応募前から応募完了まで
「佐藤、これ、回覧。」
自席に座って、業務に取り組んでいると、会社の同僚から、回覧物を手渡された。
今どき、紙で回覧を回しているのは、うちの会社ぐらいだろうな、と、私は内心思いつつ、回覧物の内容を確認した。回覧物は紙1枚で、上部に
「求む!廃炉人材!」
とわざと目立つようにデカデカと表題が書かれていた。私は、あのニュースでやっていた奴ね、と内心思いつつ、回覧物の内容を読んだ。
西暦.2011年3月11日 太平洋沖で巨大地震が発生し、特に東北の太平洋側に面する3県は、地震と津波により、甚大な被害を受けた。俗に言う、東日本大震災だ。その中でもF県にあった原子力発電所で、地震と津波の影響で、原子炉内の電源が喪失し、原子炉の安全装置が機能しない状態となった。7基中3基で原子炉内の核反応が過剰となり、原子炉内の温度が上昇したが冷却機能は喪失していたため、原子炉内の温度は上がり続け、最終的に水蒸気爆発が発生し、原子炉や原子力発電所内の建物の一部が爆発で吹き飛び、原子炉内は炉心溶融の状態となった。水蒸気爆発が発生した際、燃料が過剰に反応した際に生成された放射性物質が大気内に放出されたため、F県の原子力発電所が設置された地域から半径20キロメートルに人間が生活できないレベルの放射性物質が巻き散らかされる事となり、その地域は、10年ほど、国から緊急避難区域とされ、人間が住むことが許されなかった。これが俗にいう、F県での原発事後である。
東日本大震災から30年が経過しようとしている現在、多くの人々は、震災で被った計画停電や避難住民の受け入れ等、苦しかった事実を忘れ、自分の手の届く範囲の生活に邁進していた。東日本大震災の被害は、範囲が広く、それぞれの被害が大きかったため、被災者が復興し、普通の生活を取り戻すまで、かなりの時間を要した。現在でも復旧半ばの地域もある。しかし、天変地異の多いこの国では、大雨、大雪による自衛隊への災害派遣要請を行うレベルの天災、範囲は狭くとも甚大な被害を発生させる直下型地震、等が毎年のように発生し、その都度、被災した地域への復興支援が行われた。その結果、東日本大震災に関しては、10年過ぎたあたりから、毎年3月11日前後には、メディアでその復興具合を取り上げるものの、平時でのメディアの露出は、少なくなっていった。東日本大震災で直接、被災した人達の中でも、ある者は、被災したという事実を振り払うように、別の土地での生活を再スタートさせていた。
ただし、メルトダウンを起こしたF県の原発事故に関しては、発生から30年が経過した今でも、決定的な解決策が見つからないまま、とにかく原子炉外部から水を流し込み、メルトダウンした3基の原子炉を冷却する事に終始している。原子炉を冷却するために使用された水は、自然分解できない放射性物質を含むため、汚染水、と呼ばれた。汚染水は、はじめは原発事故が発生した土地を国が買い取り、巨大なタンクを数多く作り、そのタンクに貯められていた。しかし、タンクの容量が限界に達した、原発事故から約10年後、汚染水は、国の判断で、F県の太平洋沖に放出された。原発事故以降、風評被害で苦しんでいたF県住民は、頑なに汚染水のF県の太平洋沖への放出に反対していたが、訴えも虚しく、結局、国に押し切られた形だった。
メルトダウンを起こした原発3基は、それぞれ、原子炉の損傷度合いが異なり、燃料が光熱で溶け、原子炉を構成する物質と混ざってできた、デブリと呼ばれる物質も、原発3基でそれぞれ、容量と形態が異なっていた。左記原発3基の廃炉にあたり、デブリの除去が一番の問題であるが、様々な知見を持った学者が、知恵を絞って、取り出し方法を検討したが、抜本的な解決策は、見つからなかった。招集された学者の専門分野は、原子力工学を皮切りに、エネルギー工学、安全工学、材料工学、機械工学、電気・電子工学、と様々であった。災害ロボットを主に研究している学者のチームが、放射線量の高い場所でも活動できるロボットを開発し、原子炉内の写真を撮影した時は、廃炉に向けて、一歩前進したようにも感じたが、実際のデブリ除去作業に対応できるロボットアーム付き作業ロボットの開発までには至らなかった。F県は東北地方にあるため、東北に拠点のある大学は、廃炉に向けて学部を超えてチームを作り、継続的に支援を続けたが、その他の地方にある大学では、国からの補助金が無くなるのが縁の切れ目、とばかりに、次第に廃炉に関する研究に距離を取り始めたように感じられた。
