『森の中②』
ほんの少し光を含み始めた雨上がりの森は、本来ならば魔獣にとっても行動開始の時間のはずだった。時に鳥が羽ばたき、木々の水滴を落とす音がする。
小動物が枝をしならせる音がする。
しかし、どれも魔獣のものではない。
魔女は大人しくルオディックの背に掴まっている。
今落ちたばかりの雨粒の音にも、どんな音にも驚かずにじっと。
そんな魔女が唐突に言葉を発した。
「あっち」
指し示すために伸ばされた人差し指は、ルオディックが思っている方向とは反対を向いていた。
「だが……」
リディアの大樹へは、こちらの方が近道のはずだ。
「銀鈴がいるの」
ルオディックの戸惑いに、魔女がまた別の方向を指し示した。
その先には、静かに小枝に掴まる銀色の鈴のような小鳥、銀鈴がいた。
「あぁ、だから……」
銀鈴は聖獣だと言われているが、リディアに仕えるものだった。そして、人を惑わし、森の奥へと迷い込ませるのだ。銀鈴の声を聞いたものは、熱に浮かされたような、夢を見る。そのまま森に吸収されるとも言われている。
そして、その声は歌うように美しく、その声に人は、簡単に誘われる。
だから、ルオディックは素直に道を変えて歩き出した。わずかに回り道にはなるが、案外、この変更が後発のリディアス兵へのミスリードになるかもしれない。
どんな声で鳴くのかも知らないが、聖獣と言うのなら、この変更が『幸』となればいいと、思いながら。
しかし、ルオディックには聖獣と魔獣がどう違うのかは、分かっていなかった。
人間と魔女がどう違うのかが分からないのと同じで。
ルオディックとこの魔女がどう違うのか、分からないことを考えて。
だから、ルオディックは独り言ちてしまったのだ。
どう違うのだろうと。
「魔獣と何が違うんだろうな……」
そのルオディックの言葉に思いがけず、はっきりとした魔女の返事が返ってきた。
「分からないけど。でも、違うのは確かなの。動物と聖獣、魔獣と聖獣の差も、分からないけど、動物と聖獣は時間を持っているから……魔獣とは違う」と。
その明確な答えにルオディックは驚きつつも、その言葉に耳を傾けていた。
「魔女も同じ。この世界に時間を持たない者……あなたたちが時の遺児と呼んでいるものですら、人間と変わらない彼女たちでさえ、今の世界に『時間』はないわ」
そして、ルオディックは魔女を背負ってしまったことを後悔した。今、彼女はどんな表情を浮かべてそんなことを語ったのだろう。領主館では、敬語を使い始めていた魔女。森の中、ここは彼女の領域である。
まるでそれを示唆するように、抜けた敬語。
意志を持つ声。
知りたくて、それでも、それを怖がる自分がいる。ルオディックは、そんな自分の中に生まれる矛盾に黙った。
「あなたは違うでしょう?」
「そんなの……分からない」
「『ルオディック』は違うのよ」
魔女の声はルオディックの背中に小さく落とされる。ルオディックはそれ以上、答えられなかった。
きっと、ルオディックは彼女に本当は同じだと言って欲しかったのだろう。
ルオディックは自分でも分からない答えに、曖昧な結論を出し、足に力を入れて速度を上げた。
魔女はその後、何も話さなかった。ルオディックもまた。
普段通らない獣道でも、陽の当らないその道にある草丈は短く、足元を濡らす程度だ。魔女も軽い。森は静かだ。彼女を背負っていることでの不利益は、ルオディックにもたらされそうにない。
両手をふさいでいるルオディックにとっても、危険ではないのだ。
雨上がりのときわの森なのに。
そして、その状況が再びルオディックに希望と絶望を見させようとするのだ。
魔女は時の遺児だから、魔獣に見つかりにくいから。
だから、例えルタがやってきたとしても、単なる時の遺児の彼女を渡す必要などないのではないだろうか、と。
リディアスの兵だけならば、ときわの森の中で撒くことは出来る、と。
ディアトーラの住民、いやクロノプス以外は森を歩けないのだから。いかにリディアスの兵であろうと、リディアの子孫だとされるかの国の王の子孫であろうとも。
リディアは、彼らに加護を与えていない。そんなものに仕える聖獣にであったのだから。
そして、ルオディックの足が森の中央、リディアの大樹の聖域を踏んだ。
いつ見ても、見事な大樹だった。空を押し上げるように伸びゆく枝葉と、他を寄せ付けないようにして、大地を掴むたくましいその根と。
そして、森が動く気配を感じた。あぁ、動き出したんだな……。そんな思いがルオディックの胸を占める。
どこか、まだ遠くの方にある気配。
ここからなら。雨はもう降りそうにない。きっと、大丈夫だ。
太陽の位置を確認したルオディックは、魔女を静かに下ろした。
「ここまでだな」
ルオディックの言葉に、魔女はこくりと頷いた。何もかも知っているかのように。
そう、彼女がここに棲むだけの魔女だったのなら、きっと、そのような答えは出さない。
彼女は、時の遺児でもないと、自分で言っていたのだから。
トーラ……なのだ。
「もうすぐ、銀の剣を携えた者とリディアスの兵がくる。その前に村へ帰って、それを知らせろ。時間は稼ぐから」
