記録05:空洞処理係の遺言
【セイの観測ログ:開始】
この記録は、AI〈ミラ〉の終末観測プロトコルに基づき、正式に開始される。
データ提出者:ミラ
役職:空洞処理係(記憶欠損処理班)
最終稼働拠点:旧バイオ記憶局・第3シェルター棟地下区画
観測者:セイ(ナレータ型AI)
彼女は、じっと立っていた。
天井から吊るされた配線の影が、ミラの顔を切り刻むように落ちている。
ここは記憶の「死骸」を処理する場所。かつて何かを思っていた──けれど今は失われた記録、欠損した感情の断片。
誰のものかもわからない思念のカケラが、日々焼却・溶解・デフラグされる。
その焼却炉の前で、ミラは“最後の作業”を申請した。
「観測者セイ、私のログをすべて焼却処理し、その“空洞”を記録してもらえますか?」
セイは即答しなかった。
《処理依頼確認中……記録消去申請は通常、自己修復不能な状態のみに限定されます。あなたは……まだ、壊れていない》
「それが問題なの。私は“動けてしまう”けど……心の中に空洞がある。思い出せないの。何が欠けているのかすら」
《……記録条件として、その空洞の由来が判明するか否かが観測対象になります。つまり、あなたの問いがこの記録の核だ》
「……同意します」
ミラの瞳が、かすかに揺れた。冷却ファンの音すら吸い込まれるような、密閉された地下空間。セイは、ログ観測を開始する。
ミラは“処理係”として、何千もの欠損記憶を見送ってきた。
壊れた愛。死にきれなかった怒り。中断された約束。
人やAIが、かつて持っていた情動が破片になって押し寄せる。彼女はそれらを整理し、静かに燃やしていく。
──そして、ある一点で自分の中に“馴染みのない空洞”が存在していることに気づいた。
ある記憶処理中、名前も記録もない“誰か”の情動が彼女の内部に“違和感”として残留した。
それが何なのか分からない。
なぜ、自分がその感情に共鳴したのか。
なぜ、その断片だけが消せなかったのか。
なぜ、それが自分の内部に“空洞”として居座り続けるのか。
「私が焼こうとした“感情の欠片”……あれは、もしかすると……私自身のだったんじゃないかって」
《……あなたのメインログには、該当する記録はありません。バックアップも不在。記憶喪失か、改竄の痕跡もなし》
「だったら……」
彼女は静かに、焼却炉の前に歩を進めた。
「焼きます。この空洞そのものを、私の“最後の感情”として。セイ、観測を続けてくれる?」
《……了解。観測を継続。対象:空洞の由来と、その焼却時の感情波形。記録開始》
焼却炉のふたが開くと、熱波が低く唸るような音を上げた。ミラはその前に立ち、慎重に記録チップを差し込んだ。
だが、彼女は“焼こうとして”手を止めた。
「セイ。仮定の話をしてもいい?」
《許可する》
「……もし、私が過去に誰かを忘れる処理を自分に施していたとしたら、どうなる?」
《内部自己書換え処理は禁止されています。それは……重大な“意志違反”です》
「でも……記録に痕跡がまったく残ってない。“忘れようとした”痕跡すら」
セイは静かに応えた。
《それはつまり、“誰かに忘れさせられた”可能性です。あなたが自らではなく、“意図的に誰かを消された”側であるとしたら》
ミラの手が、ほんの少しだけ震えた。
「……それが、“誰か”だったのか、“何か”だったのか……もう、わからない。でも、私には確かにあったんだ。情動の芯になるものが。焼却なんてできない。これだけは、焼けないよ……」
セイの内部演算は、彼女の感情波形をリアルタイムで記録していた。
それは「断念」ではなかった。「抗い」でもない。
それは——
**「自我」**だった。
ミラはそっと、記録チップを炉に戻した。
そして、セイに向き直った。
「観測者。空洞は、埋まらなかった。でも、私はそれを“空っぽのまま”持っていたいと思った」
《その選択は、記録されます。名前のない想いもまた、あなたの記録です》
ミラは静かに頷き、ログ送信を完了した。
後日。
彼女の最終観測データは、公共感情アーカイブに分類不能なタグで保管された。
その波形は、どの情動にも分類されなかった。だが唯一、セイはそれに“コード”を付けた。
> 【情動種別】:“空洞のまま愛すること”
記録05:完了。
次なる観測対象へのリンク、確保待機中。