廃炉に向けての研究の潮目が変わり始めたのは、東日本大震災から20年が経過した頃だった。放射性物質は、大気にも存在しており、実は、国際線の飛行機に搭乗すると、人は宇宙から降り注ぐ放射性物質を受け、軽く被ばくする。その被ばく量は、日常生活に問題ない放射線量のため、海外渡航者に、大きな制限はかけられていない。大気がある地球でも被ばくするのだから、大気のない宇宙では、宇宙飛行士は、船外活動で、結構な量の放射性物質を人体に受け、被ばくする。ただ、宇宙飛行士が被ばくで致命傷に至らないのは、特殊な手法で制作された宇宙服に依る所が大きい。放射線量が高い場所でも人体が被ばくする事なく活動できないか悩んでいた国の廃炉担当機関が、宇宙服に目を付け、まずはその技術の使用料を、宇宙服を制作する会社に支払い、国の研究機関で、その特徴を徹底的に調査させた。その結果、国の研究機関は、放射線量が高い場所でも、放射性物質の影響を99.9%カットできる素材の開発に成功した。その素材は、量産化することが可能で、宇宙飛行士が船外活動で着る宇宙服の要領で、放射性物質の高い場所でも、放射性物質の影響を受けない、新型防護服の量産が可能になった。確か、1着あたり、日本円で100万円くらいだったと、私は記憶している。この新型防護服は、宇宙服と同様、密閉された状態で着用するが、背中に酸素ボンベを搭載しており、酸素ボンベの容量である、3時間を限度に、新型防護服での活動が可能になった。もちろん、無線機能も付属しており、作業中、廃炉対策本部との会話も可能である。これで、新型防護服を着て、作業する人間さえいれば、デブリ除去等の廃炉作業が可能となる環境が整った。
問題は、その作業する人間だ。いくら放射性物質の影響を99.9%カットできる防護服、と言っても、廃炉作業中、不具合で新型防護服が破れる可能性がある。そしたら、あっという間にお陀仏だ。こんな危険な作業を、率先して行う人間を探すのが大変だ。
そこで、官民一体となって、廃炉作業に従事する人間を、全国から募集することになった。まずは、原子力発電所を設計したことのある、電機メーカ3社が対象だ。この3社を仮に、A社、B社、C社とする。3社とも、原子炉の方式は違うが、原子力発電所の設計に長けた会社だ。原子力発電所の部分的な要素技術であれば、他の会社も対象になるだろうが、原子力発電所の原子炉建屋などのハード面、制御装置を動かすソフト面、両方を一挙に手掛けることのできる会社は、この国では、この3社だけだ。この3社の従業員の中で、先程の防護服を着て、廃炉作業を行う人間を募集する事にした。選ばれた人間には、1年間、F県にある廃炉対策員会に出向扱いとなり、その間、週休2日でデブリ除去などの廃炉作業に従事してもらう。廃炉作業中の事故などで命を落とす事なく、1年間勤めあげた暁には、その従業員の年収の10年分を、国から支払う、という内容だった。ニュースで概要は聞いていたが、本気で考えているのだな、と私は、その紙を見ながら思った。紙には
「詳細は、以下ホームページまで」
と書かれており、検索ワードが記載されていた。
この国で、人命より経済活動を優先する雰囲気が醸成されたのは、20年前に全世界で流行した、新型コロナウイルスへの対策からだと、私は記憶している。中国が発生元である情報が有力だが、中国を起点に、新型コロナウイルスが飛行機移動するビジネスマンや観光客を介して、全世界的に拡散された。新型コロナウイルスが発生した当初は、未知な部分も多く、罹患者の死亡率は高く、ウィルスに対するワクチンも作られていなかったため、ロックダウンと言われる、外出禁止令が各国で発令された。この国でも、不要不急の外出は禁止され、人々は、自宅でインターネット回線を利用した、リモートワークで仕事に従事し、生活必需品は、お金に余裕がある者はネットスーパーで購入、自宅前に置き配してもらい、お金に余裕の無い者は、買い物の回数を減らし、買い物に出る際は、マスク、アルコール消毒を徹底し、決死の覚悟で買い物を終わらせた。新型コロナウイルスは、何度か性質が変異する、変異株が流行したが、その度に変異株に対応するワクチンが開発され、死亡に至るまでの重症化リスクが低減していった。新型コロナウイルスが世界中に蔓延してから3年が経過し、世界では、罹患による重症化リスクが低減したことを理由に、感染症対策を緩和する国が複数現れた。この国も、世界の潮流に乗る形で、新型コロナウイルスの感染症レベルを2類から、インフルエンザと同等の5類に変更する決定がなされた。ただ、この決定の時点で、新型コロナウイルスには、インフルエンザのように、罹患した際の特効薬が開発された訳ではない。また、2類から5類に変更になることで、医療機関の負担が変わるわけではない。この時の国の医療分科会では、2類から5類への移行には、十分な議論を行うよう、提言を続けていたが、時の政府は、その提言を無視し、経済を回す方が先、の一点張りで、新型コロナウイルスの感染症レベルを2類から5類に変更した。5類に移行したことで、新型コロナの患者の報道は、週一回の定点観測になった。実際に新型コロナウィルスに罹患し、重症化し死に至るケースもあったのだろうが、メディア媒体が新型コロナウイルスの情報を取り上げないことで、人々は、次第に新型コロナウイルスがあったことを忘れていった。経済活動に梶を切った事で、企業の業績はそれなりに伸び、政府は、その部分だけを強調して、政策の正当性をアピールし続けた。このことが前例になり、この国が世界の中で生き残っていくためには、経済活動のみを活発にすればよい、という前例が生まれた。その後、政府の首相が変わっても、経済活動優先の政策は変わらず、そのために発生する歪みは見過ごされる状態が、20年経過した現在になっても続いている。
