかし、この苦痛を抱えて生きていくには、あまりにも哀れだった。
「もう一度、黄泉に戻り、二つの別の魂として生まれ変わり、人間の命を全うしてはどうだ?」
『門』の喪失を思えば、とてもそんなことは言っていられなかったが、 それでも、この魂の苦痛と悲しみを思えば――自然と出た言葉だった。
二つの魂は、焦れたように大きく震え、否と伝えた。
「それでも行く覚悟があるならば、どちらも生へ。人の子らに託そう」
二つの分かたれた魂が応じるように大きく揺らいだ。
「ヨナネラ、この魂を護れ――いずれ再び巡り会い、ひとつになることを願って」
イラヤの言葉に大梟は頷くように首を傾け、静かに翼を広げた。
次の瞬間、その輝きは、月の滴のような青白い光を宿した魂を抱く白い大梟と、 木炭の芯に宿るような鈍い銀色の炎のような魂を抱く黒銀の大梟の、 ふたつの鳥影に分かれた。
梟たちはそれぞれの魂を爪に抱き、空へと飛び立っていった。