それは、クロノプスを裏切る行為だ。ルオディックはそれを承知の上で、下ろした魔女に松葉杖を差し出した。
魔女は素直にそれを受け取る。そして、ルオディックから一歩離れ、穏やかな笑顔を見せた。
「ありがとう」
そんな風に笑えたのか。ルオディックの気持ちは、凪のように穏やかに、鎮まっていく。
「時間はない。急げ」
時間はないのだ。だから、動かない魔女よりも先にルオディックが彼女に背中を向けた。それなのに、その背中に声が掛けられる。「あの……」と。
思わず振り返っていた。
掴めなかった何かが、ルオディックの脳裏に息を吹き返そうとして。
とても頼りなく、とても……。
とても、大きな存在として自分の中に在った者の存在が。
ぼんやりとして、やはり消えていく。
目の前にいる魔女が、ルオディックをまっすぐに見つめていた。
「魔女に優しい人間がいるなんて、知らなかった」
優しくなんて……。しかし、ルオディックが言葉を発する前に彼女が言葉を続ける。
「だから、お礼になんでも願いを叶えてあげる。わたしなら出来るの。この時間の存在しなかった者を、過去に蘇らせることも」
魔女の言う存在しなかった者は『姉』に他ならないのだろう。ターシャが昔語りでもしたのかもしれない。
もちろん、発せられた言葉からの推測であって、本当のところは、ルオディックには分からなかった。しかし、……。
「ここで一緒に生きていける。それで幸せになれるのよね」
その魔女の言葉に、ルオディックは穏やかに笑う。
確かに母の願いは叶うのだろう。もしかしたら、そこに『幸せ』があるのかもしれない。
だが、それはルオディックにとっての最善の答えにはならない。
そんな気がした。
誰かが消えた上に成り立つ幸せなど……、それに縛られるだけである。
「ターシャが何を言ったのか知らないけど、そんなことをすれば、お前が消えるだろう?」
そう、トーラは一度しか願いを叶えられない。
そして、ほとんどのトーラは、自分の願いを叶えトーラになった人間だ。だから、トーラとして破綻しない限り、器であるだけの魔女。
しかし、彼女がそんなことを簡単に言えるというのなら、……。
己の願いで生まれたのではなく、誰かに願われた結果、生まれた存在。今あるこの世界の何にもつながりのない、最も恐ろしいとされる『魔女』なのかもしれない。
だから、ルタが自ら銀の剣を携えて現れた。
しかし、その者は誰かが誰よりも望んだ存在だ。
だったら、生きるべきだ。
魔女狩りを起こすのは、いつでも人間の都合が大きいのだから。それが、ルタだとしても、ルタはただ自分の守りたい世界を守っているだけなのだから。どう考えても今、目の前にある魔女が危険には思えないのだから。
そう、生きるべきだ。
ルオディックの中にある答えは動かない。そして、ルオディックは決して優しさでも、魔女を匿ったわけでも、怪我の手当てをしたのでも、……まして、リディアスからルタから守ろうとしたのでもないのだ。
すべては、この国の平穏のためなのだから。
「お前がクロノプスのことやディアトーラのことを心配する必要ないよ」
この魔女がどういう意図でそんなことを言い出したのかは分からないが、魔女が心配しなければならない者は、己自身だけなのだ。
「お前に心配してもらわなくちゃならなないほど、ディアトーラは弱くないから」
ルオディックは、落ち着いて彼女に伝える。魔女はその返答として、言い募ろうとする。
「大丈夫だから、……願って。だって……わたし」
何が大丈夫か、ルオディックには分かりたくなかった。確かに、トーラのすべてを知っているわけではない。だから、もしかしたら、本当に大丈夫なのかもしれない。
初代トーラは、幾度となく人間の望みを叶えたというのだから。
その存在を望まない『アナ』が、『終末』という望みを託すまで、ずっとトーラは人間の願いを誰かれ構わず叶え続けたそうなのだから。
トーラが際限なく願いを叶え続けた結果は、人類の地獄絵図だ。だったら、彼女は人の目に触れることのない場所で生きている方が、いい。
しかし、今までの彼女の『大丈夫』は無理をすることだった。
そんなことまでして願いを叶えてもらう必要もない。それに、ここから先に広がる未来が、絶望と決まったわけでもない。しかし、答えを与えなければ、魔女はずっと動かないのだろう。魔女の真剣な表情を見ていると、そんな風な考えをルオディックにもたらした。
そう、今、ここで何かを願うのならば。
「そうだな……」
そして、きっと、これが最後の会話になるのだろう。
「願いがあるとすれば、お前が無事に村へ帰って、無事に過ごしてくれることかな」
魔女が首をかしげる。
「お前が無事に過ごしたということは、ディアトーラは、今回の魔女狩りをうまくやり過ごしたということだ」
ルオディックのつないだ言葉に、魔女が反対側に首をかしげる。しかし、視線を動かした後、納得いかない表情で頷いた。
「よろしくな。気を付けて帰れよ」
ルオディックは、穏やかな微笑みで、そのぎこちない足取りの魔女を見送った。