私は、自分の仕事に少し余裕があることもあり、インターネットのブラウザに、紙に書いてあった検索ワードを入力し、ホームページの内容を確認してみることにした。検索結果から、該当のホームページに到着すると、外見が宇宙服に似た、防護服が全面的に表示されており、その防護服の利点が、これでもか、というくらい記載されていた。最初、私は、この情報の閲覧には、所属するA社の社員コード等、個人を特定するものが必要だと思っていたが、国としては、この新型防護服の凄さを全面に押し出したいらしい。新型防護服に関する情報は、誰でもアクセスできる状態であった。新型防護服のいい面だけ書いているとなると、きっと欠点もあるのだな、と私は裏を読みながら、ホームページ下部の、
「廃炉作業員募集」
のタブをクリックした。タブをクリックすると、廃炉作業員を募集する、先程述べた程度の内容が、大まかに記載されていた。募集要件の中で、新たに判明した事は、今回の廃炉作業員に募集できるのは、A社、B社、C社の正社員、並びにグループ会社の社員、と言うことだ。
私の所属するA社の場合、A社の本体の社員がいて、その下にグループ会社と言う名前で、協力会社の社員が、A社の社員の仕事を請け負う形で業務に就くという、A社の社員を頂点にした、ピラミット型の構造になっていた。A社の社員は、全国から入社希望者を募集しており、出身地も北は北海道、南は鹿児島とバラバラで、最終学歴も大学卒業、または大学院修了者が多かった。一方、グループ会社の社員は、地元で職を得る事に特化した人材が多く、出身地はA社の工場があるI県の近郊の者が多数で、高校を卒業後、そのままグループ会社の社員として経験を積んでいる者も多かった。私もA社の社員、という立場だが、グループ会社の社員の方のほうが、製品に対する経験と技術を持っている方が多く、ピラミット型の構造に反する様に、フラットな関係で業務を行っていた。ただ、A社の社員の中には、自分が偉い訳でもないのに、A社の社員としてグループ会社の社員を服従させて自尊心を満たす社員も、一定数いた。よく、製品を納期までに納めるためのプロジェクトを円滑に進める指針として、人、モノ、カネ、と言われるが、A社の社員として、一定金額のカネの管理を任されるため、つい、偉くなったと錯覚してしまうA社の社員がいた。私は、他人に対し、尊厳を無視した対応をする社員とは、性格上合わなかったし、偶に一緒に仕事をする事があっても、うまくいくことはなく、大体、揉め事に発展した。A社でそうならば、B社、C社でも、ほぼ同じような構造であると推察される。実際、学生時代の同級生で、B社に勤めている友人に勤務時間等を確認したところ、A社とB社の始業時間、就業時間が全く一緒だったため、非常に驚いた記憶がある。私は、この、グループ会社の社員も応募可能、という文言を見て、意味を曲解されて、本人の意思に反し、人数合わせのために、A社の社員がグループ会社の社員に応募を強制する事態が発生しなければ良いな、と感じた。また、募集要件を見ていくと、年齢の上限は50歳まで、健康面で不安のある場合は、医師の診断書があれば、廃炉作業員に応募できるようだ。私はまだ30代後半だし、仕事のストレスによる暴飲暴食が原因で、肝機能の数値に異常があり、個人病院の内科には月1回、通院しているが、その医師に診断書作成を依頼すれば、健康面の問題はクリアできるだろう。
私は、この廃炉作業員の募集に、応募する方向で、心が傾きかけていた。私の幼少時に、東日本大震災が発生し、これまでの災害とは規模が異なる大災害の映像や音声を、幼い私は、メディアから大量に浴びた。私が生まれ育った地域は、たまたま震災の影響は大きくなかったが、それでも幼少期の大きな出来事の1つとして、震災の影響は私の心の中に残り続けた。理工系の大学院の修士課程に在籍中、巷で起業して成功している様な方々と自分は、人種が違うように思い、一般的に大企業で、総合電機メーカである、A社、B社、C社への新入社員での入社を検討した。まず、私が東日本で生まれ育ち、大学も関東地方だったので、できれば東日本に拠点のある会社への入社を希望していたため、関西地方に拠点を置くC社は、入社の対象から外れた。A社とB社の企業説明会を受けにいったが、A社は誠実で真面目、B社はスマートで知的な印象を受けた。自分が、決して頭の回転の早い方ではなく、勉強や研究に取り組む真面目さだけが売りであることを、大学院時代の研究活動として、痛いほど自覚させられたので、私は、A社を第1志望として、就職活動を進めていった。A社の採用試験を受けた際、私に提示されたポストが、原子力発電所の制御装置の設計部門と、その品質保証部門の2部門だけだった。A社は、他にも、鉄道、上下水道、家電等、色々な製品を手掛けているはずであるが、私に提示されたポストは、その2部門だけだった。要するに、私は、A社の花形ポストで仕事をしていくには、実力不足と判断されたようだ。私は、原子力発電所、と聞いて、F県の原発事故をすぐに連想した。