『蒼い海の中に沈む場所②』
まるで、足音を立てずに主人を誘う猫のように、ミラはキラをじっと見つめ、キラの意思を確認する。
キラが付いてくると確認したミラは、キラとの距離を一定に保ちながら歩いていく。
その繰り返し。
長い廊下のその向こうにある扉は、ハーブ園へと続くもの。ミラがその前で待っている。
「開けろ、ということだな」
そうか……魔女は過去を変え今を変える。人は今から未来を変える。
あの日、ここの扉を開けた日、ミスティがキラに伝えたことだ。だから、ミラが変えてはいけないのかもしれない。
そうか、これはおれの意志なのだな。
「ミラ、ありがとう」
キラの言葉にミラがきょとんと黒い瞳を丸くする。キラはそれに微笑み、扉を開いた。
一瞬、キラの視界が光に奪われた。きっとずっと眠っていたところに、久しぶりの外の光が差し込んだためだ。
そして刹那の閃きに慣れたキラの瞳が人影を認める。
ミスティだ。
いや、そもそも、あいつは誰なんだ?
キラの記憶には、ミスティの過去などすでにない。
ワカバが介在しない記憶を操る存在がいるのならば……。
始まりのトーラは、漆黒の髪を持ち闇色の瞳を持っていたという。
そして、この世界を掌握し、その娘の願いとともに消え去ったと聞いている。
「目が覚めたようね」
今も存在していたのか……。
キラは、ただ、その存在を単純に認めてしまった。
ミスティは静かなままローズマリーに視線と言葉を落とす。
「この植物を好む女性を覚えておいてあげて」
彼女はその言葉を言い終えて、やっとキラと向き合った。
ミスティと向き合うのは、これで二度目。生き物とは思えないほどに、彼女はとても静かだ。しかし、一度目よりも温度のある雰囲気を纏っているようにも思える。
これは、ディアトーラの強くない日差しのせいなのだろうか。
ディアトーラでは珍しくない靄のせいなのだろうか。
そして、その静謐さのなさが、どこかまだ夢の中を歩いているような不安定さをキラに感じさせるのだ。
「心配ないわ。そんなことくらいでは何も変わらない。あなたの実母よ。今はまったく別の人生を歩んでいるのだから」
とりとめのない一方的な言葉であるようで、それはキラにとっての答えであった。
それがキラの現状である。
全く違う人生を歩んでいるという実母。
おそらく、それはキラを生んだ過去がないということだ。
それは、キラが時の遺児として存在していることを、明確にした。
ただ、今もってしても、自身が何者なのかは分からない。しかし、ディアトーラにおいての領主候補の有力者はイルイダになる。しかし、キラはまだ彼女の存在を視認していない。
「イルイダは?」
「今は、教会であなたの無事を祈っているはず。これ以上家族を魔女に取られたくないのでしょうね」
「魔女に?」
魔女に取られたのだとすれば、ルオディックだけのはずだ。マイラは魔女として、ビスコッティはその息子に殺されたのだから。
「えぇ、あなたは森に取られた過去を持つ。そして、母親は魔女として、その魔女狩りを許した彼女の父親は、魔女の怒りに触れて殺された。すべてに魔女が関わっているのよ」
ミスティの言葉の中にある魔女は、おそらくワカバだ。ワカバがどうしてキラをここに戻したかったのか、それは未だに不明である。しかし『あの魔女』はきっと何かを思って、キラをルオディックにしたのだ。
そして、魔女の名前など、ミスティにとっては何の意味もないのかもしれない。
「ワカバも生きているんだな」
ミスティは答えず、ただ、キラを眺めるだけ。
だが、それは肯定なのだろう。
銀の剣までキラに渡し、消えたがっていた魔女だ。
どうして、それほどまでしてキラに覚えていて欲しいと思われるようになったのか、まったく分からないが、時の遺児として存在するのであれば、今、ワカバを覚えているのであれば、ワカバは生きている。
そして、そんなキラの願いなど、突っぱねるに違いない。
ワカバは、あぁ見えてとても頑固だから。
過去がどう変わろうとも、キラは自身の罪を覚えているのだ。一生かかっても消えるわけがない。
穏やかな日々など、……。
いや、……。
キラは顰笑した。
「覚えているんだ。何も変わらないな」
ある意味では拷問のようなことをキラにしていることに、ワカバはおそらく気づいてもいないのだろう。
キラはジャックになったきっかけを失ったのだ。
やっぱり、あいつは魔女には変わりないんだな。
それは、キラがジャックで変わりないことと同じように。
本当に、迷惑な魔女だ。
そんな思いとともに、なぜか怒りがないのは、ワカバがあんな魔女だったからだろう。
この世で一番泣き虫で、この世で一番凶悪な魔女。
迷惑なことしかなかったが、おそらくキラの望まないことはしていない。
そして、ディアトーラでのトーラの教えは必要以上に望むな、だ。
ジャックとして生きていく。
これは、キラが望んだことなのだ。
だから、キラはイルイダの確認はせず、ディアトーラを後にした。














