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第4話 竜の楽園で交わす約束

 夜が明けるより早く、海は白く光り始めた。

 潮の匂いは昨日より強く、風の端に鉄の香りが混じる。血の名残。にもかかわらず、竜たちは穏やかだった。空を巡る影竜は低い輪を描き、砂浜では老いた海竜がうとうとと瞬きを繰り返している。

 世界は“平常”を取り戻したのだと、景色は告げていた。


 だが胸の内だけは、昨夜から片時も静まらない。祖国から放たれた刺客は、つまりこう言っている。――私が“生きている”ことは、もう誰かの耳に入っている。

 放っておけば、追っ手はまた来る。私だけを狙って。今度は竜たちを巻き込みながら。


「アメリア」


 名を呼ばれて振り向くと、レオンハルトがいた。夜明けの光は彼の髪を薄金色に染め、蒼の瞳は曇りひとつない。どれほど眠れなかったのだろう。だが立ち姿は真っ直ぐだった。


「昨夜の件、礼を言いたい。お前がいなければ、俺は――」


「礼は要らないわ。私も助かったもの」


 本気でそう思っていた。過去の亡霊が夜の森から実体となって現れたとき、私は少しだけ震えていた。竜の唸り声と彼の剣の音が、その震えを押し戻してくれたのだ。


 レオンは小さく頷くと、言葉を選ぶように沈黙し、やがて吐き出した。


「俺は……帝国に戻らなければならない」


 予感していた言葉だった。それでも胸のどこかが、きゅ、と鳴った。

 彼は続ける。


「皇帝の病は深い。諸侯の均衡は崩れかけている。俺が姿を消したままなら、血が流れる。俺は第二皇子だが、調停役として指名されていた。戻れば、戦をひとつ止められるかもしれない」


「危険よ」


「知っている。だが行くしかない」


 彼の声は静かで、決意は固かった。私は砂に目を落とす。波が寄せては返し、足跡をさらっていく。七年の間、ここは私の避難所であり、誕生のゆりかごだった。

 竜と暮らす術を覚え、言葉の代わりに指先で合図を交わし、雨季には洞窟に共に身を寄せ、乾季には遠い断崖へ採餌に出た。彼らの鼓動の近さだけが、私を“人間”の孤独から救ってくれた。


 ――けれど。


「外へ出ることを、怖がっているのね」


 自嘲めいた声が漏れた。自分でも驚くほど穏やかな声。


「怖いわ。外には、私を“処分済み”にしたい人たちがいる」


 レオンは一歩、近づいた。砂がさくりと鳴る。


「それでも――お前と一緒に外へ出たい」


 心臓が跳ねた。

 彼は目を逸らさない。剣より鋭い真っ直ぐさで。


「俺は帝国へ戻る。だが、戻るだけでは駄目だ。海路は危険で、嵐もある。いずれここを目指す者はもっと増える。交易、軍、密偵、難民。誰かが、この半島と“話せる”状態を作らなければならない。お前はここを愛している。竜たちもお前を選んだ。だから、お前こそが橋になるべきだ」


「橋?」


「竜と人の。お前が立てるなら、帝国はそれを尊重する。俺が尊重させる」


 アシュタルが低く喉を鳴らした。私とレオンの間の空気を嗅ぎ、翼を小さくたたむ。

 彼の言葉は、恐ろしいほど真っ当だった。逃げ場にしていた半島を、私の手で“世界へ開く”。それは同時に、竜たちを外の欲望へ晒すことでもある。


「人は、欲しがるわ。鱗も牙も、力も血統も。竜と人が触れれば、必ず傷がつく」


「触れないままでも傷はつく。無知は恐怖を生み、恐怖は暴力を呼ぶ。ならば、選ぶのは“どう触れるか”だ」


 彼の言葉は、かつての私の祈りに似ていた。

 前世、動物たちを見送るたびに願ったのは、ただ「知ってほしい」ということだった。君の鳴き方、眠るときの丸まり方、怖いときのしっぽの下げ方、それを知る人が増えれば、世界は少し優しくなる――と。