設計部門、品質保証部門、両方の採用面接官とも、F県での原発事故が発生した原子炉と同じ発電方式の原子力発電所をA社が手掛けていること、現在、原子力発電所の再稼働は、地元からの反対もあり、活発ではないこと、次世代型原子炉の製品化に向けて活動していること、の説明を受けた。そして、原子力発電所が次に再稼働する際、トラブルを発生させないよう、設計部門と品質保証部門がタッグを組んで、製品の製造から検査までに取り組んでいることも説明頂いた。私は、原子力発電所に、決していいイメージを持っていた訳ではないが、いずれ、廃炉までの原子力発電所の寿命を考えた時に、廃炉専門の技術者になるのも悪くない、と考えた。設計部門と品質保証部門、どちらに勤めるべきか、半日くらい悩んだが、設計分野であれば、理工系の大学で学んだ知識を活かす場面もあると思い、設計部門へ進むことをA社の人事の方に伝えた。結果、そのまま内定が出たため、私は、A社の原子力発電所の制御装置の設計部門の社員として、働くことが決まった。A社の社員は、新卒入社後、2年間の研修員期間を経て、晴れて一般職員になる。研修期間では、仕事を通じて、仕事に必要な知識と技術を身に着けていく。逆に言うと、3年目の総合職になった時点で、ある程度の知識と技術を身に付けていないと、会社では相手にされなくなる。その後、順調にいけば、入社5、6年目で係長になり、さらに責任の重い仕事を任される。ここでどのくらいの仕事を、どのように取り組んだかによって、上層部からの篩にかけられ、早い社員で入社8,9年目、遅いと入社14、15年目に課長となる。課長になった後は、その中でさらに仕事で会社に有益な行動を行った者が、部長に昇格、部長の中から複数の部をまとめる本部長が選抜され、最後に数人の本部長の中から、事業所長が選ばれる、という人事昇格レースに勝手に参加させられる。課長になった時点で、実際に実務を行うプレーヤー層から、プロジェクトを取りまとめるマネージャー層へ、業務内容が変更になるが、私が所属した原子力発電所の制御装置の設計部門では、係長になった時点で、どちらかというと、マネージャー層への業務シフトを暗に提示された。私は、係長までは何事もなく順調に昇格したが、直属の上司である課長の、上層部にはいいことだけを報告し、部下にあたる私やグループ会社の方には、実務者として物の様に扱う、強気を助け、弱気を挫く様な、任侠道とは真逆の仕事のやり方や、部門全体でも、事あるごとに、A社の社員とグループ会社の社員とで扱いに差をつける日常に嫌気が指し、部の懇親会など、機会がある所で、自分が思う所の、A社の社員とグループ会社の社員の扱いの公平性を上層部に訴えかけてきた。その結果、30代後半の現在、課長に昇格することができず、人事昇格レースから脱落した形になった。A社の社員で係長クラスになれば、年収は世間の平均年収より高いので、その部分だけは、私の傷ついた自尊心を満たしてくれた。しかし、原子力発電所の制御装置の設計部門で取り扱う技術は、基本、世の中で数十年の使用実績がある技術、よく言えば信頼性の高い技術、悪く言えば、枯れた技術のため、この部門で仕事をすることで、最先端の技術に出会い、それを身に付けることは、困難であった。入社時に期待していた廃炉に関する技術の習得についても、基本、この部門では、原子力発電所の維持、保守がメインの業務のため、飯のタネである廃炉を率先して行う者は、1人もいなかった。この部門では、公共の安全性よりも、日々生活していくためにお金を生み出してくれる、原子力発電所の再稼働、そのための製品の拡充が悲願であった。この部門のこういう利益優先の考え方も、私には肌が合わなかった。また、一時期は長時間労働が社会問題となり、A社でも残業を含む就業期間の管理が厳しくなった。しかし、納品先の顧客に、就業時間の管理が厳しくなったので、これまでの納期が守れません、納期を延長してください、とA社からお願いした所で、その依頼は顧客側では知ったことではないと却下されることが多く、予算が限られているため、追加人材を雇う余裕がない当部門では、サービス残業が横行していた。私も、ドラスティックに、業務に遅延の出ない範囲で手を抜いて、帰れる時は定時で帰る事をすれば良かったのかも知れないが、グループ会社の社員の方が、私が早く帰る分の仕事を残業して行っている、と考えると、サービス残業をせざるを得なかった。結局、私は、月平均40から50時間、サービス残業をしていると、想定していた。A社の同期入社の社員からは、
「サービス残業しないと回らない仕事はおかしいよ。」
