『鍵を閉める』
雨は止まない。ディアトーラは雨の多い国だから。
それは、きっと。
魔女がずっと泣いているから。
魔女は、そんな風に真っ暗な窓の奥から聞こえてくる雨粒の音を聞いていた。
ただ、……。
この雨は、もうすぐ止む。
そんな気がしている。
眠ることが出来なかった魔女は、枕元にあるランプの灯を大きくし、ベッドの脇にある小棚の上に手を伸ばした。そこには、ターシャが準備してくれた肩紐のついている小さな鞄が置いてあるのだ。
鞄の中に入っているのは、新しい刺繍の布と糸。
布は刺繍枠にぴんと張られてあって、ターシャが描いてくれたローズマリーの絵がある。
ルオディックとともに昼の食事を取った後、ターシャが急いで準備してくれたのだ。魔女は、明日の朝早く、ターシャが来る前に森へ帰るのだそうだ。
ただ、それだけで。魔女が森へ帰るのは当たり前。それなのに、ルオディックもターシャも浮かない顔だった。
たぶん、リディアス兵がここに来るから。
魔女がここにいるから、魔女狩りが起きるから……。彼らは『魔女』に優しいから、だから浮かない顔なのだろう。彼らの表情に、魔女はそんなことを思った。
そして、その話をしたルオディックが、やはり魔女の足の具合を尋ねてきた。
「足の具合はどうだ?」
魔女はその問いに、丁寧に答えた。ターシャがその方がいいと言ったから。
「大丈夫です。歩けます」
松葉杖を使えば歩けるし、片足で跳ねても進むことは出来る。
森を抜ける時も、跳ねていたのだし……。両足をついてしまって転びはしたが、あの時よりはずいぶん痛くないのだから、きっと大丈夫だと、魔女は思ったのだ。
それなのに、ルオディックはやはり苦い表情を浮かべた。何か間違ったことを言ったのだろうか、今度はそんな心配が過った。
お昼のごはんは、ターシャの作った温かいスープと柔らかいパンだった。そうだ、まだ手を付けていないから、それを心配しているのかもしれない。
きっと、食べていないから……。
人間はご飯を食べると、安心するみたいだから。
だから、パンとスープを一口ずつ口に入れ、魔女は彼に伝えた。
「パンは美味しいですし、スープも温かいので、体が温まります」
すると、彼は変な顔をした後、「よかった」と笑った。
うん、よかった。笑ってくれて。
魔女はそんなことを思い出しながら、視線を刺繍枠へ戻した。
魔女にご飯をくれる人間は、魔女にとって良い人間である。
そう……いつもそうだったから。
だけど、どうしてだろう。どうして、そんな風に思えるのだろう。
森の外に出たのは、初めてのはずなのに。
刺繍枠を持つ指の上に温かい水が落ちてきた。
それは指の冷たさに急激に冷えて。
頬を伝う間はまだ温かくて。
なぜだろう。
刺繍が完成しなかったことがこんなに『悲しい』につながるなんて。
どうして、忘れたくない……につながるんだろう。
忘れないで、なんて思ってしまうのだろう。
魔女は、彼の記憶の中に在りたいと、願っていた。
暗闇にわずかな光が滲み出ていた。
夜が明ける。
魔女は、頬を擦って涙の痕を消した。
☆
まだ魔女は眠っているのだろうか。あと一刻もすれば、空が白み始める。雨の音は既にしない。
雨も上がったのだろうか。
魔女を連れてときわの森へ入るには、ちょうどいいのかもしれない。
しかし、同時に魔獣も活発に動くだろう。
リディアスの兵も、ディアトーラにたどり着きやすくなるだろう。
足の悪い魔女を無事に村へと返すには、あまり良い状態だとは思えない。
ルオディックは、そんな言い訳のようなものを脳裏に浮かべながら、なぜか魔女を返すことをためらう自分を不思議がっていた。
何をどう取っても、魔女はここにはいられない。
たとえ、トーラでなくとも、リディアスに目を付けられた魔女が、彼らの目の届く場所にいることなど、あってはならないのだ。
リディアスは、魔女を人間と同列だとは思っていないのだから。
魔女にとって、悲惨な未来しかないのだから。
ルタだけが現れたのならば、彼女がトーラでなければ、足が治るまで匿っていても問題なかったのに。
ターシャには外門の鍵を持って帰らせた。
明日、ここにリディアス兵がやってきたら、ダルウェンを連れてその門を開けるように伝えてある。
賽は投げられているのだ。
躊躇している暇などない。
ルオディックはあの模造品の銀の剣と森の中で振り回しやすい脇差しを腰に下げ、自室を退室した。
☆
魔女の部屋の扉が叩かれる。
きっと、ルオディックだ。
魔女はその声を待つ。
「夜明けが近い。そろそろ出立する」
「はい」
扉の向こうの声へ返事をした魔女は、そのまま刺繍枠を肩掛け鞄に入れて、松葉杖を持った。体重を松葉杖にかけながら、ゆっくりとドアノブを回す。
足元はまだ暗い。
扉の向こうには、装備を整えたルオディックが立っていた。そして、やはり魔女の足を心配する。
「大丈夫か?」
魔女はこくりと頷いた。そして、ルオディックを見上げる。彼の持つ燭台の光が魔女の顔を照らしている。
「痕、残ったな……」
あぁ、頬の傷のこと。
「大丈夫」
だって、全然痛くないし。
「痛くありません」
だけど、ルオディックの表情は暗いままで、暗い口調のまま空の状態を魔女に伝えた。
「雨は上がったが、足場は悪い。助けが必要だったらすぐに言うんだぞ」
助けはいらない。森は歩き慣れている。魔獣も来ない。
魔女はそんな風に思ったが、やはりこくりと頷いた。














