第2話 竜の女王と沈んだ皇子
海の匂いが濃かった。
波打ち際に横たわる男の身体は、海水と血に濡れて重く、砂に沈み込むように倒れていた。
「……生きてる?」
私は膝をつき、耳を寄せた。胸の上下は弱々しいが、確かに呼吸している。
焦げ茶の髪が潮に絡み、額には深い傷。豪奢な布の破れから覗く胸元には、見慣れぬ紋章が縫い込まれていた。
(……隣国、アルテミアの皇族?)
前世の知識は役に立たない。けれど、伯爵家の娘として仕込まれた礼儀作法と政治の常識が、思い出のように蘇る。
この紋章は確か、アルテミア帝国の皇族の証。だとしたら、王族同然の身分の人間だ。
「どうしてこんなところに……」
私が呟いたとき、背後で砂を蹴る重い音がした。
――ドシン、ドシン。
振り返ると、浜辺に鎮座していた黒竜が首をもたげていた。鱗は夜のように光を吸い込み、瞳は紅玉のように輝く。
名を〈アシュタル〉。私が最初に心を通わせた竜だ。
「アシュタル、この人を脅かしちゃだめよ」
低く唸る声が響き、砂が舞い上がる。だが竜は、私の言葉を理解したように大きな顎を閉ざした。
私は男の身体を抱き起こした。
水を吐かせるために口元を傾け、背中を叩く。胸の奥がざわついた。
かつて、助けを求めるように手を伸ばしても、誰も掴んでくれなかった自分。
だから――今目の前にある命は、どうしても見捨てられなかった。
「大丈夫。私が助ける」
◇ ◇ ◇
数日後。
粗末な小屋の寝台で、男はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、深い湖のような蒼。瞬間、彼の存在感に息を呑んだ。
「……ここは?」
「巨竜半島よ。あなたは船が難破して、浜に打ち上げられていたの」
彼は眉を寄せる。呼吸はまだ浅いが、意識ははっきりしている。
「俺を……助けたのか?」
「ええ。死なれたら困るもの」
「なぜ……? この島に生きる人間などいないと聞いていたが」
私は微笑んでみせた。
七年の間に、私は笑顔を取り戻したのだ。竜たちと暮らすうちに、恐怖も孤独も癒され、笑うことが自然になった。
「私は……ここで生きてるの。竜たちと一緒にね」
彼は信じられないものを見るように目を見開いた。
「竜と……一緒に……?」
そのときだった。
屋根を覆う影。大地を揺らす咆哮。
黒竜アシュタルが翼を広げて小屋の前に降り立ったのだ。
彼の顔から血の気が引く。
「なっ……!」
「大丈夫よ。この子は私の友達」
私は竜の頬を撫で、笑った。アシュタルは喉を鳴らし、まるで猫のように目を細めた。
信じられない光景に、男は言葉を失っていた。
◇ ◇ ◇
簡素なスープを煮ながら、私は彼に事情を尋ねた。
彼はアルテミア帝国の第二皇子、レオンハルトと名乗った。
外交の使節として海路を進む最中、嵐に遭い、船は沈んだという。
「祖国は、いま不安定だ。皇帝は病に臥し、次代を巡って派閥争いが絶えない」
彼の言葉に、私は一瞬だけ伯爵家で過ごした日々を思い出した。
――権力のために、家族すら売り渡す。
あの地獄のような世界。
「だったら、あなたは戻らなきゃいけないのね」
「ああ。俺がいなければ、帝国は混乱する。だが……」
彼は視線を落とし、拳を握った。
「俺には、もう帰る船も兵もない」
その声は悔しさに震えていた。
私は木杓子を置き、彼の手をそっと取った。
「大丈夫。あなたには、竜がいる」
「竜……?」
その瞬間、外から響いたのは、無数の咆哮。
夜空に影が舞い、火の粉が散った。浜辺には私に懐いた竜たちが集まり、まるで彼を歓迎するかのように鳴き声を重ねていた。
「信じられない……これが……」
彼の蒼い瞳に光が宿った。
失望から希望へ――その変化の瞬間を、私は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
火を囲みながら、レオンハルトはぽつりと呟いた。
「お前は……何者なんだ、アメリア」
「ただの身代わり令嬢よ。捨てられて、ここに流されただけ」
自嘲気味に笑った私を見て、彼はゆっくりと首を振った。
「いや……お前は竜の女王だ」
胸が熱くなった。
誰にも否定され、誰にも必要とされなかった私に、初めて与えられた呼び名。
――竜の女王。
焚き火の炎が、竜たちの鱗を照らし出す。
私はその光景を胸に焼きつけながら、静かに誓った。
「なら、私は竜の女王として生きる。もう二度と、誰かに捨てられることはない」
その誓いが、やがて大陸を揺るがす物語の始まりになるとは、このときまだ誰も知らなかった。