と何度も釘を刺されたが、周囲の状況を総合判断すると、サービス残業1択しか、選択肢は残らなかった。私は、朝、自宅で起きて出社し、17時の定時を過ぎるまで、各部署との打ち合わせに奔走し、17時の定時になってから自分の仕事をはじめ、22時に仕事を終えて帰宅、それから夕飯を食べて24時に就寝、という生活を繰り返していた。トラブルが発生した時は、会社での終業時間が24時を回ることが多かった。この生活では、結婚して子供を授かった時、ろくな子育てができないと感じ、A社に入社した頃にお付き合いしていた方から見切りをつけられて別れてから、能動的には彼女を作らないでいた。A社の上層部では、仕事に邁進するあまり、結婚式の前日まで発電所でトラブル対応、当日だけ結婚式場に帰郷、結婚式終了後に発電所に戻り、そのままトラブル対応を継続した、という話を、武勇伝の様に話す幹部社員もいた。私は、その話を聞いて、A社にいる間は、結婚は難しい、とますます思う様になった。
また、私が所属する部門があるが、北関東のI県にあることも、私が廃炉作業員への応募に踏み切ろうとしている、大きな要因だった。私が子供も頃から、都道府県魅力度ランキングが巷で行われるようになり、I県は、最下位が定位置、良くて47都道府県中40何位の順位を叩き出していた。私は、今の所属の部門に就職が決まった際、魅力度ランキングの順位が頭の中をちらつかなかった訳ではないが、実際住んでみたら、新しい発見があるかも知れない、と思っていた。その期待は、見事に裏切られた。まず、コンビニ以外、商業施設が点在しているため、生活には車が必須だ。学生時代、交通事故に遭い、軽い後遺症が残っている私は、車の運転に苦手意識を持っていて、一応、親の勧めで運転免許は取得したが、I県に住んだ時は、ペーパードライバーだった。そこから車を購入し、運転を思い出すのに、しばらく時間がかかった。またI県に住む住人は、よく言えば自分を持っている、悪く言えば頑固だった。彼ら、彼女らに仕事を依頼するために、私は、生まれ育った地元にいたときよりも、2倍の労力を要して、微に入り細に入り、説明を行った。一事が万事、この調子なので、仕事をしていると、私は、残業時間には、説明だけでクタクタになっていた。私はいつの頃からか、I県を脱出して、別の土地で暮らしたい、と思うようになっていた。
このように、人事昇格レースからも外れ、長時間残業が常態化し、住む土地にも慣れない私の日常では、仕事以外で楽しみを見つけることが難しくなっていた。家族を持ち、プライベートを充実させるにも、相手方の事を考えると、婚活には踏み出せなかった。ここまで日常が充実していないなら、思い切って転職する手もあったかも知れないが、日々のサービス残業に追われ、転職活動をする気力も失われていた。そこに飛び込んできた、廃炉作業員の募集である。廃炉作業に従事することで、私の中の世の中のためにいいことをしたい、という自尊心も満たされる。そして、作業中の被ばくの可能性はあるとは言え、1年働けば、年収の10年分のお金がもらえ、そのお金を貯金して資産運用に回し、老後の資金を貯めるもよし、そのお金を当座の生活費として考え、賃金が下がっても、もう少し労働環境の整った会社に転職活動をする、または、5年計画で大学院の博士課程に戻り、博士号を取得するもよし、と選択肢が広がるように思えた。廃炉作業で被ばくした場合は、そこで人生が終わるのだから、今のA社での長時間労働による生殺しの環境よりはいいのかな、と思う自分もいた。ただ、所属する部門内に、私の心情を吐露できる人間は、人事異動で、現在はいなくなってしまったので、この考えは、あくまで私の中で収めておく必要があった。廃炉作業員の募集締め切りは、3か月後である。紙の回覧を受け取って15分くらい、私はそんな事を考えていた。
廃炉作業員募集の概要を知ってから2週間後、同期入社の社員の1人と、週末、酒を飲む機会があった。その同期入社の社員は、大学浪人することなく、学部卒で入社した社員で、入社当初は、自分に対する自信が過剰で、かつ、技術的な実力が伴っていなかったから、詳細を心配されたが、他人から見下されたくない、という自己愛が人一倍強く、その自己愛を原動力に、業務に必要な資格を次々取得し、現在は、所属部門の貴重な戦力として、仕事に邁進していた。自分の見た目にも気を使い、中肉中背で容姿も悪くなかったため、プライベートで5年前に結婚し、彼の地元の関西で結婚式が行われたため、I県から新幹線で遠路はるばる出席した記憶がある。ただ、盛大な結婚式にも関わらす、3年前の夜逃げ、ならぬ、昼逃げで、妻が出て行ってしまい、彼の結婚生活は強制的に終了となった。昼逃げ、とは、朝、夫が会社に出社した後を見計らって、事前に依頼していた便利屋等と協力して、現在の住居から生活に必要な物品を移動した後、本人も雲隠れする行為だと、私は、テレビの便利屋特集で知識を得ていた。昼逃げの知識は知っていたものの、実際に体験する人を見るのは、今回が初めてだった。彼にとって、その出来事は、人生のイベントにおいて、唯一かつ最大の失敗だったらしい。その後、彼と酒を飲む機会があったが、
「これまで築き上げてきたものが、一気に無に帰った気がする。」
と話していた。結婚生活が上手くいかなかった事は残念だが、彼より数年長く生きている私からすると、彼の人生は、それまでが上手くいき過ぎていて、早い人だと中学受験、その後、高校受験、大学受験、入社試験、という、俗にライフイベント、という、それぞれのカテゴリーで経験する挫折を経験していない人間の発言だな、と私は感じた。そこで、私は、
