『トーラを持つふたり①』
女神像の歴史は浅い。まだ百年も経たないくらいだ。この偶像崇拝が出来上がった頃に、リディアスが勢力を増したのだ。それを機に、土着の女神はすべてリディアスの女神と重ねられた。
このディアトーラの女神はもちろんトーラである。そして、その容はルタの妹であるルカを模しているのだろう。だからかして、ルタにも雰囲気が似ている。
しかし、各地にある女神像も、どことなく同じ雰囲気を持っているのだ。
もしかしたら、銀の剣を齎す『ルタ』を正義と見誤ったのかもしれない。そんな風に思えるほど。
だから、ルタは教会の女神が嫌いだった。いや、それ以上に、その解釈が嫌いだった。
力を解放した女神のその両腕は大きく広げられ、ディアトーラのものと違い、光を受ける形にされてなかった。解放したのがリディアだとしたかったから。
リディアは確かに力の一部を人に解放したのかもしれない。しかし、制限している。
トーラは力を授けない代わりに、制限もしない。
何が正しいのかは、分からない。
『人の望むままに』がトーラだとすれば、『神の望むままに』がリディアだから。
ただ、世界を守るということだけを考えれば、リディアが正しいようにも、ルタは感じてしまう。だから、人々もリディアを信仰するものが多いのだろうとも。
それなのに、未だに光を受ける形を受け継ぎ続けている廃れた教会は存在するのだ。
その一つが、ディアトーラ。いや、この国は特別だ。
特別……というよりもこの世界の中の異端。
ただ、魔女のためにだけ存在する国なのだから。そして、その魔女の怒りに触れることを恐れるこの世界が、この国を存在させている。
ディアトーラの夜はしんとして深く冷え込む。教会においても同じく。月の光を通した蒼いステンドグラスが、教会を海のごとく染め上げていた。
今宵の光は、女神の手から零れ落ち、世界の潮時を物語っているのかもしれない。
ルタはその光の海の中、白磁の女神を見上げ、彼女を思っていた。
あの儚くも強い魔女のことを。
そして、人間であるルタが、トーラに負けなかったことを考えていた。いや、本当に単なる人間である『彼』ですら、トーラに流されなかった。
それらは、彼女が『ワカバ』を消したことに起因していると、ルタは思っている。
なぜなら、『ワカバ』だけが記憶の海の底までたどり着いたのだから。
ルタでさえ辿り着くことの出来ない、世界の根幹へ。
いや、『ワカバ』だけがトーラに勝ったのだろう。トーラが彼女を蝕まなかったということが、その証明なのではないか?
もう一度ルタは頭を振っていた。
違う。
あの子は、リディアにも気に入られていたわ。
だから、リリアはわたくしに力を貸してくれたのですもの。
そう、あの子は特別な存在……。あの時は、気づけなかった……。
ルタの見つめる女神像は、そんなルタを映す鏡のようにして静かに見下ろしていた。
そして、夜の教会の扉がゆっくりと開かれる。
扉の影に小さな存在がある。ルタは、静かに目を閉じた後、その存在をその瞳にしかと収めてから、その存在に声を掛けた。
「お待ちしておりました」
と。
☆
ワカバがここに来たのは、三度目である。
一度目はイルイダが祈りを捧げていた。森に消えた弟のルオディックの無事を祈っていたのだ。彼女は、その弟が『キラ』として存在していることは知らなかった。
二度目は、ルフィーユ。
やはり、ルオディックの存在を願っていた。ルオディックは、どの世界軸でも願われる存在である。キラであれ、ルオディックであれ、彼は存在しなければならない。
ワカバはそんな思いを深めた。
そして、彼の願いであったイルイダの話をルフィーユにした。いや、あの時はただルオディックを助けるための薬を渡す口実としてだけ。
『この世界軸以外に、あなたと同じように子の存在を望む者がここにあったわ。だから、あなたの気持ちはとてもよく分かる』と。
だから、薬はルオディックに渡り、おそらく、彼は目を覚ましただろう。
だから、後はこの世界に望まれたという『ワカバ』が彼女に居場所を、イルイダに明け渡せば、……。
この世界にはルフィーユの娘の存在があってもおかしくないのだから、きっと自然に彼女は、こちらの世界軸に馴染んでいける。
ワカバが存在した理由と同じなのだから『ワカバ』と『イルイダ』は親和しやすいはずだ。
しかし、どうしてあの時に足を挫いてしまったのか、どうして、ルオディックに助けられてしまったのか。
足を挫いていなければ、おそらく、追い詰められたあの魔女は、このディアトーラで、少なくとも……。教会に留まらず、町へと降りていけた。
町まで行けば、人間はたくさんいたのだから。きっと、たぶん。
その原因はルタしか考えられなかった。木の根があんな都合よくワカバの足を掴むわけがない。
リディアの化身であるリリアを使うことが出来るのであれば、それはルタしかいない。
そして、三度目の今は、そのルタがいた。
蒼い光の中にあるルタは、女神像そのものに見える。
黒い髪に黒い瞳は、イルイダとも言える。
その切ない雰囲気はルフィーユのものとも。
そのルタがワカバに気付き、深くお辞儀をした。
「お待ちしておりました」
と。
そして、すべてを見透かすその漆黒の瞳をワカバに向ける。
その色は、始まりのトーラと同じもの。本来、彼女がその力を持つべきだったと、ワカバは思っている。そして、彼女が力を持てない理由も、知っている。
トーラは、より強い人間の願いに惹かれる……。それが答えだ。
ワカバの目の前に佇むそんなトーラの娘は、ワカバに言う。
「『ワカバ』は消えていませんわね」
もしかしたら、名を付けられたあの時点から、ワカバはラルーに囚われていたのかもしれない。そして、『ワカバ』はキラたちが呼んでくれていた大切な名前になった。
捨てられるわけがない。
『ワカバ』は名前を呼んでもらえる、特別な魔女なのだから。覚えておくだけでも、覚えていたかったから。
「ラルーは消したはずなのに……」
ワカバの口から零れた言葉に、ルタが片頬だけで微笑んだ。まるで、どこかワカバを馬鹿にするように。挑発するようにして。
「見くびらないでくださいませ」
と。