 竜も同じだ。巨大で、炎を吐き、牙を持つ。けれど恐ろしさだけで語られた物語は、彼らを必ず孤独にする。


 私はアシュタルの額に手を当てた。熱が伝わる。脈がゆっくり指先を押し上げる。


「……あなたは、どう思う?」


 尋ねると、黒竜は鼻先で私の掌を押した。肯定の仕草。

 彼の眼差しは、いつも私の背を押す。飛べるかどうかを確かめる前に、翼の筋肉に火を入れてくれる。


「なら――決めた」


 私はレオンへ向き直った。


「竜を連れて外へ出る。だけど無差別には開かない。ここを“国”にする。竜と幻獣の生態を守るための規約、立ち入りできる者の資格、狩猟と採取の制限、海路の監視、避難の仕組み、そして紛争が起きたときの調停役。……全部、私が設計する」


 口にすればするほど、恐れは形を変え、熱へと変わっていった。

 レオンの瞳が深く揺れ、すぐに笑った。誇らしげに、少し安堵したように。


「竜王国――だな」


「まだ“王国”なんて大袈裟よ。ただの規約の束」


「規約の束は、時に王冠より重い」


 彼は右手を差し出した。握手のための手。

 その礼節に、伯爵家で叩き込まれた作法が自然と反応する。私は笑い、手を重ねた。


「盟約を結ぼう、竜の女王。帝国第二皇子として、俺は帝国が竜王国の独立性を尊重し、その規約の制定に協力することを誓う。対等に」


「――アメリア・リーヴスとして、竜の友として、私は竜王国の規約を編み、人と竜の間に手順を置くことを誓う。感情ではなく、手順で守る」


 結んだ手の向こうで、海が一段高く砕けた。空の影竜が歓声のように輪を広げ、アシュタルは低く、高らかに咆哮した。

 それは祝砲のように胸を震わせた。


 決めれば、やるべきことは山ほどある。

 私は岩棚の上に、石板を並べた。七年で採取した鉱石と竜骨の粉で作った“写し板”だ。片方に刻めば、乾く前にもう片方にも転写される。遠く離れた洞窟の板とも連動して、合図を送れる。