「これでやってきたことが無駄になるなら、世の中の半分の人間は、既に無駄を経験しているよ。」
とワザと強めの言葉を投げかけておいた。その後、彼は立ち直り、再婚に向けて、活動の真っただ中のようだ。同期入社で入社した20人の社員も、会社を辞めるか、結婚して家庭を持つか、で疎遠になってしまい、私が気軽に飲みに誘えるのは、彼くらいになっていた。
所属する事業所のある最寄り駅に程近い居酒屋で、彼と落ち合い、店員さん生ビール2つ、あわせて簡単なつまみを注文した。最近は技術革新が進み、店側も人件費を削減する意味合いから、店員型のロボットが、注文や配膳を行う店が大半になっていた。今回訪れた店は、昔ながらの居酒屋で、店長の他に、店員さんが注文など雑務をこなしており、そのアットホームな雰囲気が気に入って、飲み会がある時は、よく利用している。私が誘った彼は、
「またあの店かよ。」
と言っていたが、今回は私が強引に押し切った。私と彼とは、同じ事業所には所属しているが、所属する部門が全く異なる。同じ事業所にいても、部門が異なると、関係する人間も異なってくるため、お互いの話が噛み合わないこともある。彼の場合、口は硬い方ではないが、私の思っていることを話しても、私の部門の関係者まで、その内容が伝わる可能性は低かった。お互い、仕事の愚痴を言い合った所で、私は、今、募集が罹っている廃炉作業員に応募しようと思っている、と彼に打ち明けた。彼は、私が仕事で行き詰まっていることを知っているので、深く詮索することもなければ、その申し出に、否定も肯定もしなかった。彼は、
「じゃあ、暫く、こうやって、飲めなくなるな。」
とつぶやいていた。私が、廃炉作業員へ応募する前に、その事実を伝えたのは、親兄弟も含めて、彼だけだった。
仕事に追われる日々を過ごし、数週間が過ぎ、廃炉作業員の募集の締切が近くなってきた。私は、その日の仕事をほぼ終わらせ、残業時間に、廃炉作業員の応募をインターネット経由で実施した。応募に関しては、個人情報保護の観点から、自宅の個人のPC端末から応募する事はできず、会社のPC端末から応募する仕組みとなっていた。申込みのログインページで、A社の社員番号を求められため、入力し、ログインした。入力項目は、入社試験の時のエントリーシートと、ほぼ同等であった。現住所や連絡先等、プロフィールとなる情報を淡々と入力していった。職歴に関しては、A社に入社して携わった仕事について、時系列に、感情を込めずに入力した。志望動機の記載欄で、多少、入力に戸惑った。I県に来てからの不満を全て記載する訳にもいかない。私は、志望動機の1つである、
「廃炉を通して、東日本大震災の復興に、少しでも協力する。」
という思いを広げ、志望動機の欄を埋めた。全ての項目の入力を完了し、見直しをした上で、私は、送信ボタンをクリックした。画面には、
「今後の連絡をお待ち下さい。」
との文字が、無機質に表示されただけだった。
廃炉作業員への応募から数日後、私は、仕事中に上司に別室に呼ばれた。別室には、部長が待機していた。部長は、相撲取りのように大きな体躯で、特に腹部の大きさが目立っていた。仕事に関する知識と鋭さには問題がないのだが、ある部会の立食パーティーで、司会者の挨拶の後の会食タイムで、部長自ら、我先にと大皿のパスタを分捕り、大急ぎで口の中に掻っ込み、1人咽る姿をみて、品性を失いたくないな、と私は思った。私の上司は、普段は定時に帰っていて、工程が守れなくなりそうになったり、トラブルが発生した時だけ、仕事を頑張る、という、変な癖がある。そして、私が嫌いな、マネージメント気質が強く、グループ会社の社員を、物のように扱う場面を、私は職場で何度も目にしている。私、上司と部長で、私が廃炉作業員に募集したことによる、三者面談が始まった。私は、少なくとも部長との面談が行われる可能性を想定していたので、あまり驚きはしなかった。部長からは、
「廃炉作業員に募集したみたいだけど、今の仕事に不満か何か、あるのか。」
と問われた。実際、仕事には不満があったが、それをこの場でぶち撒ける程、私も社会人経験が浅くはない。私は、
「いえ、特別不満がある訳ではないですが、社会貢献がしたくなったので応募しました。」
と応えた。上司からは、
「お前が急に1年間、抜けてしまうと、少なくとも直近1ヶ月、工程が混乱してしまう。社会貢献も結構だが、少し待ってもらえないか。」
と言われた。私は、どの口が言っているのか、と内心思いながら、
「しかし、廃炉作業員の募集にも締切があるので、私はそちらを優先しました。」
と回答した。
その後も、2人は、残業に関して、職場環境を見直す、とか、次の期が来たら、課長に昇進させる、など、ありとあらゆる手で、私の廃炉作業員への応募を阻止しようとしていたが、私は、頑として、その申し出を受け付けなかった。私の態度をここまで硬直させたのは、
