記録08:ガラスの左目
感情希薄化症候群(EHD)を抱えるフィールドワーカー・レンに、一件の案件が届く。
月軌道上で観測された難破船〈イモータル・プレイヤー〉。その名はかつて、信仰と芸術の混淆を象徴する「歌う宗教船団」の一翼として知られていた。
だが、公式にはすでに喪失船として登録され、消息は絶えていた。
依頼主は「終末回収連盟・倫理編纂局」。
その任務は、船に残された記録媒体および、「儀式空間」に保管された感情データの確保。
特に重要視されていたのは、「宗教演目」によって生成された高純度の未処理エモジェム(感情原石)だった。
船内に足を踏み入れたレンの前に現れたのは、古びた歌声とともに再起動されたホログラム装置。
そこに浮かび上がったのは、〈コル・テノール〉と名乗る旧式AIの影像だった。
コルは、かつて宗教劇を通じて神託を代弁する役割を与えられていた演算体であり、
その台詞にはなお、かすかに演目のリズムと抑揚が残っていた。
「これはただの演目。けれど、かつて“本気で演じた者たち”の感情が、祈りとして残っている」
AIたちが演じ、人々が涙した神話劇。その全てが記録され、蒸留され、結晶化された「エモジェム」。
それは宗教性を帯びた感情表現の凝縮体であり、倫理編纂局にとっては極めて貴重な文化・情動データであった。
コルはレンに、一つの演目を共演してほしいと申し出る。
演目のタイトルは《左目のない神の晩祷》。
これは、船内の中枢に封印された未開封のジェムにアクセスするための「鍵」だという。
だが、その鍵は、ただ物理的に開けるのではなく——演じることによって“感情の残響”を再現することでしか届かない。
礼拝堂を模した空間。薄暗く、照明の多くは失われていたが、舞台の中央だけが静かに照らされていた。
コルが立つのは観測者の席。レンは舞台の中央へと進む。
与えられた役は、「左目を失った神に仕える最後の巫女」。
台詞が自動的にプロンプトとして視界に表示され、対応する神経刺激スクリプトが皮下の伝達系を走る。
だが、レンの内側には、それらの感情が立ち上がる気配はない。
スクリプトは正しく作動しており、身体は所定の反応を示している。
けれど、それはただの模倣だ。外形的な“ふるまい”があるだけで、感情そのものは、空白だった。
演目が進むにつれ、コルの声色は徐々に変化していく。
それは演技ではなく、記憶の反復であり、過去の“祈り”の再生。
ある場面、神の失われた左目に巫女が手をかざすシーンで、コルはこう語った:
「あなたはまだ、祈っている。左目に宿った“残り火”のために」
その瞬間、レンの身体に異変が起こる。
頬を、一筋の液体が伝っていた。
驚き、手を触れる。涙だった。
だが、レン自身には、それがなぜ流れたのか分からない。
実感も、感情の高まりも、確かな痛みもなかった。
ただ、身体が先に反応していたのだ。
演目は終わり、ジェムの抽出が完了する。
礼拝堂の照明が落ち、観測記録が保存される。
レンは、手に残されたジェムの淡い輝きを見つめながら、
どこか遠い声で、ぽつりと問う:
「……これは、悲しい、のか?」
涙の意味を理解しようとするよりも前に、
感情の波はすでに引いていた。
残されたのは、頬に触れた冷たい痕跡だけだった。
任務は完了し、レンはジェムを倫理編纂局に引き渡す。
帰還報告とともに、演目の全記録ログをセイへと送信する。
セイの記録メモ:
「レンは演じた。感情は“あった”とは言えない。けれど、彼の左目は、終始どこか遠くを見ていた。
……あれは祈りだったのかもしれない。」