 即席の通信網――半島版の“狼煙”だ。

 影竜の群れには巡回の経路を割り当て、海竜には浅瀬の見張りを頼む。洞窟の若竜には、侵入者が来た際の退避ルートを教える。

 指笛と手の合図、木札の色、焚き火の煙――それらに意味を持たせる。

 感情の熱は、手順に落として初めて長持ちする。

 私はそういうやり方を、前世で覚えた。悲しみを越えるたびに、ノートに“やり方”を書いた。泣いた日の後片づけ、落ち込んだ日の食材、眠れない夜の歩き方。

 だから今も、規約を作る。竜と人が傷つけ合わないために。


 昼前、レオンは海へ出た。打ち上げ船の残骸から使える材を拾い集め、私と竜たちで即席の帆走艇を組む。影竜が帆先を引き、海竜が潮を読む。

 あり合わせの舟は、風を受けて意外なほど素直に進んだ。

 岬の先でいったん帆を落とす。彼は舵に手を置き、私のほうを見た。


「……本当に来るのか?」


「来るわ。あなた一人で行かせない。帝国と竜王国の“最初の会談”に、王国の人間がいないなんて滑稽でしょう?」


「王国の王は誰だ?」


「決めてない」


「なら、俺は“王はまだ不在だが、王冠は竜の背にある”と伝える」


 冗談のようで、冗談に聞こえなかった。

 私は頬を指で抑え、笑う。笑いながら、喉の奥が少し熱くなる。ここを出るのだ。七年の楽園を。竜の鳴き声に起き、潮の匂いで眠る日々を。

 だが、私が外へ持っていく。鳴き声も、匂いも、翼の重さも、全部。持ち出して、置き場所を作る。


「ねえ、レオン」


「なんだ」


「帰りは、あなたの船で帰ってきたい」


「約束する。帝都の造船所に命じて、一番大きな甲板を作らせよう。竜が降りられるようにな」


「贅沢ね」


「王国への礼儀だ」


 彼の笑みは、よく晴れた空の色をしていた。


 ――そして、昼下がり。

 見張りの影竜が、急角度で降下してきた。警戒の合図。翼の先を二度大きく振るう――“多数、来航”。

 私は崖の上へ駆け上がる。アシュタルが背を貸し、一息で断崖の縁に出た。

 水平線の手前、帆影が三、いや四、五――数え切れない。三角帆と横帆が入り混じり、艦列は弓なりに湾へ向かっている。旗が翻った。

 黒地に白の蔦――祖国の王家の旗。

 その後ろに、青地金糸――アルテミア帝国の紋章。


 胃がきゅっと縮んだ。祖国と帝国の艦が、同時に来る?

 いや、陣形が違う。

 先頭の数隻は祖国の軍船。帝国の旗はやや後方、護衛の位置――まるで“観測役”か“仲裁役”のように。


 写し板に刻む。〈来航 多数 王家旗 帝国旗〉

 洞窟側から返答。〈避難網 起動〉

 影竜が空に散り、海竜が潮の下で列を作る。砂浜の若竜たちが尾を打ち鳴らし、私の足元に寄ってくる。

 レオンが崖を駆け上がってきた。私を見るなり、息を飲む。


「……祖国の旗だな」


「ええ。帝国も一緒」


「帝国の先遣か、あるいは“見届け人”だ。祖国は形だけでも“引き取り”に来たのかもしれない。“処分済み”を回収し、口を塞ぎに」


「口なら、開けるためにある」


 怖さはある。けれど、もう足はすくまない。

 私はアシュタルの背に飛び乗った。レオンが隣に並ぶ。

 崖上の風が二人の髪を巻き上げ、海は白く砕ける。

 私は胸の奥でゆっくりと息をついた。七年分の潮の匂いが肺に満ちる。


「――行きましょう。竜王国、最初の“入港審査”よ」


「了解、王国の監督官殿」


 アシュタルが翼を大きく広げ、身体が持ち上がる。

 空は思っていたより軽く、海は思っていたより深い。

 眼下で竜たちが隊列を組む。影竜は上空で風を切り、海竜は白線のように波間を走る。

 私は両腕を広げた。風が骨に沁み、恐怖は翼の内側で熱に変わる。


 ――ようこそ、竜王国へ。

 あなたたちの来訪を、規約と手順で迎え入れる。

 涙も、怒りも、七年の孤独も、ぜんぶここに積んである。

 だから、私たちはもう、泣くだけの子どもじゃない。


 艦列の先頭にいるのは、祖国の王都騎士団の旗艦だった。甲板に銀の甲冑が並び、見覚えのある紋章が視界を刺す。リーヴス伯爵家――かつての家の紋。

 そして、船尾楼には、母と父に似た影。

 隣に、淡いピンクのドレス。リリアナの笑顔が、遠目にも判るほど“作られて”いた。


 アシュタルが短く唸る。私は頷く。


「最初の質問よ」


 声が風に飲まれないよう、胸の内で言葉を整える。

 規約第一条――“竜王国の領域へ入る者は、その目的を明らかにし、王国の監督官の指示に従うこと”。

 監督官は、私だ。


 私は空から艦へと降り、声を張った。竜の咆哮と波の轟きが、言葉の背を押す。


「――来訪の目的を述べよ。ここは、私の国だ」


 祖国の艦の舳先で、誰かが驚いて顔を上げた。

 リリアナの笑みが凍り、父の口元がひきつる。

 そのさらに後方、帝国旗の下で、蒼い外套の将が小さく頷いた。レオンが言っていた帝国の名宰相――名だけは知っている。彼は何かを“見届け”に来ているのだ。


 世界は、いま確かにこちらを向いた。

 七年の孤独は、口を開き、言葉になった。

 竜の背の高さから、私は初めて、外の世界と目の高さを揃えたのだ。


 ――ようこそ、交渉の卓へ。


(つづく)

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