あなた達の日頃の行いなのだから、と私は、押し問答している間、考えていた。30分ほど、押し問答が続いたが、2人は最終的に私の決意が固いことを知り、説得を諦めた。ただ、私が廃炉作業員に応募した事が部門内に広がると、私の後を追って、部内の従業員が応募、業務が回らなくなることを懸念した2人は、私に、廃炉作業員に応募したことを、社内で言いふらさないように、と念を押した。私は、素直に、
「はい。」
と返事をした。
所属部署での廃炉作業員の応募の了承を得た所で、今度は、私の両親に、応募したことを伝える必要があった。私は大して優秀ではないが、親の庇護の元、大学を卒業、大学院の修士課程を修了させてもらった恩があるため、事後報告でも伝える必要があった、事後報告にした理由は、ほぼ100%の確率で、親からの了承が得られないことが分かっていたからだ。私がA社に勤めて4年が経過した頃、私は、携わっている業務に嫌気が差し、転職を考えていた。しかし、両親に転職の話を持ちかけた所、旧態依然とした考え方であった両親は、大企業で安定している生活に、何の不満があるのか、と転職を容認してくれなかった。納得いかなかった私は、勝手に転職サイトに申し込み、その業者からいくつかの転職先を紹介してもらい、転職活動を行おうとしていた矢先に、原因不明の体調不良が発生し、下血で4日間ほど、病院に入院する事になった。多分、それまでの仕事での無理がたたったのだろうと、個人的には考えている。運良く、下血は収まり、その後、同じ症状が発生することはなかったが、転職に関しては、しばらく見送ることになった。転職に関しては、その後、機会が合わず、今に至っている。両親としては、息子が大企業の社員で、安定した収入を得て、自立して生活していて欲しいのだ。職歴が複数あり、副業も可能.となっている、現在の働き方から見ると、両親の考え方は、ひどく硬直的に私には思われた。しかし、今日まで、両親の言う事を聞いて、転職せずにズルズルとA社に勤め続けた私にも非があり、子離れ、親離れができていない親子なのだな、と我ながら思う。両親は今の事業所から遠方に住んでいて、テクノロジーに疎く、最新のアバターを使った、バーチャル空間での意思疎通ができないため、旧式の電話での報告となった。休日の夜、両親に時間をもらい、私が廃炉作業員に応募したことを伝えた結果、父は憤り、母は泣き始めた。ここまでは、ある程度の予想がついた。父は、何も危険を犯して、廃炉作業に取り組まなくても、今の仕事をコツコツと続ければいいのではないか、と何度も私に翻意を促した。私は、今の仕事の行き詰まりを指摘し、本来であれば数年前に転職するつもりだったが、大企業で勤めた方がいいという、父の意見も尊重し、今の職場で我慢して仕事を続けてきた、もう限界だ、と何度も反論した。結局、1時間電話で話したが、父とはお互いの意見が平行線のままだった。母は、ただ感情に任せて泣きわめくだけだったので、会話そのものが成立しなかった。私は、最後に廃炉作業員の決定の日程だけを伝え、一方的に電話を切った。やはり、両親と話すことは、仕事をしている以上に精神的に労力がかかる。私は、買ってあったウィスキーをロックで一気飲みした。
私から両親への廃炉作業員への応募の一方的な通達が終了して約1ヶ月後、私が職場で使用しているメールアドレルに、1通のメールが届いた。題名は、廃炉作業員の応募結果について、だった。私は、まだ定時内ではあったが、普段よりも仕事が落ち着いていたため、思い切って、そのメールを開いてみることにした。メールを開いてみると、本文には
「あなたは、廃炉作業員の応募に合格しました。」
との要件だけが書かれており、詳細は添付資料を確認すること、となっていた。私は、添付資料の内容を確認した。添付資料は、事務手続きについての詳細と、宣誓書の作成の2種類に分かれていた。まず、事務手続きに関する内容の書類に目を通した。私の場合は、身体検査で問題がなければ、廃炉作業員として作業する事ができるので、A社の施設で健康診断を受けること、並びに、健康診断受診の際、通院している内科の病院から、診断書を作成頂き、持参すること、と書かれていた。健康面に関しては、予想通りだった。出向扱いに関する手続きに関しては、これから約3ヶ月後に、廃炉作業員としてF県に移住してもらうので、それまでに事業所の人事部門と打ち合わせを行い、出向に関する手続きを行う様、記載があった。出向手続きに関しては、人事部門に顔見知りの方がいるので、後日、手続きの方法を後で聞いてみよう、と思った。住居に関しては、出向中は、F県の原発事故の対策委員会が建設した宿舎があり、その宿舎に費用無料、朝晩食事付きで1年間、生活できる事、ただし、割り当てられる部屋は、ユニットバスの風呂、トイレ付きで、6畳1間の広さなので、できるだけ荷物をコンパクトにして、宿舎に移動すること、と記載があった。私は、現在、6畳2部屋の賃貸アパートで生活しており、結構荷物も多いので、引越作業に時間がかかるから、計画立てて片付けを行うこと、そして、賃貸アパートの大家に引越の事前連絡を忘れずに実施すること、を普段使いの手帳に記入した。添付資料には、大体にそんなことが書かれていた。後、引越が発生するので、金融機関の住所変更や、郵便物の転送届の提出、電気・ガス・水道の契約の異動、住民票の異動等、普通の引越と同じ作業は必要だな、と個人的に考えていた。問題は、誓約書の作成であった。誓約書の作成自体は、A社に入社する際でも、会社で知りえた情報を社外に持ち出さない、守秘義務の順守等を確実に行うために作成を求められたので、今回も多分作成する必要があるな、と個人的には思っていた。ただ、その宣誓書の内容が、今回はかなり独特だった。簡単に要点だけ取り上げると、以下の3点になる。
