『蒼い海の中に沈む場所①』
長い長い夢を見ていた。もしかしたら、永遠に終わらないのかと思うほどの。
目を覚ました場所は、疑うべくもなくルオディックの寝室だった。
おれは今、誰として目を覚ましたのだろう……。
彼の瞳に光が戻り、天井を眺める。やはり、客間ではなく、ルオディックの私室だ。そして、枕元には手巾があった。
手巾……。
彼はゆっくりと寝返り、白い手巾を手に取った。すると、ローズマリーが一枝こぼれ落ち、清涼感のある匂いが鼻についた。広げた手巾の模様もローズマリーのようだ。
「ローズマリー……か」
あの魔女が刺繍をしていたのも、確か手巾だった気がする。
そして、ふと笑みがこぼれてしまった。
「あぁ、あの時の手巾の代わりを返してくれたのか……」
あの時……。
そして、彼は自分自身の違和を感じてしまった。
あの時……。
そう、ワカバが……砂漠で失くした。
「ワカバっ?」
慌てて起き上がると、腹部に激しい痛みを感じた。
これは……。
痛む腹を抑えた彼は、痛みを堪えながら、今度は腕をめくりあげる。
右腕の傷はない。
流れ込んでくる大量の記憶とともに、キラは自分の現状をはっきりと把握してしまったのだ。右腕の傷がなく、腹部にある傷。
これは、キラがルオディックとして生きた証なのではないだろうか。
イルイダは、ワカバは……。
父は? 母は?
ただ、キラは今、自分は『キラ』であると認識しているのだ。
焦る頭に、思うように動かない体。キラは、自分が何者であるのかを必死に考え、誰かが来ることを願っていた。確かめたいのだ。今、自分が誰なのか。
しかし、焦りは思慮を浅くする。だから、キラは大きく深呼吸し、辺りをもう一度見まわした。
今キラは、少なくとも二つの過去を生きた記憶を持っている。
まず、これが前提である。
そして、ルオディックが受けた傷は残り、キラの受けた傷は消えている。
キラは『ルオディック』としている、と考えることは簡単そうだが、『キラ』の記憶の説明がつかないのも確かだ。
キラは『キラ』であり、イルイダがここの領主として存在する今も記憶としてある。
分からないが、都合よく考えるのであれば、すべてを時系列通りに経験してきた、と考えれば、キラになったルオディックはワカバに出会い、傷を治してもらった後、再びルオディックとして過ごした時間があった、となる。
そこまで考えた時に、その答えを肯定するかのような気配を感じた。
扉の外にはあのミラの気配が現れたのだ。鍵を閉めた覚えもない。もし、監禁されているのであれば、鍵は外側。
気配も行動もミラそのものだった。何も言わず、ただ扉の向こうに佇む彼女を想像しながら、自分は時の遺児くらいにはなっているのだろうな、と、キラは苦笑した。
まぁ、あれだけトーラの道筋に反抗したのだ。そのくらいは仕方がないのかもしれない。
要するに、次はないということか……。
どこか諦めたように、扉の向こうに声をかける。入ってこないということは、開けろ、ということなのだろう。
「ちょっと待ってろ」
キラは、まだ自由にならない体をゆっくりと起こし、そっとベッドから降りた。
床に足をつくという振動だけで、腹部が鈍く響いてくる。
やっとのことでドアノブの掴まったキラは、苦笑いをしながら思う。
何にしろ、今は逃げられないということか。
扉を開けたその場所には、思った通りミラがいた。
ミラは蓋のついた乳白色の器をお盆に載せて立っていた。木匙が添えられているところを見ると、食べ物のようだ。
おそらく食事を運んでいるのだろうが、それが誰に向けてのものかも分からない。ただ、キラに招き入れられると、ベッドの枕棚の傍で、ゆっくりと歩くキラを見つめてくる。
「おれにか?」
尋ねると、ミラが頷く。
「食べられるかなぁ……」
ふと、キラ自身が驚くほどの弱気が口から吐き出された。こんな痛みくらいで、こんなに弱ってしまうとは。
それほどに、キラはここを自宅だと思っているのだ。
ため息よりも、あきらめの笑いが零れてしまう。
ルオディックの記憶によれば、この腹部の傷はかなり深かった。胃の壁だって傷ついているかもしれない。きっと、そんな記憶がキラを弱気にさせたのだろう。
ベッドに腰掛けたキラは、ミラからそのお盆をもらった。
器と同じ色の蓋を、先ほどの手巾を使って開けると、白く煙る湯気とともに、とろみのある乳白色の液体が現れた。
ミラは喋らないが、ミラがいるということは、ミスティもいるということだ。少なくとも、ターシャはいないのだろう。
いや、これも分からない。
「これは、ミスティが作ったのか?」
当たりをつけてミラに尋ねると、そのまま頷き、キラの傍に椅子をよせ座る。
「そうか……」
そして、そのままミラに食べることを見張られる。リディアスの監獄よりも食べにくい。
「……食べろってことだな?」
やはり、ミラはこくりと頷く。
相手が喋らないという状態は、ワカバで慣れていたはずだが、やはり慣れるものでもないらしい。
とりあえず、一口掬い上げたとろりとしたものに、息を吹きかけて湯気を飛ばす。
その湯気から薬膳のような匂いもする。
殺されることはないだろうが、意外と勇気のいる食べ物であることには違いない。
そう思う間も、ミラに監視されているのがひしひしと分かるのだ。食べにくいことこの上ない。
「治る…から……」
「えっ」
声がしたのは、ミラの声だったのだろうか。しかし、確かめようがなかった。ミラの口は閉じたまま、やはり無表情を保っている。
食べるしかないな。そう思わざるを得ない。
傷が治るのならば、動けるようになる。現状把握もしやすくなる。
魔女狩りの犯罪者としてリディアスが来るのであれば、なおさらに、このままではいけないのだから。
一口食べてしまえば、気にすることもない。
毒ならば、この後いくら食べようと死ぬだけだ。
大した量でもない重湯は、すぐになくなり、キラの体を温め、再びまどろみへと誘った。
夢の中で、キラはワカバに出会った。
いや、これは思い出していた……のだろう。
キング邸での出来事だから。
キラがワカバをその手に掛けようとしていた。
―――っ
がばりと起き上がったキラの目の前には、目を丸くしたミラがいた。
「ごめん……驚かせたよな」
もちろん、ミラは何も答えないが、おそらくその手にあっただろう本が床に落ちていた。
そんなミラが、何かを確かめるようにキラを見つめ、座っていた椅子から飛び降りる。
「悪かった」
しかし、キラの言葉を無視して扉の前まで移動したミラは、そのまま再び振り返り、キラをやはり見つめている。
そして気づいた。
痛くない、のだ。
シャツをめくりあげると、確かに包帯は巻かれてある。落ちた本を拾い上げるが、あの鈍い痛みすらない。ミラがキラに背を向ける。
しかし、ミラは動かない。
待っているのか?
「分かった。準備するから。少し待ってくれ」
寝間着を脱いで、ここにたどり着いたあの日に着ていた衣服を身につける。
きれいに洗われ、釣りダンスの下の抽斗にあったそれは、丁寧に畳まれていた。荷物はそのまま。
いったい何日くらい経っているのだろうか。
あの領主の日誌……は……
そう思った時に、ミラが扉の外に出てしまった。














