『朱と蒼に揺蕩う』
☆
窓の外では、雨が降っていた。
魔女は魔女狩りが起こらなかった、誰もいない魔女の村の屋根裏部屋で、手元灯りを頼りに刺繍の針を刺していた。
一針一針、丁寧に。
ルオディックは無事だろうか、と思いながら。
ただ、明け方には止む。
雨が止んだら、これをルオディックにあげるの。
そんなことを考えながら。
どうしてそんな風に思うのか。
考えて、ターシャの言葉を思い出した。
『次はルオディック様にも見ていただけると思います』
そうか。
だからか。
魔女は再び視線を刺繍に戻し、ローズマリーの完成を急いだ。
☆
背中を木に預け、体が逃げないように固定したルオディックが、腹にその短剣を突き刺した。
捻じれるような痛みと、ひりつき、脈動が全身に走り、思わず呻き声が出てしまう。しかし、ここで終わるわけにはいかない。
ルオディックは既に血に塗れて生温い手に力を込めて、その刃を引き抜いた。
全身の脱力と、意識の喪失。ルオディックはそれらに必死で抗った。
そして、彼は手から離れようとしない短剣を、気合いの限界とともに茂みの奥へ放り投げたのだ。
もし、意識のあるうちに奴らがやってきたら『魔女が刺して逃げた。剣も奪われた』とだけ言えばいい。おそらく、放っておくという決断はしないだろう。
そうすれば、人数は割れる。しかし、おれが動くことが出来なければ、喋ることが出来なければ。
魔女が魔女の村へ帰っただろうことは、分かるかもしれないが、行き先の証人はいなくなる。案内人はルタだけだ。
瀕死の者を、ここに放っておくことが出来なければ……魔女が逃げ切る時間が稼げるのだから。
そして、この状態であれば、尋問されることもない。
死人に口なし、なのだから。
あとは、今を何も知らなかった父に任せればいい。きっと、うまく立ち回ってくれる。
そんな願いを込めたルオディックは跡目ではなく、跡目候補という自身の状態に少しだけ感謝し、目を閉じた。
☆
暗闇の中、女の声がした。
その声はルオディックの近くまで来て、どうも彼を助けようとしているようだ。
余計なことはしなくてもいい、離れてくれ、そう願っても、彼女は離れてくれなかった。
声が遠くなる。何も聞こえない。そして、ルオディックはすべてから解放された。
蒼い海の中を漂っていた。とても気持ちよく。穏やかに揺蕩う体は、どんな痛みもなく、どんな不安もない。
それなのに、急激な熱さを感じ、景色が朱色に染まった。
魔女狩りが行われたのだ。朱色は炎の色。
あの魔女は。あの魔女はどうなったんだ?
慌てて火炙りが行われている場所へ駆け寄る。
「なんで……」
あの魔女が茨の冠を被り、炎の中にいる。そして、その口が開かれる。
「奴らは悪魔だ。容姿に騙されるな」
と、彼女がらしくなく、そう言った。
「違う、お前は魔女なんかじゃ……」
ふわりとした浮遊感を感じると、彼はまた別の場所にいた。
ルオディックは荒廃した魔女の村の真ん中に立っていた。手には銀の剣。模造品でないことは、なぜか知っていた。
「わたしがしたの」
声はルオディックの背後から。その声は、ルオディックの中にある記憶をまだらのようにかき混ぜる。はっきり何かを思い出すわけでもなく、何も思い出さないわけでもなく。
記憶をつかまえようと、声に振り返ると、朱い陽がルオディックの前に黒い影を映し出した。
黒ずんだ人間が、艱難辛苦の相で天を掴もうとしていた。しかし、時が止まったように動かない。
こと切れているのだ。動き出すわけがない。
「この……」
――あくまめ
ルオディックの口が動こうとし、止まる。
違う、これは……おれの言葉ではない。
そう、この魔女が、望んでこんなことをするわけがない。おれと違い、この魔女は他人の死を怖がっていたのだから。
そんな思いがルオディックの言葉を止めたのだ。
……そう、おれと違い。
おれのこの手は、既に、朱に染まっているのだ。
しかし、彼が自分の掌に視線を落とすと同時に蟀谷に鈍痛が襲い掛った。なにかが、閃いた気がしたのだ。刹那の銀光。しかし、その痛みを抑えられず、ルオディックは思わず蹲ってしまった。
そんなルオディックに魔女が切ない瞳を投げていた。
「どうして……」
その瞳とともに発せられた言葉も、切なく響く。
そして、今度は目の前が光に埋め尽くされて、視界が奪われた。
ときわの森の大樹の前。
幼いあの魔女がその大樹が零す木漏れ日を手に受けて遊んでいた。
気がつけばルオディックも随分と幼い。
ルオディックに気づいた魔女が、あの黄緑色の瞳をルオディックに向けて不思議そうに尋ねる。頬に手を遣ったルオディックは、自分が泣いていることに気がついた。
「ねぇ、それなに?」
「うるさい」
幼いルオディックは、女の子に泣き顔を見られたことが恥ずかしくて、強がっていたが、魔女が言い募るのだ。
「すごくきれい、ねぇ、それちょうだい」
あの新緑色を輝かせ、魔女がルオディックを見つめ。
そして、言った。
「なんでも願いを叶えてあげるから」
と。
だから彼は、叶えられもしない願いを腹立ちまぎれに、言ったのだ。
『じゃあ、お姉ちゃんを守って』
ルオディックは、そう願っていた。
存在しないはずの……。
黒髪黒目の……。
二つほど年長の、魔女に取られた姉の存在を。
そして、また海の中。
光の向こうに白い手がある。
声がした。
「わたしを魔女にすればいいだけなのよ」
と。