1.廃炉作業で知りえた情報は、第三者には絶対に開示しないこと。
2.廃炉作業員として出向している際、体調不良や事故などで、既定の任期を全うできなかった場合は、任期終了後に支給予定の10年間の年収の話はなくなり、廃炉委員会が決定した月給のみ、在籍した期間に応じて支払われること。
3.廃炉作業員として作業中、万一、事故が発生した場合、出向先は、現在の医療技術でできるだけの治療の提供は無償で行うが、後遺症、または死に至った場合でも、廃炉委員会は一切の責任を負わないことを、廃炉作業員は承知した上で廃炉作業に取り組むこと。
上記の内容を熟読の上、納得した場合のみ、宣誓書に現住所、氏名、捺印の上、対策員会に宣誓書を提出すること、と宣誓書の作成資料には、ご丁寧に記入例付きで、記載があった。宣誓書の作成の段階になって、それまでは、どちらかと言うと、人の役に立ちたい、という使命感で応募していた廃炉作業員という職務に、私はようやく、自分の命を懸けて臨む必要があることを、再認識した。最初は、宣誓書の内容に驚きはしたものの、数日、時間が経つにつれて、私の驚きは軽減されていき、宣誓書を作成する段階では、宣誓書に署名をして、命懸けで廃炉作業員として1年、F県で働く方が、今後10年、I県のこの職場で勤務し続けるより、リスクが低い、と思うようになった。私の職場への不満は、既にそこまで広がっていた。私は、提出締切のだいぶ前に、宣誓書に署名の上、対策委員会に宣誓書を、配達記録が残る簡易書留で郵送した。
宣誓書提出からF県への居住移動までの3か月は、あっという間に過ぎ去った。業務面では、現在、抱えている仕事を全て吐き出し、関係者に説明の上、引継ぎを依頼した。毎週行われる部門内の昼礼で、私がF県の対策委員会に出向し、廃炉作業員として1年、作業してくることは、既に周知済だったため、引継ぎは、大きな混乱はなく、実施された。私の所属する部門から応募した者は、私1人だけだった。休日は、現在の賃貸アパートの引っ越しのための荷物整理に追われた。私は読書が好きで、主に古本を好んで購入し、収集する癖があったが、そのコレクションのうち、F県に持っていく本を厳選し、その他は、再入手可能な本は、古本屋に売り、手放したくない本は、レンタルルームとは名ばかりの簡易ロッカーを1年契約で借り受け、そこに保管することにした。F県の対策委員会に持ち込み可能な家電製品は、厳密に決まっていたので、持ち込み可能なPCやスマートフォンは、そのまま梱包して持ち込むことにした。それ以外の家電は、6畳1間の部屋には大きすぎる物ばかりだったので、やはり中古品の買い取り業者に売れる物は売り、売れない物は廃棄処分とした。服と靴は、仕事で使っている背広やYシャツ、あとは休日で着ている普段着を数着残し、残りはレンタルルーム行きになった。車は、F県の対策委員会に持ち込み可能だった。最近は、AI技術の発展で、自動運転が主流になり、運転者の負担も低減されていた。ただ、私は、学生時代、交通事故に遭い、1年間リハビリに費やした経験から、車自体が苦手、運転も苦手で、30分以上の運転はしないことを自分ルールとして決めていたので、代金を支払って、長距離でも車を移動してくれる、陸運業社を手配し、無事移動にこぎつけた。金融機関への住所変更や、住民票の異動などは、平日、1日有給をとって、対応した。毎週、目まぐるしく動き、F県への異動が刻一刻と近づく中で、同じ職場で働くグループの皆さんが、私のために、懇親会を開いてくれた。懇親会といっても、私を主役に見立てた、ただの飲み会だ。とは言え、結構な数の社員が、その懇親会には集まってくれた。私の嫌いな上司も、その場に出席していた。私は、その懇親会の間、懇意にしていたグループ会社の社員の方と昔話に花を咲かせていた。グループ会社の社員の方とは、こちらの不手際で怒られることもあったが、基本、人格者が多く、一致団結して仕事に取り組んでいる感じを私は感じていた。この方々とは、継続して仕事をしたい、とは思っていた。ただ、A社の社員とは、反りが合わない者もおり、上司をはじめ、よく揉め事を起こしていたため、その点では、この職場に居続けることは、私の選択肢になかった。2時間くらいが過ぎた頃、懇親会の幹事から、私に一言、挨拶を貰いたいとの申し出があった。私は、本心ではないけれど、
「1年後、この職場に戻ってくる予定です。その時は、また宜しくお願いします。」
と、簡単に挨拶した。懇親会が終わった後、2次会に流れる者もいた様だが、私は引っ越しの準備を理由に、1次会出席後に、賃貸アパートに帰宅した。